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| 青い目の人形 | ★☆★ メリーちゃん & タミーちゃん ★☆★ |
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![]() 学校紹介に唐突にお人形が登場し、「なぜかな?」と感じられるかもしれませんが、網代小学校の児童や教職員のみならず、卒業生やこの網代の町の人々にとって、この 「青い目の人形」は、とても大切な存在です。「青い目の人形」のお話の始まりは、今から80年以上前の尋常高等小学校時代の1927年(昭和2年)に遡ります。 「青い目の人形」は、1927年(昭和2年)に、アメリカの宣教師 シドニー・ルイス・ギューリック博士の呼びかけにより実現した、日米両国の子どもたちの心の懸け橋となるべく、友好を願いアメリカから日本へと贈られてきた友情人形です。その背景には、目まぐるしく変化する複雑な国際情勢があるのですが、そんな中、恒久的な平和を願い行われたのが、この友情人形による民間国際交流でした。日本でもこの友情人形に対して、渋沢栄一氏が中心となり、クリスマスに合わせて、お礼にアメリカの子どもたちへと市松人形58体の答礼人形が贈られました。 こうして「青い目の人形」と答礼人形を通じて、心温まる日米親善活動が行われたのでしたが、その後日本とアメリカ両国の関係は一変し、敵国どうしという間柄となり、歴史が物語るように暗い戦時下のもと、様々な検閲などが行われました。友情の証であった「青い目の人形」も例外ではなく、敵国の人形というだけで、焼かれたり竹やりで突かれるなど、その大部分が破壊され処分されるという数奇な運命をたどりました。 その後戦争が終わり、敗戦後の日本においてその存在は影となっていましたが、1973年にNHKにて放送された番組がきっかけとなり、全国で隠され残されていた「青い目の人形」に再び注目が集まり、相次ぐ発見とともに、再度日米両国の子どもたちの心の懸け橋となるべく、その活動が再開し現在に至っています。 網代小学校には、現在1927年にギューリック氏により、初めて天洋丸で日本にやってきた12,739体の友情人形のうちの一体である「メリーちゃん」と、1991年に、ギューリック氏の孫にあたるギューリック3世がお持ちになられた「タミーちゃん」の二体の人形が大切に保管されています。 「メリーちゃん」は、全国でも約320体ほどしか残されていない友情人形の中でも、健全な状態で保管されてきた数少ない人形で、今でもきちんと瞬きをします。洋服は、1983年に東京池袋の西武デパートにて開催された「青い目をしたお人形」の同窓会に合わせ、網代小学校の卒業生により新調されたものとなっています。 「タミーちゃん」は、1991年(平成3年)6月26日に、祖父にあたるギューリック氏が贈った「メリーちゃん」を、網代の人々が長い間大切に可愛がってくれたお礼として、わざわざギューリック3世が自ら奥様と長男、長女、次女を伴い、網代小学校までお持ちになられたものです。 当日は、137名の児童と隣接する幼稚園の園児26名、教職員や教育委員会の関係者はもとより、網代の町中の方々がギューリック一家を出迎え歓迎会を行いました。学校で行われた歓迎会や人形のお披露目の様子が、テレビや新聞などで報じられたため、全国に網代小学校の様子が紹介されました。 そんな友情人形を通じて行われてきた日米両国による民間レベルの親善活動は、多くの子どもたちの心に平和や友好の大切さ、国を超えた人と人との絆意識を芽生えさせ、巣立っていく網代っ子の心に深く刻まれています。子どもたちが受け継いできたこの「青い目の人形」による友好の歴史は、そのまま網代小学校の歴史ともなっているのです。 (参考文献:青い目の人形資料館)
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![]() メリーちゃん ![]() タミーちゃん |
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