2022年加筆
     「生徒から見れば典型的自由主義だが、教師から見れば典型的集団主義という指導の存在」
     「社会主義社会での革命政党ないし左派諸政党による指導と個々の人民の自由は両立」
     これらの命題は多数の人々の常識に反し馬鹿げた誤りのように見えますが、大学教養課程で学ぶ物理学の 分子運動論や数学「Δ-ε論法」を忘れていなければ、異なる結論になるでしょう。 ヘーゲル・マ ルクス流の用語を使えば「弁証法」の例になります。

     空気を暖めると分子運動速度は上昇します。個々の分子を見れば遅くなっている分子もあるのです が、全体としては速くなるのです。 個々の粒子はバラバラに動くように見えるが全体としては法則 に従う…という概念を習得すれば、「個々の生徒の進む方向は様々(自由)だが、全体としては1方向に 進む」という指導の存在がが理論上あり得る事となり、現実にその指導が存在するかどうかが問題と なりますが、そのような指導は一部の左派教師たちによって開発されています。

     具体的に考えて見ましょう。 「規則はないほうが良い」と思っている子供は多数います。 「土 日の昼食は寝そべってテレビを見ながらカップラーメン」という子供は自分の生活経験から「規則は ないほうが楽しくて良い」という考え方をするようになって当然でしょう。
     そのような子供に対して右派教師は「道徳教育」が必要とし、大多数の左派教師は「民主的討論」 が必要と主張してきました。 しかし教室での話し合いでは「タテマエ論で規則が必要という事にな るでしょうが、ホンネでは必要ないと考える」という生徒が多数残りやすい。 生活はマルクスのいう物質 ですからタテマエ論に優先します。

     一部左派教師は「規則があったほうが楽しいという経験をさせる」指導を採用し、規則があるほう が楽しい事もあるという考え方に生徒がいつのまにか達するようにしました。 例えば酒井一幸氏の 創案になる中学生の「コース自由・道草自由の山中遠足」では、「集団行進」や「1コース班行動遠足」 より楽しいという理由でほぼ生徒全員がその遠足を支持します。 しかし迷子などの危険を避けるた めの規則が必要な事は「問題児」でもわかる。 
     「安全対策としての規則つきコース自由・道草自由遠足」と「他の方法での遠足」のどちらが良い かを生徒討論にかければ大抵は反対票ゼロで規則つきの遠足が支持されます。実際におこなわれた遠 足が楽しければ「規則があったほうが良い場合がある」と「問題児」も考えるようになる。

        教師(や優等生)が大多数生徒を直接指導しようとすれば、実際にはタテマエ論に基づき生徒に対す る「生活規範、道徳の押し付け」を行うことになりやすい。
       「問題児」でもホンネで(楽しいから)賛成するという行事をする…実践の結果、問題児の考えが変 わり進歩する…というのですから、この指導は「教師と生徒(「問題児」を含む)との統一戦線になっ ています。 行事も規則も授業もすべて「教師と生徒とのの統一戦線」を前提としたものにし、徳 目や教師常識を押し付けられたと考える生徒皆無を目指す…というのが、その一部左派(リベラル派)教師 の指導方法となります。 
     「押し付け」皆無ですから生徒から見れば典型的自由主義です。 似た方法で「正義」「団結」「学 年・クラス目標」など、「タテマエ論の押し付け」が横行しやすい討論を全廃し、有志生徒の 勝手な(教師の直接指導なし)運動「いじめ実力阻止」「校内暴力の実力制圧」「非行生徒を仲間に入れ て非行をなくす」…などの集団主義的目標を実現する事が可能です。 

     一時左派の間で流行した「集団主義」は、「生徒の大多数は労働者の子弟であり、教師は労働者であ る」…・「両者の間に基本的矛盾はない」…・「教師は生徒の先頭に立って行動すべきだ」というスタ ーリン式理論に基づいたものでした。 その結果一時的ではありますが、「目標を決めて競争」「ボロ 班批判」といったスターリン式社会主義社会の「社会主義的競争」「人民裁判」に似た実践が登場する 事になってしまいました。 その後これら生徒に総スカンを食らう実践はなくなりましたが、理論は そのままですから、大多数左派教師の実践は中途半端で労多くして功の少ないものになっているよう に見えます。
     ではこの理論はどこが間違っているのでしょうか。
     スターリン著作の特色の1つは「副次的と思われる要素を除外し、議論の前提となる局面を単純化 してから議論をはじめる」事です。 現実には教師と生徒との間の矛盾は大きく、教師が生徒の先頭 に立つ事が不可能な場合が多い。 たとえばエリート校でないかぎり「つまらなくてわかりにくい授 業を我慢するのはつらい」という生徒が多数います。 授業中静かにしろというタテマエ論をいくら 繰り返しても、「それでは苦しい」という生徒のホンネはそのままでから教師は生徒の先頭に立てない。
       100%の授業を楽しくてよくわかるものにするのは事実上不可能ですから、我慢困難という生徒たちと話し合い  妥協点から対策を進めるのが「授業中騒ぐ生徒」との統一戦線となります。 つまり妥協した水準以下の授業中  騒動なら「問題児」を褒めるという指導になります。

      「教師と生徒との間に階級的矛盾はない」という事は「教育方法が進歩すれば教師と生徒との間の矛 盾が小さくなる」「無限に近い進歩なら矛盾はゼロに近くなる」という事です。 ですから現実には「必 要なだけ教師と生徒が一致するには、一致を実現するまでに十分な実践をつみかさねれば良い」ので あり、これは「Δ-ε論法」として大学1年1学期で学ぶ数学の基本的論法です。 

          同様な議論をすれば、社会主義国でも市民的自由は確保可能という事になります。 ただし革命政 党/左派政党が上から宣伝を繰り返して人民を統一し前進させるというのでなく、異なる考えの人々の 統一戦線運動つまり多様な無党派運動によって「必要な程度に人民の統一と前進を確保する」という 事になります。 
     社会主義社会では政府、革命政党/左派諸政党、人民の間に基本的矛盾(階級的矛盾)がないから、人 民の大多数が何らかの統一戦線的運動(無党派運動)に参加するようにすれば、「必要なだけ政府・左翼 政党・人民の間の矛盾を減らす」事が可能という事になります。

     マルクスの時代には自然科学・数学で以上のような論理について専門家が研究をはじめたという段 階でしたから、マルクスに以上のような議論がない事はマルクスの限界でなく時代の限界という事に なります。 レーニンや初期毛沢東の著作は素晴らしいものであると思いますが、同様に時代の限界 があると思われます。 彼らに不正確な議論(統計的議論の必要な場合にオール・オア・ナッシングの 論理を用いる誤りが多い)や観念論の残りかすがあるのはやむを得ないと考えるべきです。

        スターリンはマルクス、エンゲルス、レーニンを無謬の絶対神とし、自分を無謬の預言者とする宗教 「マルクス・レーニン主義」を製造したと考えられます。マルクスの理論によればマルクスの理論も時代に制約された相対的真理ですから、マルクス理論は無謬で絶対的な真理だという主張は唯物論でなく宗教です。 その宗教はマルクス等から受け継いだ人民の側の思想とスターリンの粗雑論理(カルトに近い場合があ る)の雑炊だと考えられます。

     「民主主義」を絶対的に正しいとする人々が日本では多数ですが、「民主主義にもとづく諸制度」と「金満階級1% の支配つまり大資本家の支配」が両立しているのが多くの先進国でしょう。人民の大多数が労働組合運動、文化運 動、スポーツ普及運動…など多種の無党派運動に参加していれば、どの政党の主張が正しいか自分の活動する世界 から判断する事ができます。 そうでなければ宣伝が判断の基準となり金満階級の御用政治家・御用評論家の宣伝 を信用する人が多数派となり、実質的には金満階級/大資本家の支配となりやすい。
     途上国では「民主主義」を宣伝する人々が巨大帝国主義国の走狗で、独裁者の側が民族の利害をある程度反映し ている例が多いと思われます。 宣伝力では超大国の金の力に負けそうだから、反帝国主義勢力(民族資本家が普通 は中心)は独裁を支持し、「水道も大国巨大会社経営、電気も大国巨大会社経営…空気を吸う事以外の行動はすべて大 国巨大会社の金儲け」「法律・制度は民主的」という帝国主義支配を防止している。

    2022追加の部分終了。

     主な論文です。すぐあとの1-8の「 」をクリックすると出ます。 仮説実験授業関係や伊豆の自然を守る運動、ピアノ、ロックガーデン等は最後のリンクになります。

  1. 全共闘は前衛党に代わり得るか (試論) ----東大農学系院生自治会理論委員会1970

東大闘争ビラ・前衛党の欠陥をゼロにできないが最小にする方法/独裁・民主的形式それぞれの正しい条件
2. 新唯物論の社会主義社会 (試論)―――東大農学系自治会理論委員会1970

多数生産様式・多数政党の労働者権力平衡型社会/欠陥をなくすのでなく最小にする社会
3. 東大闘争の全人民的意義 ---東大農学系院生自治会理論委員会・東大闘争総括第一部補章1970

民主化勢力の多数の欠陥を明らかにした農学系自治会旧執行部総括・改良と革命の関係
4. 経済大学院院生自治会執行部(フロント系)の「中間総括案」とビラの研究 ---東大農学系院生自治会理論委員会・東大闘争総括・第二部九章二節 1970

歴史科学的な全共闘研究の一部/マルクス主義一潮流からアナーキズムに変質した経過と理由
5. 教育実験の類型と方法 ---第一法規「授業改革事典」論文1982

偏りをなくす事ができない授業比較実験で信頼性を最大にする実験計画
6. 酒井一幸氏の中学校行事改革 ---2006  

楽しいから生徒は勝手に努力し真面目になるという新教育方法を酒井氏が部分的に発見し、行事指導の範囲では「真面目に努力しよう」という道徳押し売りが不要になる。 個性を重視しながら平等という教育方法。
7. 訓話や討論より先に生活を変える指導---2007

生徒は楽しいから勝手に真面目になり努力するようになるという場を行事以外でも連続して与える今村・成見両氏の実践。生徒が勝手にやる校内暴力実力制圧・いじめ制圧・非行のあとかたもなくなるというレベルの非行克服…すなわち自主管理が成立。 熱血教師の活躍する場は皆無という機械的指導の結果を客観的基準で示す。
8古典唯物論の正しい範囲、諸定義

マルクス等にある観念論の残りかす、新唯物論用語の定義、この新唯物論より更に正確な唯物論への道。


 「マルクス・エンゲルス・レーニン・毛沢東の唯物論は時代の制約のため
不正確な直観的議論が多数含まれていて十分論理的とはいえない」「そのため社会主義論や前衛政党論、大衆運動論…マクロな諸科学では20 世紀後半になると彼らの理論が適用できない場合が多くなった」という主 張は1963年当時「修正主義」の一種とされ、問題外扱いであった。 21世紀現在この主張が正しい事はいっそうはっきりしていないだろうか。マルクス等の時代には「確率と尤度」「十分大きい、十分小さい」「近傍」 「たえず増大するが有界」「混合方略」…など現代の大学教養課程レベル科学の諸概念や諸論理が知られていないかごく少数専門家だけの所有物で あり、彼等はこれらの概念、論理を学ぶ事ができなかったから,理論が不正確でも彼らの責任ではない。

 すなわち「東大民主化は常に可能だが"上に有界"(微積分)であり、高度 に発達した資本主義国日本では社会主義革命成功まで東大が人民大学になる事はない」「人民の被害がゼロにはならないが最も少ないという確率最 大」「基本的矛盾が残っても人民の被害が十分少なければその基本的矛盾 を無くした場合に生ずる新矛盾による被害との比較次第でその基本的矛盾を許容」…などをはじめ多数の初歩統計学論理や初歩微積分学論理がないため直観にもとづく事になり、誤った結論に達する事が少なくないのである。

 コペルニクスやニュートン、ダーウィン、ウェゲナーなどの自然科学における天才の研究は基本的部分で正しいが時代に制約された誤りが無視できない事も周知である。いかに優れた研究も時代に制約された誤りがあり、「近似的に正しい」研究である事をマルクスとエンゲルスは明らかにしたが、彼らの研究もその例外ではない。唯物論とはすべての科学的論理を抽象化したものであるから、マルクス等の神々が下し給うた聖典を解釈する学ではなく時代とともに発達する科学の1分野であろう。

 最初の4論文は有名な東大争議のときの東大大学院農学系理論委員会(闘争当時の自治会旧拡大執行部が院生総会の決議で移行したもの)の全体結論、またはその有志(個人)試論である。

 「全共闘は前衛党に代わり得るか」は、1971年の全共闘側M氏との公開論争ビラで最初に公開された新唯物論論文である。上記概念を使った唯物論に基づく組織論、運動論でM氏の挙げた前衛党の諸欠陥は解決される… つまり氏の挙げた前衛党欠陥はゼロにならないが誤りのための人民被害が最少になる事を示す一方、M氏の議論は前衛党欠陥をゼロにすべきだという無茶前提から出発したため、「氏の言う前衛党欠陥をゼロにしたため致命的新欠陥が生ずるが、その新欠陥を考えないから欠陥なしと信ずる」という主観的観念論となり、氏のいう「スターリニズム」(当時の日本共産党方針)より遥かに大きな誤りに至る事を示す。実際のビラには実名が書かれていたが、現在は特定の人物を誹謗する意義がないだろう。

 「東大闘争の全人民的意義」は委員会全員の責任で書かれた闘争総括なので、当時の日本共産党綱領に反しない範囲で書かれている革命論、大衆運動論だが、その革命論は具体的で新唯物論の社会主義社会論・移行論と高度の整合性を持つ。 すなわち資本主義末期の政治・経済的構造が新唯物論の社会主義社会と権力の所在を別とすれば酷似している事が示される。
 「新唯物論の社会主義論」は最初の論文と同じく個人の責任で書かれたものだから、日本共産党綱領にとらわれず「先進国社会主義社会としては国営企業・自主管理企業・純資本主義企業・労働者側からの制約の強い資本主義企業、の4つが互いに移り変わり平衡状態を保つ一方、原理主義的労働者政党・実用主義的労働者政党・右派政党がそれぞれ一定の大衆的支持のもとに存在するという社会」が合理的すなわち「最も速く共産主義社会に近づく一方、その過程での人民の被害を最少にする」事を示す。
 その社会は計画経済が最も正確に遂行可能という点ではマルクス等の考えた社会主義社会に最も近い。 その社会はマルクス等のいう共産主義社会になる事はないが、その社会に無限に近づく。
途上国では国営企業と資本主義企業の組み合わせと独裁に近い政治から出発し、前記の平衡型社会に移行すべきだとする。

 「経済大学院自治会執行部の中間総括案とビラの研究」は委員会の責任で書かれているが、「論争相手は悪魔であり、自分たちは正義の味方で無欠点」という立場でなく、「存在したものは合理的」というヘーゲルやマルクスの歴史観にたちフロント派の方針がマルクス主義の一種からアナーキズムの一種に変わった経過とその原因を分析する。 当然自分たち(当時の執行部)の方針も誤りが有り得、歴史科学的な批判の対象となるという立場であり、また当時の日本共産党綱領に反しない範囲で書かれているが、やはり新唯物論の社会主義社会への移行論と高度の整合性をもっていて、「改良」「民主化」の意義を示す論文でもある。

 「教育実験の類型と方法」は第一法規「授業改革事典」(1982年版)に書いた論文である。 臨床医学実験で標準とされる二重盲検法が採用できない教育実験では偏りをゼロにできず、結論の確からしさや尤もらしさを数量で評価できない場合が多い。その場合信頼性を数字で示す事はできないが信頼性を十分大にするという実験計画、すなわち「数字で示す事はできないが確からしさの大小は客観的に判定可能」という直観確率の論理を採用すべきだとし、実験計画例を提示した。その実験的研究そのものは小泉・藤岡との連名で教育工学雑誌7巻に発表した。

 「酒井一幸氏の中学校行事改革」は、教師が先頭に立つ遠足やパック式修学旅行を否定し、班行動見学式修学旅行やコース・道草自由遠足、多数コース自由選択登山などの中学校行事改革を1959年発案し実行した酒井教諭の実践と思想をまとめたものである。それまで民主的教育と考えられてきた「上から指導して生徒自治の経験をさせる」という方法でなく、「現在実現できる行事では最も楽しい方法だという事を生徒に理解させることによって生徒の支持を得、生徒の熱意・積極性を前提として実現困難と考えられてきた行事を実行」という諸方法を酒井氏は工夫した。

当然生徒は「まじめに一生懸命やれ」という説教や教師が組織する「討論」ぬきでまじめになり勝手に努力する。例えば5コース自由選択での班行動登山で、他校コースより2時間長い鍛錬コースに6割の生徒が参加した場合、班長が夏山リーダーとしての最小限の知識を学び、班員が厳しい規律を守らなければ安全でない。しかし大変な努力と厳しい規律が必要なその方法をほぼ100%の生徒が支持選択し、彼らはそれを忠実に実行する。 

 酒井氏の思想と実践には矛盾もあるが、指導の基本的部分は教師と生徒 及び生徒同士の新唯物論統一戦線そのものである。「教師と生徒の立場、利益に基本的矛盾はないはずだから、教師が生徒の先頭になり生徒を指導する」つまり「教師が生徒を説得する、生徒討論を組織する」というそれまでの方法は、「教師と生徒の立場、利益が一致しない」場合が多いから生徒に対する押し付けであり、限られた場合にしか成功しない。

例えば指導要領準拠のつまらない授業を静かに聞くのは苦痛だから多少は騒ぎたいとする生徒多数の要求と静かに聞いてほしいとする教師要求との矛盾はごく普通であり、「授業態度を良くしよう」という説教も討論も所詮は「道徳」押し付けだから効果に限界があり、大多数の女性教師や年配教師が毎日その矛盾に悩まされている。 

 教師と生徒は要求も考えも異なるから
(基本的矛盾がないから)、十分な実践によって必要な一致を実現する事ができる」
という考え方に立つ指導が合理的である。 この論理は、微積分のΔ-ε論法や
「(設計が正しいから)十分部品の精度を上げれば、必要なだけ製品の品質を高められる」
…と同型の論理であり、その論理が一部専門家のものだったレーニン時代の教育学にそのような考え方にもとづく教育方法がなくて当然であった。   

 酒井氏の方法は今村哲郎氏(映画監督今村昌平氏の実兄)、成見克子氏 によって拡張され、「生徒が勝手にまじめになり、努力する」場面をつぎつぎに与えると、生徒自主管理が成立し、教師の直接関与なしの生徒運動により反抗的問題児やいじめ事件がいつのまにか激減、消滅するという一般的方法に達した。  

 それまで「民主的」とされた指導では教師が先頭に立ち活動家(学級委員、班長)がクラスを動かすというソ連型社会主義(強力な指導者と活動家会議であるソヴェト会議が国民を動かそうとする)のミニチュアになったクラスを目標としていたが、1971年成見氏学級を見たとき、「個性を認め合い、援けあう生徒集団」が教師と独立に行う運動がクラスを動かすという新唯物論社会主義社会のミニチュア(複数政党・市民運動・自主管理の社会)が成立しているので大変驚いた。 

 氏の指導を観察検討したところ、原理的に生徒説得ほとんど不要・臨機応変の工夫不要という指導なので、指導の大部分をプログラムにして自然科学実験なみの客観的記述を可能にし、無競争集団主義と命名した。その定型的機械的指導の「客観的基準で評価した結果」を「生徒の生活を先に変えて生徒の考え方が自然に変わるという指導」に示す。熱血教師の奮戦で何とかなったという多数の文学的実践報告は論文採用の客観的基準で評価すれば知る限り惨澹たる結果である。

 唯物論を正確にするため新しく導入された諸論理はすべて、大学教養課程で学ぶ自然科学で一般的に使われている論理である。 だから専門レベルの科学で登場する諸論理を導入すれば、さらに正確な唯物論が成立し、ここで記した唯物論はマルクス等の唯物論より近似の程度が進んだだけだという事になろう。 すなわち唯物論が科学全体の進歩にあわせて進歩するようになり、すべての唯物論者が「マルクス・エンゲルス・レーニン・毛沢東を尊敬はするが崇拝しない」ようになろう。 そして彼らの理論を「古典唯物論」と呼ぶようになるであろう。


補章「先進的な部活動指導教師たち」理論的意識はしなかったが、実際にはスターリン式でない唯物論にそった実践で驚異的な生徒や親の支持を得、成果をあげてきた教師たち

増山元三郎伝説集・・・唯物論と関係ありません。 葬儀の日配布の漫文ですが、自分で考える事ができる人間の養成についての元三郎の考え方がわかるようにかいてあります。 「増山良夫伝説集」


仮説実験授業・自作授業書集 一部は書きかけです。 風車問題 
自作ピアノ曲 作曲は4歳か5歳のときからですが、ここでは高校時代・・・大学院生時代の作品少々。初期のロマン主義から徹底したリアリズム(映画理論のリアリズムと基本的には同じ)まで
表現豊かなピアノ演奏の物理的基礎 かなり入力したのですが、分かっているすべての技術につきあったのでは、入力の労力が現実的ではない事がわかりました。大切な部分だけを「音楽雑話」シリーズとして書く事に変更。リンク先を切ります。
  「釣り合いから授業中騒動まで」
 唯物論の基本なので入れました。 「主要因」「副次的要因」という概念を使い、マクロな科学の論理構造を記す。 「つりあい」懐疑論から心理学的な生徒指導まで。
      「音楽雑話」  
  「音楽雑話2」  
固増・瑪娜茶金の旅2017(中国四川省)
ロックガーデンの四季
  楽しいからまじめに努力するという教育
子供が勝手にまじめになり、勝手に努力するという「夢」のような教育は現在どこまで実現できるか。訓話 や説教、討論でなく、「努力するほうが楽しい」「まじめなほうが楽しい」ように場をセットして子供が勝手に進歩するようにする。一章は{いじめ」「恐喝」などの集団阻止、非行生徒は生徒達が勝手に仲間に入れて良くするし、生徒集団成績も良いという方法を発見した教師の記録。二章は個人相手にできるだけ勉強を楽しくするという諸方法。