マルクス等にある観念論の残りかす、新唯物論用語の定義、この新唯物論より更に正確な唯物論への道。
「マルクス・エンゲルス・レーニン・毛沢東の唯物論は時代の制約のため 不正確な直観的議論が多数含まれていて十分論理的とはいえない」「そのため社会主義論や前衛政党論、大衆運動論…マクロな諸科学では20 世紀後半になると彼らの理論が適用できない場合が多くなった」という主 張は1963年当時「修正主義」の一種とされ、問題外扱いであった。 21世紀現在この主張が正しい事はいっそうはっきりしていないだろうか。マルクス等の時代には「確率と尤度」「十分大きい、十分小さい」「近傍」 「たえず増大するが有界」「混合方略」…など現代の大学教養課程レベル科学の諸概念や諸論理が知られていないかごく少数専門家だけの所有物で あり、彼等はこれらの概念、論理を学ぶ事ができなかったから,理論が不正確でも彼らの責任ではない。
すなわち「東大民主化は常に可能だが"上に有界"(微積分)であり、高度 に発達した資本主義国日本では社会主義革命成功まで東大が人民大学になる事はない」「人民の被害がゼロにはならないが最も少ないという確率最 大」「基本的矛盾が残っても人民の被害が十分少なければその基本的矛盾 を無くした場合に生ずる新矛盾による被害との比較次第でその基本的矛盾を許容」…などをはじめ多数の初歩統計学論理や初歩微積分学論理がないため直観にもとづく事になり、誤った結論に達する事が少なくないのである。
コペルニクスやニュートン、ダーウィン、ウェゲナーなどの自然科学における天才の研究は基本的部分で正しいが時代に制約された誤りが無視できない事も周知である。いかに優れた研究も時代に制約された誤りがあり、「近似的に正しい」研究である事をマルクスとエンゲルスは明らかにしたが、彼らの研究もその例外ではない。唯物論とはすべての科学的論理を抽象化したものであるから、マルクス等の神々が下し給うた聖典を解釈する学ではなく時代とともに発達する科学の
1分野であろう。最初の
4論文は有名な東大争議のときの東大大学院農学系理論委員会(闘争当時の自治会旧拡大執行部が院生総会の決議で移行したもの)の全体結論、またはその有志(個人)試論である。「全共闘は前衛党に代わり得るか」は、
1971年の全共闘側M氏との公開論争ビラで最初に公開された新唯物論論文である。上記概念を使った唯物論に基づく組織論、運動論でM氏の挙げた前衛党の諸欠陥は解決される… つまり氏の挙げた前衛党欠陥はゼロにならないが誤りのための人民被害が最少になる事を示す一方、M氏の議論は前衛党欠陥をゼロにすべきだという無茶前提から出発したため、「氏の言う前衛党欠陥をゼロにしたため致命的新欠陥が生ずるが、その新欠陥を考えないから欠陥なしと信ずる」という主観的観念論となり、氏のいう「スターリニズム」(当時の日本共産党方針)より遥かに大きな誤りに至る事を示す。実際のビラには実名が書かれていたが、現在は特定の人物を誹謗する意義がないだろう。「東大闘争の全人民的意義」は委員会全員の責任で書かれた闘争総括なので、当時の日本共産党綱領に反しない範囲で書かれている革命論、大衆運動論だが、その革命論は具体的で新唯物論の社会主義社会論・移行論と高度の整合性を持つ。 すなわち資本主義末期の政治・経済的構造が新唯物論の社会主義社会と権力の所在を別とすれば酷似している事が示される。
「経済大学院自治会執行部の中間総括案とビラの研究」は委員会の責任で書かれているが、「論争相手は悪魔であり、自分たちは正義の味方で無欠点」という立場でなく、「存在したものは合理的」というヘーゲルやマルクスの歴史観にたちフロント派の方針がマルクス主義の一種からアナーキズムの一種に変わった経過とその原因を分析する。 当然自分たち(当時の執行部)の方針も誤りが有り得、歴史科学的な批判の対象となるという立場であり、また当時の日本共産党綱領に反しない範囲で書かれているが、やはり新唯物論の社会主義社会への移行論と高度の整合性をもっていて、「改良」「民主化」の意義を示す論文でもある。
「教育実験の類型と方法」は第一法規「授業改革事典」(
1982年版)に書いた論文である。 臨床医学実験で標準とされる二重盲検法が採用できない教育実験では偏りをゼロにできず、結論の確からしさや尤もらしさを数量で評価できない場合が多い。その場合信頼性を数字で示す事はできないが信頼性を十分大にするという実験計画、すなわち「数字で示す事はできないが確からしさの大小は客観的に判定可能」という直観確率の論理を採用すべきだとし、実験計画例を提示した。その実験的研究そのものは小泉・藤岡との連名で教育工学雑誌7巻に発表した。「酒井一幸氏の中学校行事改革」は、教師が先頭に立つ遠足やパック式修学旅行を否定し、班行動見学式修学旅行やコース・道草自由遠足、多数コース自由選択登山などの中学校行事改革を
1959年発案し実行した酒井教諭の実践と思想をまとめたものである。それまで民主的教育と考えられてきた「上から指導して生徒自治の経験をさせる」という方法でなく、「現在実現できる行事では最も楽しい方法だという事を生徒に理解させることによって生徒の支持を得、生徒の熱意・積極性を前提として実現困難と考えられてきた行事を実行」という諸方法を酒井氏は工夫した。酒井氏の方法は今村哲郎氏(映画監督今村昌平氏の実兄)、成見克子氏
によって拡張され、「生徒が勝手にまじめになり、努力する」場面をつぎつぎに与えると、生徒自主管理が成立し、教師の直接関与なしの生徒運動により反抗的問題児やいじめ事件がいつのまにか激減、消滅するという一般的方法に達した。それまで「民主的」とされた指導では教師が先頭に立ち活動家(学級委員、班長)がクラスを動かすというソ連型社会主義(強力な指導者と活動家会議であるソヴェト会議が国民を動かそうとする)のミニチュアになったクラスを目標としていたが、
1971年成見氏学級を見たとき、「個性を認め合い、援けあう生徒集団」が教師と独立に行う運動がクラスを動かすという新唯物論社会主義社会のミニチュア(複数政党・市民運動・自主管理の社会)が成立しているので大変驚いた。唯物論を正確にするため新しく導入された諸論理はすべて、大学教養課程で学ぶ自然科学で一般的に使われている論理である。 だから専門レベルの科学で登場する諸論理を導入すれば、さらに正確な唯物論が成立し、ここで記した唯物論はマルクス等の唯物論より近似の程度が進んだだけだという事になろう。 すなわち唯物論が科学全体の進歩にあわせて進歩するようになり、すべての唯物論者が「マルクス・エンゲルス・レーニン・毛沢東を尊敬はするが崇拝しない」ようになろう。 そして彼らの理論を「古典唯物論」と呼ぶようになるであろう。