第3節 ギリシャの科学が滅びニセ科学の時代となる
ギリシャ天文学の発達はエラトステネスとアリスタルコスの時代が最後で、それからは科学的な天文学が滅びてしまいます。 そして地球が宇宙の中心だというまちがった考え「天動説」(地球でなく天が動くという説)の時代が2000年続きます。
その理由を知るため、歴史の時間にならった有名な戦争についての勉強からギリシャの歴史を復習しましょう。
マラトンの戦い
昔は戦争の好きな王様、皇帝が多数いました。 戦争に勝ったら負けた国の人々を奴隷にし、財産はみな王様(皇帝)が奪ってしまう。 だから大きく強い国の王様や皇帝はたいてい戦争が大好きなのです。
そのころペルシャという国がありました。 今のイラン、イラク、イスラエル、ヨルダン、エジプト、レバノン、トルコを支配しているのですから、そのころの超大国です。 社会で使う世界地図帳を見て下さい。 その超大国が小国ギリシャに攻めてきます。
ペルシャ軍3万は王様の婿(ムコ つまり王女のダンナ)のマルドニオスという人を大将としてアテネ市から近いマラトンの野原に上陸しました。 3万人とは大した事がないような気がします。 しかしそのころ世界の人口は少なく、ギリシャで一番人口の多いアテネ市でさえ奴隷を別にすれば15万人くらいでしたから、ペルシャ軍はアテネ人口の5分の1です。 今の話にすれば東京1200万の1/5である240万というアメリカ軍やロシア軍なみの大軍が東京に攻めてきた事になる。
アテネ市では1万人しか兵士を出す事ができませんでした。 それなのに他の町はたいてい兵士を出すどころか、みつぎものを出して降参してしまいました。 ペルシャの大軍と戦ったら負けそうだからみつぎものを出してペルシャの王様の家来になるほうが、負けて奴隷にされるよりマシだというのです。
スパルタ市は戦う事にしましたがスパルタ兵5000人は宗教行事で遅れた上200キロ近い距離を歩いてアテネに向かったので、戦いに間に合いませんでした。 アテネ軍と一緒に戦ったのはプラテーエーという町の千人だけでした。 3万対1万1千の戦いになったのです。
アテネ軍では将校のうち一番考えが深いという理由で、大将にミルチアデスという人を選びました。
ミルチアデスは、ギリシャ兵にペルシャ兵より長い槍を2種類持たせました。 槍には適当な長さがあります。 あまり長い槍だとふりまわせない。ですから最初の一撃(で突き刺されるのは鈍い人です)をよけて飛び込まれたら最後です。
それでもミルチアデスは長い槍にしろと命令したのです。
そして前列の兵には短い槍(それでもペルシャ兵の持つ槍より長い)、後列の兵にはもっと長い槍を持たせ、ペルシャ兵が向かってきたら個人で戦う(つまり一騎打ち)のでなく、一斉に槍を突き出せと命令しました。一度に多くの槍が突き出されたらよけるのは難しい。 槍衾(ヤリブスマ 槍の壁)です。
この密集・集団戦法は後のローマ軍にも受け継がれます。
次にミルチアデスは隊形を変える命令を出し、そのころの常識である「中央が厚く(人数が多く)、左右はいくらか薄い」という隊形でなく、右翼と左翼を厚くし中央の人数を減らしました。 そして少数のギリシャ軍のほうから前進して戦いをはじめました。
ペルシャの海軍がアテネ市にせまっているのに、アテネ兵はほとんどマラトンにいたからです。ミルチアデスはマラトンの戦いに勝ったらアテネにすぐ戻るという考えでした。だからすぐ戦いになる事を望んだのです。
図のように、左翼と右翼では槍衾の威力でギリシャ軍が優勢になり、ペルシャ兵の大部分は逃げてしまいました。 王様の命令で戦っているだけですから、負けそうならさっさと逃げないと殺され損ゾンという事になります。
中央ではあまり人数が違うため、ペルシャ軍が優勢となり、退く(シリゾク さがる)ギリシャ兵をペルシャ軍が追いかけてきました。 ギリシャ兵は劣勢でも退くだけで逃げない。 負けたら自分も家族も奴隷にされ財産はみな取られてしまうから、最後まで戦うのです。
この時ミルチアデスは左右のギリシャ兵に、逃げるペルシャ兵を追いかけず中央のペルシャ軍を囲めと命令しました。 ペルシャ軍を長い槍の壁でかこむ。 その壁が前進し、輪はだんだん小さくなる…。
中央のペルシャ軍は壊滅カイメツし、捨てていった死体だけでも6200あったといわれています。 ギリシャ兵の死者は192. 大勝です。マラトンの戦いです。
マラソン競技のはじまり
戦いが終わったので結果をアテネ市まで知らせる事になりました。 そのころのギリシャ人は馬に乗る習慣がありませんでしたから、走るのが一番速いという理由で、フェイデピデスという人が使者に選ばれたのです。
アテネ市では人々が逃げる準備をして市の広場に集まり結果を待っていました。 もし負けだったら、スパルタ市のほうに大急ぎで逃げないと全員ペルシャ兵に捕まって奴隷にされてしまう。
夕方近くなって一人の青年が市の広場に走ってきました。 その人は「アテネが勝った。みな喜んでくれ。」と叫ぶと倒れ、再び起きる事はなかったと伝えられています。
フェイデピデスはスパルタ市に援軍エングンを求めるときも使者になり、200km近いアテネ市とスパルタ市の間も走ったのでした。
この出来事を記念してマラソンという競技が行われるようになりました。 第1回オリンピックでは、マラトンの野からアテネ市の広場まで各国の選手が2000年前フェイデピデスの走った道を走りました。
サラミスの海戦
ペルシャの王様はペルシャ軍が負けたと聞いて大変怒り、今度は自分が19万5000という大軍をひきいてギリシャを攻める事にしました。 今度こそ生意気なギリシャ人どもをやっつけて全員奴隷にしてやるというのです。
19万5000は奴隷を別にしたアテネ市の全人口より多い。 今の日本でいうと東京1200万より多い軍隊という事になるすさまじい大軍です。 アメリカ・ロシア・中国・イギリス・フランスの軍隊を合わせてもそれより少ない。
テミストクレスという人はペルシャ軍がまた攻めてくると思い、アテネ市民に新型軍艦をつくるように薦ススめました。 ミルチアデスの戦法はペルシャに知られてしまいましたから、今度も同じ戦法で勝つというわけにはいきません。 海軍の戦いで勝とうというのです。 そのころはトラックなどありませんから、武器や食料は大部分船で運びます。ですから海軍が全滅すると陸軍も武器と食料が足りなくなって長い戦いができなくなる。
そのころの軍艦は鉄でなく、木でできていて、風のある時は帆で風を受けて船を動かし、風がなければ横につきだした多数のオールを使いボートのようにこぐのでした。 マンガに出てくる海賊船のような船です。
テミストクレスは低くてオールが多く、へさきがカラスのくちばしのような形で鉄を張ってあるという船を作らせました。
今度はギリシャの町が協力して戦いましたが、陸軍はテルモピュレーの戦いで負け、ペルシャ軍がアテネ市に侵入しました。
アテネ市では武器を持つ事のできる男は少年でも全員兵隊になり、大部分が水兵になりました。 大将にはもちろんテミストクレスが当選しました。
図はこのときペルシャとギリシャの海軍、陸軍がどこにいたかという絵です。
ギリシャ陸軍はアテネ市とコリント市の間の狭いところでペルシャ軍を防いでいました。 ギリシャ海軍はアテネ市近くのサラミス島と本土との間のせまい海峡にいました。 ペルシャ海軍は1000隻セキ、ギリシャ海軍は380隻ですが、ペルシャの軍艦のほうが大きく、兵隊はずっと多い。 アテネの軍艦は380のうちの180です。
ギリシャ海軍の会議でアテネ代表のテミストクレスは、狭いこの海峡でペルシャ海軍と戦うよう主張しましたが、他の町の大将たちはコリント市のほうに逃げて陸軍と一緒にペルシャ軍を防ぐのが良いという意見です。
そこでテミストクレスはペルシャ王のところにスパイを送り、「私アテネ市の大将テミストクレスは実は大王様にお仕えしたいと思っている者でございます。ですからギリシャ軍はコリント市のほうに逃げようとしている事をお知らせします」と伝えさせました。 本当のことを教えてやったのです。
王様のほうでもスパイを出して見ると、本当にギリシャ海軍は逃げる準備をしている事がわかりました。 そこで夜の間に軍艦の1/3をサラミス島の北にまわし、夜があけると同時に南北からギリシャ軍を挟ハサみ撃ウちにしました。
けれどもペルシャの大きな船はせまい海峡での小回りが難しい。 毎朝吹くという強い風がテミストクレスの期待どおり吹いてきました。 アテネの船は低くて漕ぐ人が多いのですから、風が強く狭い海峡でも自由に動けます。 体当たり戦法で鉄のくちばしを使いペルシャの大きな軍艦に穴を開け沈没させる。 大風のために互いにぶつかり合うペルシャの船もでてきました。
その日の夕方までにペルシャの軍艦の大部分が沈んでしまい、王様は自分の国に逃げ帰りました。 陸軍も予想どおり長い戦いができず、半年あと負けて撤退しました。 小国ギリシャがまた大国ペルシャに勝ったのです。
アテネ市で科学が栄えた理由
質問 アテネ市の大将とペルシャの大将や王様ではどちらが優れていますか?
質問 ペルシャには頭の良い人がいなかったのでしょうか。
アテネは民主政治だったから、一番優れた考えの人を大将にする事になったのですね。 アテネ市では戦争のときだけ議論が行われていたのではありません。
税金をいくらにするとか、その税金を何に使うかなども市民が議論して決めました。民主主義だからです。
民主主義の社会では意見をいう時、自分の意見が正しいというわけ(理由)を言います。わけのわからない意見では誰も賛成してくれません。 理由を考え、言うという民主主義の習慣がギリシャ科学のもとになったと歴史学者は言っています。 わけ、理由を考え研究するのが科学だからです。
他の国の人は夏と冬がある事は知っていても、なぜ夏と冬があるのかわけを考えませんでした。 夏と冬では太陽の昇ってくる方向が違う事は知っていましたが、その理由も考えませんでした。
数学でも同じです。 3角形の辺の長さが5対4対3だと直角3角形になる事はエジプト人やバビロニア人も知っていました。 しかしなぜ5対4対3だと直角3角形になるのかという理由はギリシャ人が考えました。
5×5=4×4+3×3 のように2つの辺の長さの2乗を足してもう一つの辺の2乗になると、直角3角形だという事を証明したのです。 ですから13対12対5でも直角3角形です。 13×13は169 12×12は144 5×5は25
25+144=169
しかしギリシャ科学の黄金時代は長く続きませんでした。 ギリシャの町が同士討ちをはじめてギリシャは大混乱になり、科学の研究どころではなくなるのです。
原因はオレのせいでペルシャに勝ったというのでアテネ市の人々がいばり、他の町から税金を取り立てたりいう事をきかない町に戦争を吹っかけて負けた人々を奴隷にしたりしたからだと言われています。 スパルタ市を中心とする連合軍がアテネ市と戦争をはじめ20年かかってアテネ市を破りました。 ところが、今度はスパルタ市がいばり、テーバイ市がスパルタ市を負かしました。 その後も戦争は続きました。 こうしてギリシャの町は同士討ちの戦争で荒れてしまったのです。
科学からニセ科学へ
ちょうどその頃、ペルシャから独立したエジプトには学問の好きな王様がいて、 首都のアレキサンドリアに大図書館を作り、ギリシャの科学者を呼び集めました。
もうギリシャでは研究が難しいだろう、アレキサンドリアに来れば生活の心配はいらないから研究をつづけなさい、その代わり自分(王様)に科学を教えてくれ、というのです。
ですからギリシャの科学が生きのびる事になりました。
しかしエジプトは民主主義の国ではありませんから、わけをキチンと考えどこまでも議論するという習慣がありません。 ギリシャ人科学者もだんだんわけを考えなくなります。
科学とはわけを考える学問なのに、わけを一応考えるだけでキチンと考えない…・というのはヘンな科学です。 エジプトではギリシャ科学がヘンな科学、ニセ科学に変化して行ったのです。
その時代を代表する科学者がプトレマイオスです。 名からわかるようにギリシャ人です。 プトレマイオスは天動説、地球は宇宙の中心にあり、太陽や星などが地球を回っているという考えを発表しました。
プトレマイオスの考えは、ちょっと見ると科学的で信用できそうですが、本当はイイカゲンな議論です。
そんな間違ったニセ科学など勉強する必要はない、と考える人もいるでしょう。しかし今のように科学が栄えている世の中にもニセ科学はあり、テレビや雑誌にでてきます。 みなさんもニセ科学にだまされないよう、ニセ科学がイイカゲンな議論である事を見破る練習をしようではありませんか。 この授業書では科学のニセモノ、イイカゲンな議論の間違いをみんなで見つけ、正しい科学がわかるようになっています。
天動説…・プトレマイオスの考え
地球のまわりを太陽や月、星がまわっているという考えですから、絵のようになります。 一番外側は恒星天といい、星が張り付いたプラネタリウムの壁のようなもので、それも1日1回まわっていることになります。
しかしこれでは逆行が説明できません。 そこ
で「周転円」というものを考えました。 火星は
地球のまわりをまわるのではなく、周転円をまわ る、そしてその周転円が地球をまわる、というや
やこしい考えです。
太陽が図の通り回ったのでは春夏秋冬の変化が説明できませんから、太陽は大体図のようにまわるので、実際には手前にきたり後ろにいったり斜めにまわる事になります。 これも大変ややこしい。
プトレマイオスは書いています。「地動説のほうが、これらの事をかんたんに説明できる。 しかし地動説は次のような理由で間違っている。」 プトレマイオスはどうして地動説が間違っているというのでしょうか。
プトレマイオスが地動説に反対する理由の1
「もし地球が公転すれば、季節によって恒星までの距離が変わるから、見え方が違ってくるはずではないか。 しかし1年中変わらない。」
図のように、夏と冬では地球が
3、000,0000キロメートルも位置が変わります。
夏の夕方見える星座と冬の明け方見える星座は同じですが、夏と冬では大きさや方向がちがって見えるはずです。 しかし変わらないというのです。
問題 プトレマイオスの考えはどこがまちがっているのでしょうか。
ア 「恒星の見え方が違ってくる(星座の大きさが変わる)はず」という理くつが間違い
イ 「変わらない」という判断が間違い
ウ わからないので、プトレマイオスに降参する
今東京から何十キロも離れた富士山を見て一歩歩いたとしましょう。 富士山は大きくなったり小さくなったりするでしょうか。 富士山の見える方角が変わるでしょうか。
上のヒントを入れるとやさしすぎるし、入れないと1年ではウが圧倒的多数。 全員の場合もあり。 問題点です。
富士山に一歩近づけば大きくなり、反対にあるけば小さくなり、横に歩けば富士山の方角が変わります。 しかし変わらないように見える!!
恒星はプトレマイオスの考えたほど近くない。 「たった」3,0000,0000キロ位「ほんのちょっと」地球が動いた位では、変わって見えないのです。
日本の本土から見える一番近い恒星はシリウスで、そこまでの距離は約8.7光
年です。 光年とは距離の単位で、1秒で30万キロ走るという光が1年かかって
進む距離です。
光は1秒で 約 30,0000キロメートル
1分で 60倍 1800,0000キロメートル
1時間で60倍 10,8000,0000キロメートル
1日で 24倍 259,2000,0000キロメートル
1年では 約365倍 約9,0000,0000,0000キロメートル
つまり1光年とは約 9兆キロメートルです。
だからシリウスまで8.7光年というのは約80兆キロメートルです。
80,0000,0000,0000 は 3,0000,0000 の約 27,0000倍ですから、80,0000,0000,0000キロにくらべれば地球の動く3,0000,0000キロなど「ほんのちょっと」という程度です。 たったの3,0000,0000キロ…。
10cm歩いたとき、27,0000倍である27000メートル向こうにあるものが、大きくなったり、小さくなったりして見えるでしょうか。 方角が変わって見えるでしょうか。 27000メートルとは27キロメートルです!! 27キロ向こうの山を見て10センチ動くと山の方角や大きさは…・。
変わるのですが、「変わって見えない」のです。 それをプトレマイオスは「変わらない」「変わってない」という。
机の上には「何も見えない」から「何もない」と考えて良いのでしょうか。 机の上には見えないだけで細菌がいるはずですからなめたらおなかをこわすかも知れません!!
プトレマイオスの議論はちょっと見ると正しい議論のようですが、よく考えるとイイカゲンな議論なのです。
現在は望遠鏡につけた特別精密な分度器がありますから変わって見える事がわかります。シリウスまで約80兆キロという数字もその特別精密な分度器と3億キロの長さをもとにして三角法で計算したのです。
質問 北極星までの距離は500光年です。 北極星を何年前に出た光が見えているのですか。
質問 北極星から今出た光はいつになれば見えるのですか。
プトレマイオスが地動説に反対する理由の2と3
「もし地球が公転すれば、空を飛ぶ鳥や雲は置いてけぼりになる。」
1年間に地球は直径3億キロの円をまわりますから、地球は1秒20キロメートルという高速で太陽をまわらなくてはならない。 これは飛行機(マッハ3の高
速の飛行機で1秒1キロ)よりずっと速いから、もちろん鳥より速い。 しかし鳥が宇宙に置いて行かれる事はない。だから地球は止まっているのだ。
実際の授業では小鳥が泣いているイラストと走る大きな地球の絵があり、生徒たちが笑ったのですが、イラスト紛失。市販品を探しています。絵がなくても授業は可能と思います。
質問 プトレマイオスはどこがまちがっていますか?
今まで1年相手なので慣性の授業を行っていたが3年では「力と運動」の後だか
ら確認の質問だけで良いだろう。
プトレマイオスはもう一つ理由を書いています。
「回転するものは、飛び散ろうとする。 地球が自転したら、モノは振り飛ばされ、地球はバラバラになるだろう。 しかしバラバラにならない。」 だから地球は動かないのであり、地動説は間違っているというのです。
質問 コマの上に何かのせたら、どうなるか知っていますか?
プトレマイオスの言うことがわかりますね。 地球が自転したら、ものすごい速さ・・・地球の大きさはわかっているので、計算すると赤道のあたりで1秒に400m以上という物凄い速さ・・・これはコマのまわる速度よりずって上だ・・・われわれはみな吹っ飛ばされるというのです。
質問 プトレマイオスはどう間違っていますか?
生徒は重力があるから、と答えますからそのままとします。
プトレマイオス以後
プトレマイオスは自分の天動説をもとに、日食や月食の予報をし、惑星の位置を予報しました。 今は天文台が地動説をもとにした日食や月食、惑星の位置の予報を毎年発表しています。
問題
ア プトレマイオスの予報は当たったように見えた
イ プトレマイオスの予報ははじめから当たらなかった
ただし、その頃は水晶時計(今の時計はたいてい水晶時計)のような正確な時計がなく、日時計や水時計しかありませんでした。 また今のような望遠鏡と組み合わせた精密な分度器もありませんでした。
プトレマイオスも一応科学者ですから、予報が当たらなければ考えを変えるはずです。 まちがった理論ですから大体当たるだけですが、そのころの時計や分度器は今よりずっと不正確ですから、それで予報があたったように見えたのです。
しかし200-300年たつと予報が当たらなくなりました。 狂いがたまってきたのです。 チリもつもれば山となる、といいますね。 そこで学者たちは周転円を継ぎ足すことにしました。
たとえば火星は周転円を回るのではない。 火星は周転円の周転円をまわるのだ。 そして周転円の周転円が周転円をまわり、周転円が地球のまわりをまわる。わかりますか? もう1回この説明を読んで下さい。
天動説はただでさえややこしいのに、もっとややこしくなったのです。
問題 このように天動説をひどくややこしいものにしたら
ア それからは予報がよくあたるようになった
イ 200-300年たつとまた当たらなくなった
そこで学者たちはまた周転円をつぎたす事にしました。
まず一番小さい輪を回って、その一番小さい輪が2番目の輪を回って、2番目の輪が地球をまわる。 学者はさぞ計算に苦労したでしょう。
こうして、学者たちはどんどん周転円をつぎたしましたから、天動説は化け物のような理論になって行きました。 それでも学者たちはその化け物に周転円をつぎ足し続けました。 2000年あとのコペルニクスの時代になると、全部あわせると「 79個!!」の周転円があったそうです。
ギリシャ科学が滅びて2000年たってコペルニクスという天才が現れ、天動説が間違っている事を証明しました。 それからまた天文学が発達するようになります。