人間の霊魂レイコンを祭る話
菅原道真の怨霊オンリョウを祭る北野天満宮(大宰府天満宮・防府天満宮)
この絵は「菅原道真の怨霊が雷を天皇の宮殿に投げ落とした」という昔の絵で国宝である。
昔の日本人は「有力な人が不幸な死に方をすると怨霊になると信じていた。怨霊とは恨みの霊魂である。
平安時代の右大臣菅原道真スガワラノ
ミチザネが藤原氏との勢力争いに敗れ
、九州に追い払われて死んだ事は社
会の時間に習ったであろう。
そのあと、藤原氏の有力な4人が続けて死んだ。 昔の事だから死にそうな病
人のまわりで「お祈イノり」するのだが、そのとき空から「天皇にウソをつき、道真を追っ払う命令を出させたために死ぬのである。祈っても無駄だ。」という声がしたという。 天皇の宮殿に雷が落ち、まもなく菅原道真を九州に追っ払うという決定をした醍醐ダイゴ天皇も死んだ。
これは大変だ!! 菅原道真の霊魂が怨霊となり、恨みを晴らしている! そこで霊魂の怒りをやわらげるために、大きな神社をつくり祭ることにした。 道真は学問に優れていたので学問の神としても祭られた。
平将門、崇徳上皇
東京にある梅の名所で神田明神カンダミョウジンという大神社がある。 この神社では平安時代に大反乱を起こし関東地方の大部分を攻め取って「新皇」(新しい天皇)と名乗ったがあとで敗死した平将門タイラノマサカドの怨霊を祭っている。 不幸な死に方をした人がここでも怨霊になったとされ。神様として祭られている。
保元の乱で敗れた崇徳上皇の名は崇拝の崇と、道徳の徳を組み合わせた素晴らしい名である。 上皇の霊魂が怨霊にならないように、素晴らしい名を贈って、霊魂をなぐさめたからだと考えられている。つまりその素晴らしい名は上皇が死んでからつけたのだ。
上皇になった足利義満の霊…・金閣寺
金閣寺の写真は図書室か美術室から・・・・
金閣寺キンカクジには「上皇」足利義満アシカガヨシミツの墓がある。 足利義満は室町幕府の将軍だが、死んでから天皇の位クライを贈られた事になる。 日本を支配した将軍は源頼朝にはじまり、徳川慶喜まで多数いるが、天皇の位をもらった将軍は義満一人である。
足利義満は南朝との戦争をやめた。 形は対等な和平だが、実際には北朝の天皇が続いた(今の天皇も北朝)のだから、南朝の降参とかわらない。 足利義満に反抗する人はいなくなった。 位クライは天皇のほうが上で義満は家来のはずだが、実際には足利義満が天皇(北朝)に命令している。
足利義満は、天皇の宮殿のとなりに7重の塔を建て、そこに登って「オレサマのほうが上」だと天皇を見下ろし、いばっていたという。
金閣寺はもともと義満の別荘である。 写真で見るように1階は天皇や貴族の住まいと同じ作り方になっていて金が貼ってない。 2階は武士の住まいの作りになっていて金が貼ってある。 そのころ日本は金の輸出国であったから、1階に金を貼ることもできたはずだが、貼らない。 武士は金を持っていて、金のない天皇や貴族より上なのである。 3階は中国式の建築で、上には鳳凰という帝王をあらわす鳥の彫刻がある。 つまり中国皇帝から日本国王である事を認められた足利義満は、さらに上で一番エライというのである。
義満は自分の子供を皇太子と同じ位クライにする命令を天皇に出させた。 子供は皇太子と同じ服装をし同じ車に乗る。次に妻を皇后と同じ位にする命令を出させた。 最後は天皇に天皇の位を自分にゆ
ずらせるだけである。そうすれば足利義満が天皇になって今の天皇も足利氏の子孫だったはずだ。
その時義満は死んだ。
大勢力を持っていた義満の霊魂が怨霊になったら大変だというので、霊魂に天皇の位が贈られ、義満の霊魂が上皇になったと推定されている。
ついでに質問。
足利尊氏タカウジは戦争の相手である南朝の後醍醐ゴダイゴ天皇が死んだとき、まだ戦いの最中で財政が苦しいのに後醍醐天皇のために天竜寺という大寺院を作った。当時の人は後醍醐天皇が怨霊になったと考えたのだろうか。
当時の有名な本である「太平記」では後醍醐天皇の怨霊のため、尊氏と弟の直義タダヨシが戦争をしたという事になっている。 それまで北朝が圧倒的に優勢であったのに二人の争いがはじまり、二人とも負けそうになると南朝と同盟したため、内乱は長くつづく事になったのである。