法隆寺について、問題の本
法隆寺は日本最古、世界最古の木造建築であり、国宝、世界遺産ですが謎ナゾの多い建物でもあります。 それらの謎については学者の意見が一致していない。 ですから「問題の本」の紹介とします。
梅原猛 隠された十字架 新潮社
写真は図書室か美術室のもので
法隆寺には気味の悪い伝説が多い。 法隆寺の建物の寸法は4と16と64から出来ている(つまり四=死、十六=死×死、六十四=死×死×死)とか、蜘蛛クモが巣を作らないとか…・。 法隆寺の建物では金堂や五重塔より新しい夢殿にある「救世観音グゼカンノン」という彫刻(国宝です)は1000年以上白い布でぐるぐる巻きにされ、誰も見た人はいなかった。 明治維新のあと政府の命令で、白い布から彫刻を取り出したとき、坊さんは皆逃げた。
その彫刻は聖徳太子の像だという伝説がある。 そしてその 彫刻は頭に巨大な釘クギがささっていて、その釘で光背コウハイを止めている。 頭に釘を打つというのは呪いノロイの印である。
その彫刻は丸彫りのように見えるが実際には前だけのウスッペラな像であり、腹があって背中がない。 仏や人間の像ではなく、幽霊の像であるとしか考えられない。 その彫刻の顔ははげしくすさまじい迫力で有名だ。 「救世観音」は聖徳太子の像でなく、聖徳太子の怨霊オンリョウの像であろう。
聖徳太子は不幸な死に方をしていない。 しかし子孫は誰が天皇になるかの争いに負けて皆殺しにされた。 だから聖徳太子が怨霊になってもおかしくない。 第一死んでからつけられた「聖徳太子」という名が素晴らしすぎる。 聖人の聖と道徳の徳だ。 同じ位素晴らしい名に崇徳ストク上皇がある。 崇拝の崇と道徳の徳である。
保元の乱に負けた崇徳上皇の霊魂が怨霊となって暴れたら大変というので崇徳というすばらしい名がおくられた。 誰が天皇になるかという争いのため餓死した早良サワラ皇太子には死後「崇道」という素晴らしい名が贈られた。「聖徳」という素晴らしい名も子孫を皆殺しにされた聖徳太子の霊魂をなぐさめ、怨霊として暴れるのを防ぐ目的だと考えると、このすばらしい名が説明できる。
怨霊が暴れるのを防ぐため、怨霊の像を作り、白い布でぐるぐる巻きにして夢殿に入れてあったのだろう。 1000年以上聖徳太子の怨霊はとじこめられていたから人々は安心できた。 明治政府はそのおそろしい像を出せと命令した。 だからそういう迷信を信じていない外人学者フェノロサが像を取り出したとき、日本の坊さんは皆逃げ出したのだ。
法隆寺は移築された 米田良三 神泉社
法隆寺の場所に聖徳太子が寺を建てたことは確かである。 しかしそれが焼けてなくなったことも発掘で証明された。 聖徳太子時代に建てられたと思われる古い寺の土台が見つかったからだ。 では8世紀に再建されたらしい今の法隆寺は誰が建てたか。
発掘までは焼けたことを信じない学者が多数だった。 古い建物である金堂や五重塔、彫刻などが形・作り方から見て、他の寺よりずっと古いとしか考えられないからである。 材木年輪測定とか、彗星の落書き(ハレー彗星と推定される)という科学的年代推定からいうと、今の法隆寺は、聖徳太子のいた7世紀はじめの建築であると断定できる。
一方最近の解体修理では、木材につけた東西南北の印が実際と90度ずれているとか、材(部品)が足りないので他の材をけずって使ったが、そうしたらその材のほうが足りなくなり新しく作りなおした事がわかった。 また法隆寺の五重塔は土台と合わず空洞がある。 しかしその五重塔を福岡県大宰府の観世音寺にある土台とあわせればピタリと合う。 また観世音寺の土台にあわせると、材木に書いてある方角と実際の東西南北が完全に一致する。建立は7世紀はじめ、移築が8世紀とすればすべての矛盾が消滅する。
つまり法隆寺の中の古い建物である金堂と五重塔はもと九州福岡県太宰府にあったのだ。 そしてイラストのとおりもとの位置にあるほうがずっと美しく見える。
九州国が近畿国(天皇の国)に負けて滅びたあと、九州国を代表する建築であった法隆寺は奈良に移されたがそのとき方角を90度変えて建てなおしたのであろう。
九州国は卑弥呼のいた倭国(米田氏は九州説)であるから大変古い国であり、文化は奈良よりずっと進んでいただろう。 そう考えてはじめて法隆寺の五重塔、金堂の古さや、そこにある彫刻の古風な事も説明できる。
注
両氏の本には鋭い指摘がありますが、梅原氏の事実認定方法では近代的歴史学iに伴う資料信頼性の客観的判定基準に違反し、直観に頼るという場面が気になります。
蓋然性の問題なので、違反が必ず誤った結論を導くというわけではないのですが、違反するほうが正しいという理由がやはり直観的なのが問題です。
米田氏の本の事実認定では観世音寺の土台と合うという所が事実と合わないのではないか、九州にあった法興寺から移築したのではないか、ただし移築と90度方角を変えたのは事実だろうという論文・・・ただし九州法興寺は文献にあるだけで遺跡が特定されていない・・・・があります。
福岡県太宰府の観世音寺の土台に合わせたときの法隆寺の金堂・五重塔の想像図(米田氏)