君が代の話
君が代は千代に八千代にさざれいし(漢字で書くと細石つまり細かい石)のいはほ(発音はイワオ、大岩)となりて苔のむすまで
という和歌は、なぞに包まれた和歌です。
平安時代の古今集コキンシュウにでてきますが、「よみひとしらず」つまり現代語では「作者不明」となっています。 ただし「よみひとしらず」の例を調べると2種類ある。 1つは古くて本当に作者がわからない場合です。しかしもう1つは「朝敵チョウテキ」つまり天皇の敵が作者の場合、天皇が命令して作らせた和歌集にその名をのせるわけには行かないので、作者の名を伏せてこっそり載せた場合です。 有名な例では平家が源氏に負けたあと、平家は「朝敵」とされたので、平家の人が作った和歌は「よみひとしらず」にされてしまいました。
この和歌は平安時代の学者にも作者がわからない位古い和歌なのでしょうか。
それとも天皇の敵とされた人が作った和歌なのでしょうか。
年配の先生が小学校に入ったころ、つまり日本が大日本帝国といい、アメリカ、イギリス、中国などを相手に大戦争をやっていた時代、君が代の「君」は天皇の事だと習いました。 天皇陛下のおさめる時代がいつまでもいつまでも、小石が大岩となりそこにコケが生えるようになるまで続きますように、という意味だというのです。
戦争に負け、民主主義の時代になると、「君」は今と似た意味で友達や恋人を指すという人が多くなりました。 しかし最近では昔と同じように説明する人が多くなっています。 どちらが正しいのでしょうか。
昔の本を調べてみると、平安時代には「君」が貴族を示していたことがわかります。 キンダチ(君達から変化)は貴族たちです。 それより以前になると「君」は天皇や大豪族の長に使われています。 だんだん言葉の相手が下落し、今では誰が相手でも「君」と言えるようになったのです。
似た例に「お前」と「貴様キサマ」があります。 お前とはもともと天皇の前という意味で、それが変化して天皇を指す時代もあった最大級の尊敬をあらわす言葉でした。 それが下落して尊敬どころか、目下の人に使うようになったのです。 今でも地方によってはもとの意味が残り、尊敬の意味の入るときに使うそうです。
貴様も貴族のキと尊敬のサマですから、今の意味「テメエ、コノヤロウという意味」はひどく下落したものです。
ですから、君が代が古い和歌ならば、君は天皇、王様、大豪族の長を指しているという事になります。
最近古田武彦という学者と地元の人たちの協力で、福岡県の地名群がこの和歌の単語と一致する事がわかりました。 千代は福岡市の中心部の地名であり、細石サザレイシ神社があり、井原山(地元ではイワラヤマと言う)があり、コケムスメの神を祭る神社があり、この和歌にある順に東から西に並んでいるのです。
一方、歴史教科書にも出ている中国皇帝からもらった金印の出た志賀島シカノシマの志賀海神社の祭りで君が代が登場します。 昔は島全体が神社でした。 この神社はいつできたのかわからない古い神社であり、その神社では天皇を尊敬する人がほとんどいなかった江戸時代でも、この和歌が毎年となえられていました。
その祭りは九州本土から船にのった王様を迎える祭りでその王様を迎える言葉の一部が君が代なのです。
天皇が九州を支配するようになってからは、九州の王様を迎える歌などできるはずがありませんから、それ以前福岡県(とそのまわり)が独立国だった時代にこの和歌はできたに違いないと古田氏は主張しています。
似た例では出雲の神社の行事で事代主命の入水を悲しむ行事があります。 出雲(島根県)の「国譲り」つまり降伏のとき、兄のコトシロヌシノミコトは入水自殺し、弟のタケミナカタノミコトは長野県に逃げたあと降参したと古事記や日本書紀という古い本に書いてある。
天皇政府のほうから見たのでなく、かつて独立国だった地元勢力の立場で入水自殺を悲しむ行事が今でも行われています。
出雲風土記という古い本の写本ではすべて出雲大社が「宮」つまり王宮と記されている。 ただし出版された風土記では宮という字を消す習慣です。
つまり宣長など国学者思想の伝統に従い大多数の学者は近畿以外の王宮はおかしい、近畿以外に王様などいるわけがないという理由で本文を変えたのです。 ごく最近は宮という字を消さないテキストも出版されています。
つまり「福岡県の千代からコケムスメの神のおられる神社までの王様の支配が長く長く続きますように」という意味だという事になる。
そう考えると「よみひとしらず」の理由もわかる。 天皇の支配が福岡県に及ばなかった古い時代というだけでなく、福岡県は別の国(多分敵国)でしたから、それを伏せるために、「よみひとしらず」にしたのです。