「ら抜き言葉」の話
「ら抜き言葉」とは
最近「ら抜き言葉」が問題になっています。今までの日本語で
「屋上に出れば富士山が見られる」…見る事ができる…というところを
「屋上に出れば富士山が見れる」
というのです。 生徒のみなさんや若いタレントでは、こちらのほうが普通になっています。 先生でも国語以外の若い先生はそういう。
「着られる」…着る事ができる、を 「着れる」という。
「ら」が抜けているので、「ら抜き言葉」といわれています。文部省は「ら抜き言葉」を正しい日本語と認めていません。
しかし「来られる」という言葉より「来れる」のほうがわかりやすいのではないでしょうか。 くる事ができるという意味がはっきりしている。「校長先生が来られる」という時は同じ「来られる」でも尊敬のための言葉で意味が全然違う。
だいたいからして「れる、られる」という同じ言葉に4つの意味があるというのはヘンで外人が日本語を学ぶとき不思議がります。
「尊敬」(校長先生が来られる…尊敬する言葉
「可能」(屋上から富士山が見られる …見ることができるという意味
「自発」(この事が思い出された…自分は思い出そうとしないのに自然に思い出した、という意味
「受身」(犬にかまれる…された、という意味
このうち「可能」の場合に「ら」を抜いた別の言葉を使う人が多くなったのです。
どうして「れる、られる」に4つの意味があるのでしょうか。
大昔は1つの意味だったらしい
人類学者の研究では普通の日本人は縄文人と弥生人の混血、アイヌ人は縄文人の子孫です。
昔のアイヌ人は、神様がいろいろなところにいる、と信じていました。 神様は高い山にもいれば、大きい岩や大きい木にもいる。 弓矢を使って熊や鹿を捕まえる事ができたのは、神様が熊や鹿の体にのりうつって人間にミヤゲ(日本語、アイヌ語共通)として肉や皮を与え、神様の国にお帰りになるためだと考えていました。ですから神様を送る祭りをしました。
有名なアイヌ人の祭り「熊祭り」はもともとそういう祭りだったものです。
犬にかまれたのは、犬という動物が自分の意思でかんだせいではない。神様がそうさせたのです。 急な坂でころんだのは自然にころんだのでなく、急な坂に神様がいて、神様のせいでころんだと考えます。
古事記や日本書紀、風土記のような古い本をみると、大昔の日本人も急な坂には「あらぶる神」がいると信じていた事がわかります。やおよろず(八百万という字)の神様がどこにでもいる。昔の日本人も昔のアイヌ人と同じ考えだった可能性が強いのです。
つまり可能(できる)も、受身(される)も、自発(自然になった)のもみな神様のせいなのです。 神様だから尊敬にもなります。
「自分という人間のする事でなく、神様がなさる」というのが、「れる、られる」のもともとの意味であり、「れる、られる」は1つの意味しかなかったという可能性が強いのです。
ら抜き言葉の将来
有名な国語学者の大野晋氏は「ら」抜き言葉が、「書ける」「歩ける」などと関係があると言っています。
書く事ができる…はもともと,「書かれる」であり、歩く事ができる…はもともと「歩かれる」でした。 江戸時代に
Kakareru → Kakeru
Arukareru → Arukeru
と変化したのです。aとrが抜けています。このほうが他の意味と間違えないから便利です。
見られる → 見れる
Mirareru → Mireru
もarが抜けている。 「ら」抜きでなく、ar抜きと考えれば、「書かれる」→ 「書ける」の変化と、同じ事だと大野氏は言っています。
今の日本人で、そこら中に神様がいると思っている人はいないでしょう。 ですから、「れる、られる」が4つの意味になってしまい大変不便になったので、自然に違った日本語にわかれてゆくでしょう。
ですから、今は文部省が認めなくとも、「見れる」が将来正しい日本語になってしまうに違いない。 しかし今は文部省のいうとおりにしないとテストや高校入学試験の面接の時、間違い言葉だとされますから、その時は「ら抜き」言葉を使わないようにしましょう。