八幡山宝福寺
謁見の間写真
龍馬写真
龍馬と宝福寺

  文久2年3月、国を憂う思いから、龍馬は故郷の土佐藩を脱藩します。
脱藩してからの龍馬は、捕縛の目をかいくぐり、勝海舟という人物に出会い、海舟と共に
海軍操練所設立の夢を抱き、土佐の若者たちを共に海舟の下に弟子入りさせると、順動
丸に乗って、神戸から江戸に向かいます。その時、龍馬は脱藩浪人として「指名手配中」
の身でした。

文久3年1月15日。
季節はずれの時化により、龍馬を伴い海舟一行は、下田港に避難し、角谷に投宿して
いました。
時を同じくして、第15代土佐藩主山内容堂は江戸より大鵬丸に上洛途上、
ここ宝福寺に投宿していました。
幕府軍艦奉行並・勝海舟入港の知らせに容堂は、是非とも酒席に招きたいと使者を
遣わす。海舟もまたわずかな供を連れ、宝福寺に参上、謁見をします。
海舟は、容堂に龍馬の脱藩の罪を解き、その身を自分に預けてほしいと懇願します。
容堂は、海舟が酒を飲めないのを承知で「ならば、この酒を飲み干してみよ!」と切り
返す。
すると、ためらうことなく朱の大杯を飲み干した海舟。さらに赦免の証を求める海舟に、
容堂は自らの白扇を取り出し、「瓢箪」を描き、その中に「歳酔三百六十回 鯨海酔侯」
と記して、海舟に手渡したのです。
この海舟の直談判によって龍馬はまもなく脱藩を許され、文字通り維新回天の活躍が
始まります。
龍馬は伊豆下田・宝福寺で、まさに天馬となって飛翔しました。
そして一気に激動の時代を駆け抜けていったのです。

宝福寺には「坂本龍馬住吉楼待機の一説」が言い伝えとして残されています。
この謁見の間、龍馬は住吉楼という遊郭で待機して吉報を待ったといわれています。