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第二章 一般的な場合 
 第1節゜左翼政党が複数あるか左翼政党に政策派閥がある場合


   2025年現在ネパールには「共産党」を名乗る左翼大政党が2つあり両方とも首相を出した事がある。 左翼政党が一つで政策派閥もないというのはスターリン独裁時代の常識でありね一般的 には複数の左翼政党や政策派閥があることになろう。 自然科学てさまざまな学説が対立する場合と同様である。

   この場合は「多数決原理はいつでも正しい」という常識から出発するのでなく、「いかなる場合に多数決原理が合理的(最大多数の利益) であるかどうかという検討からはじめる必要がある。
 この検討については、60年前の東大争議(東大闘争、東大紛争)の際に農学系大学院生自治会理論委員会(院生総会の決議により、東大争議の理論的検討をする委員会が作られたが、メンバーは 旧執行部と大体同じ)の発行したパンフレット「全共闘は前衛党にかわり得るか」につけ加える理論は何もないと思われるので、そのパンフレット全文を示し、当時の状況説明を補注としてつけ加える 程度としたい。
  統一戦線を支持する政党や派閥が複数あっても、左翼政党一つで無謬の場合と同一の結論 になる事がわかる。    闘争中・論争中に公開配布されたパンフレットであり、至るところ悪文が見られるし、意味不明の文章、不正確な表現、文献を調べないための誤り…などさえあるが原文を直さず、重要な問題箇所には補注をつける。ただしガリ版をつくって頂いた(F氏と妹、筆者はとんでもない悪筆)際のミスは原稿どおりにもどした。注とあるのは原文にある注である。日時の記載はないが1970.1と思われる。

全共闘は前衛党に代わり得るか(試論)

 ―M氏「東大全共闘この奇妙なる生態系」(「情況」臨時増刊号)の批判―


まえがき-批判の方法論
 M氏がレーニンの前衛党論をすくなくとも東大という一つの場で退け、みずから「全共闘はさらに前衛=実体としての前衛の否定者なのではなかろうか」と書いたのを指して「Mはアナーキストだ!」というレッテルを貼ることは誰にでもできます。  また氏は安定した東大解放区ないし、激しい闘争が無期限につづく準安定型東大解放区を空想しているから、前衛党や改良を否定すると推定されます。反体制運動が不均等に発展する以上、全日本で一度に全共闘ができて政府がひっくりかえる事はあり得ませんから、氏は解放区を空想しているに違いないのです。

ですから、この解放区理論すなわち現在の日本で「体制の枠外の権力」を自分が夢見るからその存在も確かだ、というキジルシ理論が否定されれば氏の理論も崩れます。 また氏の理論は一種の不可知論であり、どのようにして正しい戦術やスローガンを見つけるか、レーニンのいう「真理の小核」を見出す方法論がありません。また唯物論者とブルジョア思想の持ち主を一緒くたにする粗雑さにいたっては論外です。

 しかしこの眠っていても書ける程度で氏の理論を粉砕したと考えるのは慢心です。  なぜ氏が一種のアナーキズムを支持し、レーニンに疑問を持ち、日本共産党やスターリンに敵対するのでしょうか。氏は馬鹿や気違いでなく、東大助手をつとめる秀才ですから、氏が荒唐無稽な理論に到達するにもそれ相応の理由がなくてはなりません。

 以下、次のように氏の理論を批判します。
1. あるべき前衛党の姿と新しい統一戦線論
2. M氏の考える組織は前衛党の欠陥を克服し得るか
3. 自治会全員加盟制その他の氏の理論の検討

1. あるべき前衛党の姿と新しい統一戦線論---新しい唯物弁 証法の立場より-

 氏が前衛党を否定する理由は三つあります。
1. 行動が中央に直結し、党員の疎外化をもたらす
2. 大衆の意思に反するセクト主義をもたらす
3. 前衛党の組織の自己目的化をもたらす
 前衛党はヤハウェ(エホバ)やアッラーの神の集団ではないから、氏のいわれる1.2.3.の欠陥を持ち、それは不可避です。共産党が誤りだらけであることは、各国共産党の対立で明らかです。まさか日本、ソ連、中国、イタリア、ユーゴ,キューバの党がみな正しいなどという事はないでしょう。  ですから1-3の誤り、欠陥の存在を正直に認めた上で、
 A 1-3の誤りによる被害を最小限にくいとめる方法
を明らかにし、
 B M氏の方法が決して1-3の誤り・欠陥をへらさず、かえって増大させる 事を示す、
という2つの議論によって氏の理論は完璧に粉砕されるのです。

 さて「誤りによる被害を最も小さくする」ためには、唯物弁証法に、推計学、ORなどによる統計的論理を導入しなくてはなりません。

##結論「次の3つの論理に従うことが前衛党の誤りによる人民の被害を平均的には最少にする。ただし二つの例外規定あり」

#1 多数意見による一致団結の実践(レーニンの「鉄の規律」をもって!)
 もし「すべての党員の能力がほぼ等しい」と仮定すれば、最も確からしいのは多数意見であることが確率論から証明できます。
 これ以外に多数決原理を正しいとする根拠はあり得ません。ア・プリオリに多数決原理を認めたりブルジョア思想を借りて認めることは唯物論者のなすべきことではありません。正確にいうと「ほぼ等しい」という条件はきつすぎ、もっとゆるい条件でもよいのですが後記します。

#2 少数意見を十分長期にわたってのこす。 
 生物学、医学、心理学などでは、さまざまな本質的でない「副次的要因(オスカー・ランゲ、「偶然的要因」も同意)による撹乱のために確定した認識ができず、「5%有意」「95%信頼区間」などで我慢せざるを得ない場合が普通です。その場合には20回に1回位対立仮説の正しい可能性があるので、次の実験にあたり対立仮説を参照することが必要であり、十分実験を繰り返して、対立仮説の正しいという可能性を十分小さくしないと捨てることはできません。

 補注「同意」は「同意味」の誤り。 また大学1年で学ぶ統計学を忘れてしまった場合を考えて、「5%有意」の簡易説明…ある人が「自分は1%歪の再生装置の音と2%歪の再生装置の音を識別できる」と主張したとします。 両方の装置をカーテンの後ろで切り替えテストしたところ正しく答えたとしましょう。マグレアタリの確率は50%です。2回正しく答えればマグレの率は25%です。3回当たれば12.5%、4回なら6.75%とマグレアタリの確率は低くなりますがゼロにはならない。そこで普通はマグレアタリの確率が5%以下であれば、「一応認める」とし、「5%有意」とします。 新薬の効果をテストする場合患者さんをサイコロなどで公平に等分し、片方には今までの治療プラス新薬の治療・もう片方には今までの治療プラス偽薬の治療をし、両方の治療結果を比較して効果がないとすると滅多におきない数字(確率5%以下)だから効果を認めたほうが良いとするのが「5%有意」。  大多数の心理学、臨床医学。多くの生物学、工学などの研究論文はこの5%有意という判定を一応信頼する事で成り立っています。 ですから研究結果が再実験で否定される事も少ないがあります。  95%信頼区間…ある生徒のテスト得点が普段の諸テスト成績から計算して「95%の確率で78点から85点の間」となったとすれば、それが95%信頼区間です。 ですからそれより良い得点や悪い得点をとる可能性もゼロでない。

 社会科学ではいっそう副次的原因が多いので仮説の真偽を一発でみわけるような実践結果はなかなか得られず、どの説でも我田引水が可能なのが普通です。ですから生物学、医学、心理学と同じように十分実践を繰り返し、「対立仮説の確からしさ」が十分ゼロに近づくのを待たなくてはなりません。そうでないと捨てた仮説の「確からしさ」だけ誤りをおかす期待が大きくなります。
 補注 この「期待」は数学用語の「期待値」に似た意味の新唯物論用語だが、文学的直観的に解釈しても問題はない(文章として変だが)。

#3 少数意見は全党員に理解されなければならない。  この3が劉少奇などの経験による議論と異なる新唯物論独特の議論です。
 補注 「独特」は三浦つとむ氏の諸著書を調べていなかったための誤り。

 新唯物論では「誤りがあれば実践によって正される」というマルクス・レーニン主義者の常識が否定されます。 例えば医学では「正される」前に患者が死んではたまりませんから「正される速度」を考える必要があり、そのような診断方法論が考えられています。

 巨視的にみればこの常識は常に真ですが、微視的な一つ一つの局面では偽のことも多いのです。昔のドイツ共産党はいくらヒトラーが進出しても反省せず、壊滅してから反省したのですし、五十年代はじめの日本共産党の徳田、野坂、志田グループ(俗に所感派という)は大多数の党員を結集していましたが、彼らの大部分は軍事方針で多くの党員をブタ箱に送り、衆議院選に当選ゼロとなるまで誤りを正しませんでした。
補注 極右軍国主義勢力と闘うのに社会民主党などと同盟・協力するという考え方でなく、社会民主党批判のほうを重んじた方針。 ドイツでの壊滅のあとフランスでは極右勢力と闘う同盟が成立…人民戦線。 

この理由は次の通りです。一つの仮説だけを知るならば、その仮説の「尤もらしさ」で正しさを評価するので、多少不利な結果でも仮説を変える必要を感じません。かくて「尤もらしさ」が十分ゼロに近づく、つまりよほどひどいことになって我田引水が不可能な状態になってはじめて誤りが正されます。  もし多くの仮説を知るなら、実践によって「確からしさ」がすぐ逆転するので早期に誤りを悟り、訂正できます。
補注 誤りあり。この常識はマルクスやレーニンでなく、スターリンの「実践によって確かめられた真理」という観念論的概念に由来すると考えられる。マルクス、エンゲルス、レーニンは「無限の実践によって正される」「有限の実践によって一定の限界内で正されるが、その一定限界がただちに知られるとは限らない」ことを明らかにしている。パンフでは「正される速度」を問題にし、議論を精密化している。

# この三つの原理の成立する十分条件は次の2条件が同時に成りたつことです。
A 危険が迫っていないこと。
 この三原理は「誤りはやむを得ないが、十分長く実践するときに誤りが最小になる」という原理です。ですから、革命時や実力闘争の大詰を迎えたときの闘争について…などの場合は三原理が成り立たず、一人の人物に非常大権を与えたり、党を割ることが正しい場合がでてきます。要するに確率つき論理が使えないときは新唯物論=マルクス・レーニン主義なのです。
 補注 登山で危険が大きい場合、全員が意見を述べたあと多数決でなくリーダーの判断に従うというのも例としてあげられるであろう。 すなわち実践繰り返し不可能だから、失敗によってメンバーが学習し、全員の能力が等しくなってゆく…といった現象がなく、 リーダー一人の判断のほうが正しい確率が高い…つまり非常大権が必要な場合である。
また「新唯物論=マルクス・レーニン主義」は誤り。「新唯物論=マルクスやレーニンの唯物論」としなければならない。  「マルクス・レーニン主義」とはマルクスやレーニンを無謬の神とし、スターリンを無謬の預言者とする宗教であろう。
B 仮定「すべての党員の能力がほぼ等しい」が仮定「Aに賛成しているのはまともな共産主義者だが、Bに賛成しているのは過去の資料からいって低脳、教条主義者、修正主義者などといえる」より不合理でないこと。  もし前者の仮定が成り立たないときはオール・オア・ナッシングの論理を用いなければならず、後者の仮定はオール・オア・ナッシングの論理を用いる条件とイコールです。どちらの仮定が合理的か過去の別資料から定めます。 

 この理論から、「思想の異なるプロレタリアートの統一」の理論がすぐ導かれ、その理論は学生・院生にも準用できます。 1-3の議論は「すべての実践者が唯物論者」で成立するのですから、前衛党や一部の科学者集団でのみ厳密に成立するものです。
 しかし「食卓に仕える」ときは誰でも唯物論者であることをフォイエルバッハとレーニンが教えています。切実な要求のあるところではすべての人々が唯物論者であり、要求からはなれた抽象論ではインチキ宗教信者や反動思想の持ち主になり得るのですから、切実な要求の「近傍」*で前衛党組織論を使うことにします。
補注 微積分でいう「近傍」の転用。院生、学生の切実な要求やそれに密接に関係した事についての言動を見れば、彼らは唯物論者とかわりないが、そのかわりない範囲が「近傍」
#1. の多数決原理、#2の少数意見保持は、ブルジョア民主主義社会では大衆に認 られますから問題ないように見えます。
 しかし右翼社会民主主義者は1.を認めず勝手に分裂策動を行いますし、ストライキが必要でも半日研究放棄にしたり、一部の要求項目をおろさないと院生学生の大多数の賛成が得られず、事実上闘争が成り立たないことがあります。

 この場合、多数決万能論や「一致できる線で行動し一致しないところでは行動しない」という統一戦線論では分裂のおそれが大きく、低い線にあわせる他はない事が多いのですが、ディミトロフは「統一戦線は決して社会民主党の思想に調和するものでない」といいます。 このとき、#3が右翼日和見主義を弁証法的に乗り越えるものとして登場します。 すなわち「批判しながら、低い線に合わせる」「実践により誰の考えが正しいかしだいに明らかになる」「最後には高い線に統一できる」という統一戦線論が成立します。批判者の意見が全員にわかればよいので、批判者は執行部でも政党でもフラクションでも良いのです。

 共同実践として不十分な実践を行ったとき、そのままでは多くの大衆がバラバラな総括をしていまい、前進する方向がでなかったり、極左盲動に走る人びとがでたりします。唯物論者がもし、正しい意見・仮説を出していれば、多くの大衆は現実の実践結果をみて己れの誤りを悟り、正しい意見に賛成するようになるでしょう。
  補注 ディミトロフは社会主義の多様な道を認める(ユーゴスラヴィアも社会主義だと認めた。後に認めなくなったがスターリンの圧力であろう)など、理論的にスターリンより優れていると思われるが評価をするほど筆者は勉強していない。

 この理論どおりになった実例として、昨年九月――十月の民主化行動委員会の退潮、敗北があげられます。無期限ストが正しいと知りながら三日ストあたりの線で提案をしたのはよいとしても、低い線にくっついたまま批判なしだったため、三日ストの効果の不十分なことを実際やってみて知った多数の学生院生が、唯一の対立仮説であった全共闘の極左主義を正しいとしてしまったのです。

補注 「多数の賛成参加が得られる方法として三日ストライキを提案する。もし結果が不十分なら無期限ストも執行部は覚悟しているしその可能性は高いと考えている」と言えば良かったのである。
 民主化行動委員会の一時的敗北の直接原因は以上の通りだが、教授,当局の見方の誤りが根本原因であることが理論委員会の調査で後に明らかにされた。教授は労働者だから話し合うことが先決という民主化要求勢力大多数の方針である。「闘うことにより、学生院生対教授の矛盾は小さくなり、教授会と文部省・大企業との矛盾が大きくなる」という、社会矛盾の転化の弁証法がなく,マルクス-毛沢東以前の低水準議論が横行していた。農系自治会の他には医学部学生民主化行動委員会で萌芽的にこの弁証法あり。
 また日常的改良の闘争と構造的な改良の闘争とでは闘い方に基本的相違があるが初期にそれを認識していなかった事は3章に詳しい。   

二 M氏の考える組織は前衛党の欠陥を克服し得るか

 --主観的観念論は「スターリニズム」以下であり分裂と内ゲバを導く-
 新しい唯物論では1.2.3の前衛党欠陥、誤りによる被害を極力小さくしています。これに対しM氏の理論ではどうでしょうか。氏の理論は武藤一羊氏やいいだ・もも氏の理論と酷似し「新左翼(?)」共通の理論があるようです。

---「行動が中央に直結し、党員の疎外化をもたらす」
 新唯物論では少数意見でも正しければ、速やかに多数意見に転化しますから、この欠陥はそれほど大きくありません。しかしM氏の理論ではこの誤りがスターリン式組織論(レーニン式というべきですが、氏の気に入るようにスターリン式としておきます)より大きく、お話にならない事を論証しましょう。

 氏が「戦う意思のあるものの参加」というとき、氏は上記の矛盾がないかのような錯覚に陥っているようです。 しかし氏が矛盾なしと思っているは要するに氏個人の意見が通っているからなのです。 
いま反対にM氏が「正しい意見(?)」を持つのにそれが通らなかったとしましょう.すると氏はスターリン式前衛党員と違ってサボタージュする権利を持つことになります。けれども氏がサボタージュし、どこかに隠遁したところで、正しい少数意見をどのようにして多数意見に変えるのでしょうか?  せいぜい氏一流の策略を使うのが関の山です(11月22日という同じ日に「全共闘支持」の署名入りビラを本郷キャンパスで出し、「中立」の署名入りビラを農学部キャンパスで出したように)。
 要するにやはり疎外されるのであって氏はそれに目をつぶるだけという哀しい抵抗権を持つにすぎません。 

 そしてこれはスターリン式組織論よりずっと悲劇的な、また喜劇的な組織論です。 なぜなら、多数派が隠遁所から出てきたばかりの氏を弾劾して 「少数派のウラギリモノ=Mらの輩がサボタージュを行ったため失敗したんだ。こね野郎!」
となったらどんな反論も水掛け論になってしまいます。多数派の誤りで失敗したのか、少数派のサボタージュのために失敗したのか分かりませんから、ひどい状態からなら立ち直れるスターリン式と異なり、どんなにひどい、めちゃくちゃな状態になっても反省無用です。
「多数派の横暴と誤りだ!」「少数派のサボタージュと裏切りだ!」
かくて分裂がはじまり、内ゲバとやらが発生し(史上最初の内ゲバは「新左翼」同士で生じた)さっさと自滅いたします。やれやれ!

--「大衆の意思に反したセクト主義となる」--

 新しい統一戦線論では,一人一人が共同実践の結果に学び、主体的に正しいものを吸収して自己改造を行います。ですから、活動家が誤っているときは、その意見が否定されて、より正しい大衆の意見が通り、「ひきまわし」や「セクト主義」は原理的にほとんど起こらなくなります。 これが本当に「大衆に学ぶ」思想であり、毛沢東氏のはまがいものでしょう。大衆の言動から「これは学ぶべきことである」という判断ができるなら、活動家の誤りはほとんどなくなるでしょう。そうでなく実際に必要なのは、己れは正しいと信じながら実はそれが間違っていて大衆のほうが正しいとき、大衆に学ぶことなのです。新統一戦線論ではそれが自動的に行われます。
補注 思想の異なるプロレタリアートの統一について述べている。唯物論支持の研究者にも学説の違いがあり、プロレタリアート同士にも考えの違いがある。 すなわち学者や前衛党員を含む人民全員に誤りはごく普通であって、誤りを極力速く各人が主体的に訂正するような方法論が統一の方法論だというのである。

 M氏の考えによれば、全共闘は「一人一人が主体的に行動する」人びとの結集体ですが、その結集体は学内人民全体ではありません。「全共闘」が一部の人びとである以上、そのセクト主義をどうにかする方法論がなければ、氏は大きな顔をしてセクト主義批判などできないはずです。それなのに自分の少数の主張を貫くために農共闘、全共闘は負けそうな学生大会(1月6日農学部など)に日大等「外人部隊」とともに鉄棒、角材を持って殴りこみをかけ、逃げ遅れた素手の「ミンセー」と「ウヨク」(オレに反対する奴はミンセーでなければウヨクだ!!)を安田講堂に拉致して可愛がった…などというのはセクト主義どころの騒ぎではありません。

 また内部では? いま革マル、青トロ、フロント、ML,社学同、中核、プロ軍団、アナキストなどの諸雑派(なんと多くのセクトがあることよ!)が存在せず、「ノンセクトラジカル」だけで「全共闘」ができているとして、セクト主義の害はないのでしょうか? その中で意見の違いがあったとき、「ひきまわし」を防ぐのは、またもサボタージュのみです(別個に行動するとしても多数派の行動をサボルことは確か)。実践によって誰が正しかったかきめる方法はないのです。
---ええっ。 意見の違いはないって? それじゃあ君は「スターリニスト」かね? それともソーカガッカイかね?---

 ですから自分だけひきまわされないで満足します。いわく「オレはセクト主義の被害者ではない」…なんと隠者文学的なことよ!! 「オレは戦争になったら病気になるから、自衛隊に入っても人ごろしはしない」と悲しく胸を張るのが氏の主張です。もちろん「スターリニズム」以下のとんでもない代物。

--「レーニン・スターリン式前衛党組織論は組織の自己目的化をもたらす」--

 これは「何かことがおこりそうだと守勢に転ずる」右翼日和見主義の批判でしょう。 東大でも、好仁会暴露反対(3月)、大河内辞任反対(7月)、上田・豊川の退官要求せず(春)など、この種の誤りがありました(農学系はこれらの誤りに基本的には連座していませんが)。
補注 闘いが医学部中心だった時代に、病院内で食品、日用品を売る「好仁会」が実は医学部ボス教授どもの経営であることを暴露し、世論を味方につけて医学部反動派を追い詰める作戦。  自由主義者大河内総長を辞任させると反動分子が総長になり闘いにマイナスになるという執行部多数意見。辞任させる力がつけば反動分子登場阻止も当然可能だという弁証法的思考でなく現在の力関係を不変と考える静止的思考。  好仁会のほうは、もし好仁会がつぶれて生協が入ったら労働者の給料が下がるという主張があった。当時学生院生は生協労働者の賃金引き上げに賛成していたが、大学職員組合は職員より高く賃金を引上げるより値段を下げるよう主張し、生協労働者の賃金は低かった。闘争の力で暫定的賃金差別の問題はクリアーできるという考えに立たず、現在の考え・要求を不変とする思考法にもとづく判断は大河内辞任要求の場合と似る。  上田・豊川退官要求をしなかった理由は忘れたが、退官要求をすると文部省の干渉による教授退官もおこりやすくなるという理由(力関係の変化、闘争する大衆の前進を考えない非弁証法、スターリン的静止論)ではなかったか。

 この原因である戦術論、実践論の低さは我々にもありました。林学問題もそうです。教育研究体制総点検運動を単によびかければ運動になるというのは幻想でした。医処分や機動隊導入問題などのような全体の運動に支えられたところで教授会と対決し、内部団結および学生、助手との同盟をかちとるべきでした。それができて、総点検運動から学内民主化の可能性が開けたでしょう。
補注 第一の柱は…の要求、第二の柱は…の要求…といった静止的つまり弁証法ぬきの発想から闘争初期には抜け出していなかった。まずどの要求をとりあげ、どの勢力を味方としどの勢力を敵として闘うか、そのなかで変わった力関係で次はどの闘争をやるのが有利か…という方針でなかった事を後に自己批判した。林学問題とは何を指していたか忘却。現在闘争中の各自治会執行部・各セクト立看板スライドとビラの整理を少しづつはじめているので、整理が済めばわかるかも知れない。 なお力関係の変化についての具体的な例を「古典唯物論の正しい範囲、諸定義」に記した。

 要するに戦術…実践論を豊かにし、キチンと展望を持つ方針をつくることによって、「トロツキスト」諸君の猪突猛進…その結果学内および全体の人民全体から浮き上がって、大弾圧でつぶされるという「飛込自殺好(?)」路線に対決できるのです。

 ここではごく一般的、教科書的な戦術論の基本を記します。
1. 勝つ局面を想定する。どの線(要求、スローガン、戦術形態)でどのような勢力を結集し、どの勢力を当面の敵とするか。
2. 現在の局面から、勝つ局面に誘導するには、どのような低い線から出発して、新統一戦線戦術で高い線まで押し上げるか? またどのような副次的闘争(粒良君アリバイ調査など)を組み合わせて敵を切り崩し味方を増やすのか?
3. その道順を考え得るなら全力をあげて闘う。
4. その道順を考え得ないならその闘争は負けだから、戦う姿勢を強めるカンパニアをやって撤退する
補注 4は次の闘争の準備としての団結が主目的の宣伝中心の行動というほうが正確。 粒良君アリバイ調査とは闘争現場でなく九州にいた学生を処分したという調査で、その結果処分がいい加減なものである事が国民に周知となった。

 しかし「戦術論」を今すぐ書ける人はわれわれの中にいないでしょう。1-4は毛沢東氏の遊撃戦論(これは素晴らしい)の翻訳にすぎません。日本共産党は産別を多数の誤りで潰してからは、いくつかの単産と一つ一つの現場、いくつかの地域、全学連といったところでしか実力闘争の経験を持たず、またその少ない闘争の成功や失敗の原因分析は必ずしも行われていません。この現状では安全第一をとる日和見主義が生じます。これらの例を含めて私たちが地道に学習することにより、M氏らの「否定のための批判」をやがて完封できるようになるでしょう。

三 自治会全員加盟制その他について

 ---観念論と安易な精神主義への逃避を排す-
---「全員加盟の自治会ナンセンス」
 これに対しマルクス主義の立場から「院生(学生)には共通の利害があり、それにもとづく運動体としての全員加盟制自治会がある」という批判をいままでしてきました。これに対して主観的観念論の立場から反撃がありました。「何が共通の利害なのか個人の意見、思想によってすこしづつ異なるからはっきり決められない」「ミンセーが勝手に決めるんじゃねえぞ!」
 新しい唯物論では「何が共通の利害か不明」という場合の見られる事を認めた上で、「共通の利益を守る」だけでなく、「共通の利害を発見-真理を実践により発見する」ということを,新統一戦線論により、「正しい意見、理論がどの勢力,個人にあってもそれに統一される」という方法論にしたがって行うのが自治会活動の基本であるとします。

 氏の「闘う意思のあるものが参加」などの主張は「選ばれた少数」「能動的要素」などを考えるアナーキストの主張と同じでありもトロツキズムからも離れています。大衆蔑視の思想!!
 ただし相対的に「能動的」な人びとがいることは事実であり、その人びとのエネルギーをどのような方向に向けるべきか別の方法論が必要ですが,ここでは触れません。

---「東大人の自己否定」

 これについては一部の知識人の錯覚を明らかにしなくてはなりません。一部の良心的教授、文化人などは「自己の内なる東大に対決する」ことは、自分の「エリートとして上から与えてやる」活動に対する批判として受け取ったようです。その人びとの旧制東大はまさに支配階級の手足を養成する大学でしたから、全共闘の言葉で反省した人びとがいるのでしょう。

 しかし今の東大生は本当のエリートでなく、「一流会社」にゆくという上層プロレタリアート予備軍としてのエリートであるにすぎません。  そして「自己の内なる東大に対決する」思想は全共闘が敗北を重ね孤立化する過程でつくられたのですから,その実は頽廃です。全体の現状の闘いを自己の精神論に還元し、自己のカラの中で満足する哀れな観念論者の議論です。良心的教官と議論するとき要注意。

「イデオロギー的構造論」=政治革命の忌避

 これは精神を変えることによってすべての革命を即決でやりたいというプチブル的願望を含むとはいえ、やはの基本的にはすべて精神にすりかえる頽廃です。 人間の思想を変革する方法は2つあると考えられます。活動家は制度機構その他の政治的矛盾に目をつけ、ある人間の要求がその人の思想と両立しない場面での思想変革を援けます。芸術家は印象のモンタージュ(エイゼンシュテイン)によって直接原思想というべきものに訴えます。
注 フランス大革命のダントン、エベールや昔の日本の無政府主義者,現代の「トロツキスト」などが、一面において英雄的でありながら、一面では金や性にだらしないこと,悲壮感と楽天主義の共存など、歴史的役割や思想そのものの大きな違いにもかかわらず、人間的には酷似することに注意をひかれます。同一の原思想が時代的環境の違いにより、さまざまな形をとっているのです。
補注 非言語的思想とでもいうべきところ。思想には言語部分と非言語部分があり、「芸術とは印象の組み合わせに伴う条件反射によって非言語の原思想を脳内で合成するもの」という考え方である。非言語思想は時代や環境によってさまざまな要素と条件反射で結びつき、思想全体となるというのである。 フランス大革命では社会変革に大きな意義を持っていた原思想が日本の無政府主義者では意義がより少ない思想となり、現代「トロツキスト」では暴発をもたらす思想としての意義しかなくなったという考え方である。 なお彼らの理論は言葉の粉飾を除けばトロツキーの思想とは遠く離れていて自然発生的アナーキズムの一種とすべきであろうから「トロツキスト」と括弧をつける。
 M氏が「イデオロギー的下部構造」にどう対決するか、「精神革命」をどうするのか、これを処分権、テーマ選択権などと無関係にどうして行うのか、お伺いしたいものです。現実の政治制度と思想の矛盾にふれず思想変革を行うとすれば芸術作品発表以外では「折伏」「洗脳」になってしまうでしょう。

--社会主義社会の「スターリン主義」が「全共闘の延長上にある何ものか」で解決されるか

 氏の考えるアナーキズム社会主義(?)またはトロツキズム社会主義(?)の政治経済的構造を知らされないと氏のいうことに反論しにくいのですが、おそらく精神万能主義であり、毛沢東氏流の現人神崇拝一神教でなければ、バクーニンの「労働と平等にもとづく、完全に自由な経済組織と連合をつくる他はない。それはどんな政治支配からも自由であるべきだ」というアナーキズムでしょう。  なぜなら社会主義社会の矛盾である

1. 国家レベルの生産力発達と一つの企業レベルの生産力増強および労働者一人一人の目先の利益の三つは必ずしも一致しない。
補注 この3つがしばしば矛盾する、とすべきところ。 現場要求と国家計画との矛盾のため末期のソ連ではアメリカの10倍のトラクターをつくる(両国の耕地面積には大差がない)などの凄まじい無駄が生じていた事は現在周知であろう。 革命初期だけ中央指令経済が合理的な事は戦前に一部の近代経済学者が予言していた。 スターリンは統計学・計量経済学に弱いため、その論旨が政治的主張と無関係に正しい事を理解できなかったのであろう。

2. 労働者の中にあるブルジョア思想について、命令や折伏でなく、本人が実践しながら、実践に学んで自己改造するようには,必ずしもできない。
補注 特別ひどい悪文で「自己改造する事がいつでも可能とは言えない」とすべきところ。

 これらの矛盾に対する方法は「矛盾を最小限に減らす」か「矛盾を観念の中で否定しさる」かどちらかです。
 今までのM氏の方法論、すなわち観念の世界にとじこもり、目をふさぐことによって矛盾からのがれたと信ずる方法論、自由と自然発生的な個人の志向を至上とする人間本能万能主義は全くアナーキストの思想と同じでトロツキスト的思想でさえないからです。
 社会主義社会論は氏の論文からずれるので省略しますが,今の社会主義社会を批判するならば唯物論――物質が精神を規定する――を発展進化させてゆく方向、すなわち精神主義でなく科学的に社会を分析するマルクス、エンゲルス、レーニンの道の先に立つことによってのみ未来が約束されるでしょう。

 以上の議論を見れば、左翼政党が複数あったり、左翼政党政策派閥が複数あっても、第1章の結論が変わらない事が自明であろう。  各政党・政策派閥は他政党・他派閥を一般人民と看做せばよい。

第2節゜社会主義国て資本家と右派政党が存在する場合

   まず
1 資本主義経済を併用するかどうか
2 人民企業を併用するかどうか
を考える事にしよう。
 併用するかどうかの基準は
@ 人民1人1人が実践に学び、「市民的自由」を感じる事ができる
A 原理的に経済発展速度が大
B 原理的に格差が絶えず小さくなる
となろう。
 人民全体として思想的に速く前進する事が「権力と市民的自由の矛盾」を速く減らす事になるからこれらの 基準は合理的であろう。

   社会主義国に伴う計画経済の典型としては
1. 国家中央計画経済
2. 人民企業・または人民企業と資本主義企業の自由計画を計量経済学によって 統計的に中央計画と大体一致させるという経済
が考えられる。 
   第2次世界大戦後、オスカーランゲが(後者を採用した国家では)資本主義国より計量経済 学の法則が正確に作用すると述べていたという記憶があるが、文献を記憶していない。

1のタイプの経済はソ連で採用されたが、次のような3つの致命的欠陥があり、 途上国や小国でなければ維持困難であろう。
@ ヤミ経済が発生しやすい…生活必需品は安く、贅沢品は高くという価格体系 だから、生活必需品の生産者は、生産品のうち一定の部分を国家におさめた あとの残りをヤミ屋に売るようになりやすい。 ヤミ価格は資本主義国と同 じだから収入増となる。 結果として「農業不振の年が続くが、国民は飢え ていない」という不思議な事になりやすい。国営公営商店でヤミより安い品 は行列、ヤミより高い品は売れ残りとなりやすい。 
    末期のソ連や現在の朝鮮(北)の経済の姿であろう。
   この欠点は革命直後の途上国であった初期のソ連では問題にならなかった。
A 現場計画を上部で調整し、最終的には国家計画とするが、この過程でサバ読 みが発生しやすく、国家段階の計画が空中楼閣となりやすい。
    途上国の場合は各現場の計画は生産可能なギリギリの数字になっているであろ うが、先進国になれば現場の計画は「上部で調整されても困らないように余裕を持たせる」 事になりやすい。
    末期のソ連でアメリカの10倍のトラクターを生産したという事実は上記のような 説明しかあり得ないだろう。当時のアメリカとソ連の耕地面積は同じ位である。

B 原価計算をしないので、高級部品を安物製品にも使うという無駄が生じやす い。
    東独のカメラは日本製品、西独製品に匹敵する品質であったが、ドイツ統一後、     東独カメラが消えた…・その原因は原価計算をしなかったためだと言われている。

 これらの欠点は資本主義的生産を併用すれば一掃され、現在の中国やヴェト ナムではこれらの欠点がない。 
 ただし小国や貧しい途上国では欠点があまり問題にならず、干渉してくる外 国巨大資本家との闘いのため、資本主義的生産を導入しないほうが良い場合が あろう。

 ここではより一般的と思われる「資本主義的生産を併用する場合」だけを問 題とする。
 すなわち社会主義国で資本主義的生産様式が併用され、したがって大資本家 や右派政党も存在するという仮定のもとで以下の議論をする。

 このような社会で、資本家を含めて自由な宣伝が可能だとしたら、右派政党 が多数票を得る可能性が高い。
 人民の多くが国家御用組合(幹部は左翼支持であろうが一般組合員はノンポリ が普通であろう)と大資本家御用組合に組織されるか、何の組織にも属していな いとすれば、選挙における大多数人民の判断基準は宣伝だけとなり、金満階級の大宣 伝に選挙結果が左右される事となろう。
   そうなった例としてはソ連改革派大統領ゴルバチョフの失敗例がある。選挙制度を 民主化自由化すれば民衆は改革派を支持するだろうという期待に反し、金満階級の代表で あるエリツィンが大統領選挙で当選。 国有財産の分捕り合戦がはじまり、ロシアGDPは 毎年10%程度の降下となり、国民生活水準も大暴落した。 それでも国民の多くはプーチ ンの登場まで泥棒共の利益代表を支持していたのだ。 大統領になったプーチンは泥棒共 の多くを逮捕し、それからロシア経済は再び成長をはじめる。

現在の社会主義国はすべて金満階級の宣伝を禁止または制限している。 だから形式的 には資本主義国のほうが自由という奇妙な現象が生じている。
 「自由で民主的な選挙」で人民の利益を目指す政党が多数になるためには、人 民の大多数が大宣伝・広告にある基準でなく自分の生活の中で得た基準で投票 しなければならないであろう。
 つまり御用組合でない労働組合や農民組合、地域の市民運動や生協運動など に参加している人民が人民の多数派でなければならない。
 そうだとすれば、人民企業に参加する人民の割合が多いという事が「形式的 には自由で民主的な選挙」で(金満階級でなく)人民代表が選ばれる事の必要条件 になるのではなかろうか。

 そしてオスカーランゲのいう通り、人民企業主体の社会は計量経済学理論に よる予想が現在の資本主義社会より現実と合うという社会である。

 だから具体的には次のような社会を想定する事になる。
国営企業(公営企業)、資本主義企業、制限つき資本主義企業(資本主義企業であ るが、社長を拒否する権利が労働組合にあるなど、労働者間接経営権の企業) 、人民企業(社員総会イコール労働組合員総会イコール株主総会の企業)が存在し、 これらが移り変わる制度のある社会である。

 資本主義企業は一定年度のあと制限つき資本主義企業に変わる…制限つき資 本主義企業は組合員投票(8割とか9割の賛成を想定)で、人民企業に移行(その際 資本家は国債を取得)・…倒産した人民企業は資本家に売却され資本主義企業と なる…人民企業は適当な条件で国営企業(公営企業)に変化し、逆の変化もあり… となり国営企業(公営企業)・資本主義企業・制限つき資本主義企業、人民企業が 並立するとともに相互に移り変わり、平衡状態となる社会である。 この想像 上の社会を「平衡型社会」と呼ぶ事にしよう。

 数学に「混合方略」という理論がある。 簡単にいえば、一長一短の方法が 複数あるならば、それらを一定の割合で混合するのが有利だという理論である。
 だから中国のような国営企業と資本主義企業の共存する社会は欧米日のよう な資本主義企業一辺倒の社会より成長速度が原理的に速い。 感覚的にいえば (大変不正確だが)好景気のときは資本主義企業が国家経済を支え、不況のときは 国営企業が支えると言う事になろうか。
 国営企業、資本主義企業に加えて人民企業があれば、原理的には成長がさら に速くなり得る事となる。

 そのような社会では宣伝の自由も保障され、市民的自由が制限されていると いう意識を持つ人は原理的にすくなくなるであろう。 金儲けの自由だけは制 限されるが、このような社会では次第に資本家の意識が変化すると思われる。
 すなわち、富を作り出す事自体が面白く人生に価値のある事となり、それは 科学者にとって発明発見が面白く人生に価値があるから研究をするのに相当す る。

 人民の力量が増せば人民企業の割合が増すが、絶えず新しい資本主義企業が 発生するから資本主義企業がゼロになる事はない。
 マルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東などが考えていた単純な社会主義 社会が共産主義社会になるという理論は不正確であり、当時の文科系知識人の 数学・自然科学知識の限界に規定された理論である…・すなわち歴史的に規定さ れた限界を持つ理論、相対的真理とすべきであろう。

、資本主義国の場合
 大資本家と労働者との矛盾は基本的矛盾であり、止揚する方法はない。社会 主義社会の場合に矛盾を小さくできるだけである。
 だから革命つまり労働者階級の権力奪取が「市民的自由」拡大の基礎である。  また前記の人民統一戦線運動すなわち「思想の異なる労働者の統一運動」は 部分的に「市民的自由」拡大に直結している。   

 無限に共産主義社会に近づく社会主義社会すなわち平衡型社会が実現可能な のであり、現在の社会主義国はもちろん資本主義国(大帝国主義国を含めて)もそ れに近づいてゆくであろう。

  教室モデルに戻って考えれば、「みな同じ事ができる」という平等でなく「それぞれの個性を尊重して平等」を目指す事になる。人民企業では平均   的能力に優れた人物も必要だが、個性的能力に優れた人物も必要になる。
       「生徒に大歓迎される行事」を次々に工夫した酒井一幸氏らが「個性を尊重して平等」な教育方法の開拓者でもあった事は第6章で記す。
   社会全体としても、「個性を尊重して平等」をめざす事になろう。
       平衡型社会への道
 平衡型社会の建設には、人民企業が多数できる事が必要であるから、途上国が毛沢東式 の社会主義革命*を行った場合は、労働者の企業経営の力が不足である事が普通であろう。 長期にわたる国家中央経済の時代が必要であり、資本主義経済の導入から人民企業に至 るか直接人民企業の導入となるかは国家によって異なるであろう。
 *農民が労働者階級の思想で武装すれば社会主義革命が可能という理論は毛沢東。これは   ブルジョア革命にも適用可能な理論だから、明治維新やトルコ革命の場合ブルジョア 階級の力が弱くてもブルジョア革命だという事になる。
 先進国から平衡型社会に至る場合は、権力移行と同時に金融資本の国有化、産業資本の 一部企業が制限つき企業化または人民企業化ということになろう。

   現在の世界はアメリカを先頭にした帝国主義国、中国などの社会主義国、インド、ロシ ア、ブラジルなど民族資本支配国の3勢力の力が拮抗しているといえよう。 アメリカは 金融資本の時代となり、巨大資本家の多くがすぐ儲かることに手を出す結果、「空洞化」つ まり基幹産業が穴だらけになるという現象がおきている…恐慌が生ずる原因と同一…。ア ップルやテスラのように富を作り出している大企業もあるが全体としてアメリカは現在金 融と兵器産業で成り立っている国、富の生産における寄生虫的存在と言ってよいであろう。  社会主義国であるが故にバランスの取れた産業発展を続ける中国に購買力平価でかなり 差をつけられているが、この差は大きくなる一方で、名目GDPの逆転も近い。
   従属国である日本、ドイツ、フランス、イギリスなど(イギリスとフランスは植民地や従 属国を有する帝国主義国でもある)は経済が停滞し、購買力平価ではインドがGDP3位、ロ シアが4位、日本5位、ドイツ6位、ブラジル7位、インドネシア8位となってフランス とイギリスはその次だ。(エリツィン時代に)アメリカとその従属国が上位を独占していた時 代とは隔世の感がある。

         新唯物論と古典唯物論