東大闘争の全人民的意義

 前記自治会理論委員会の闘争総括の一部だが、総括要約に近い内容の論文であり、東大闘争で民主化をめざす勢力の成功と失敗を評価したものである。
 民主化勢力は一時全共闘に敗北し、その原因となった戦術的誤りは「全共闘は前衛党に代わり得るか」にあるが、ここでは戦略的誤りをあげている。そのうち1つは「教授は労働者だからまず教授と平和的?に話し合って問題を解決すべきだという非弁証法的思考だが、この論文ではほとんど扱わない。それを詳細に扱う論文を委員会メンバーのF氏が書いたからである。
――この誤りについては前掲論文「全共闘…」補注でも略述。大多数の自治会で全共闘派 が多数の支持を得た時代にも、農学系院生自治会では全共闘支持が最大
19と極めて少なく、ほとんどが「全共闘…」にあるM氏の学科メンバーであった。
 ここではもう一つの戦略的誤りである、構造的な改良と日常的改良の闘争の戦い方の基本的な違いを認識していなかった事について書いた。そして構造的な改良では大衆的革命論争が不可避であることを記す関係で、高度に発達した資本主義国での具体的な革命移行論を記すことになっている。
なお
4節が甘すぎる(理論的に低い)と他メンバーに叩かれ、4節だけ修正増補がおこなわれたが完成版が発見できない。現在修正する事は当時の記憶がないから不可能である。また現在見ると問題の部分もあるが、論文の性格上無修正とする。ただし解説のための補注は追加した。日時を書き忘れているが1970年であろう。


東大農学系大学院自治会理論委員会   東大闘争総括第
1部補章

          東大闘争の全人民的意義

  ---東大闘争の戦後史に占める位置---


1. 総論
 東大闘争は戦後歴史に特筆されるべき重要な闘争であったと我々は考える。
68-69年初めの文部省、警察、自民党、経団連、そして佐藤首相みずから乗り込んで行った東大闘争への介入、干渉、弾圧もまた東大闘争の意義かにみて当然であった。東大闘争は権力の心胆を寒からしめるいくつかの要素を含んでいたのである。

 東大闘争は改良の闘争であるが、授業料値上げ反対とかピンポン台よこせといった日常的改良の闘争とは根本的に異なる闘争であって、大衆の討論が権力の本質論にまで達し、権力の一部を改良する闘いとなった。すなわち大学当局の機能のうち国家権力の末端としての機能を制約する改良となったのである。

原注 ただし確認書以後、ある程度改良が後戻りし、警官導入については東大闘争以前より悪化しているとさえいえる。その原因は全共闘を名のる盲動集団の暴力とともに我々の側に誤り(第1部各章)が少なくなかった事である。しかしそれは東大闘争の本質を変えるものではなかろう。

 もちろんそのような改良が今までなかったわけではない。しかしそれは進歩的教授の協力や名大医学部のような当局の分裂抗争に乗じて得られたものが多かった。
 693月の田村教養学部長の感想「当局、政府、学生、諸党派などが全力をつくし、つまらぬミスで事の成り行きが決まったのではないから(東大闘争の)意義は大きい」由であるが、その通りであろう。
 「白い巨塔」の本場であり、反動教授の多い医学部をはじめ、各学部の反動派、文部省、警察、自民党などの妨害、弾圧に対して不十分とはいえ確認書ほ得た意義は大きく、また東大が西の京大とならんで、教育研究から政治にいたるすべてに大きな位置を占める大学である事もその政治的意義を大きくしている。

 ただし、以上は一般大衆運動として、すなわち人民の一翼としての闘争という側面を評価した場合である。
 人民のうちの特殊な一部、すなわち研究教育を行うインテリゲンチャとしての運動という面では、東大闘争はきわめて不十分なレベルにしか達しなかった。 
 我々はなぜ東大闘争が構造的な改良の闘争になり、権力を驚かすことになったかという原因とともに、運動の不十分な原因についても十分分析しなければならないと考える。

原注 構造的な改良とは文字通りの意味で佐藤昇氏らの革命論とは関係ない。他 によい言葉がないのでしばらく「な」の一字を入れて区別しておく。

2. 構造的な改良と思想、理念の闘争

 ではなぜ東大闘争は権力の一部機能を制約する構造的な改良の闘争となったの であろうか。それは次の二つの結合のためであろう。
1. 現実の矛盾がきわめて激しかったこと
2. 大学の構造、体制を問う思想、理念の論争が大衆的に行われた事

 いままでも矛盾はあった。 しかし、それは「大学民主化」「大学解体」などの思想運動と結びつかず、「処分撤回」程度のレベルにとどまっていた。フランス大革命にしても、ソヴェト社会主義革命にしても、すぐれた思想が出て、思想の闘いが日常の闘いと結合したところから起こっている。思想がなければ、どのような矛盾大爆発があっても、一揆や暴動にしかならない。
 一方、思想や理念だけでは大闘争をおこすことができない。現実の矛盾が掘り起こされ、爆発して巨大なエネルギーが発生するとき、そのエネルギーを一定の方向にみちびき歴史を動かす力の形成に思想が大きな役割を演ずる。この二つの結びついた大闘争は東大はじまって以来のものだったろう。

 矛盾はなぜ激しかったのか。それは大学と政界、大資本との結びつきが強まってきたからである。医学部処分の大もとは医学部長の豊川と病院長の上田が政界と結びつき、青年医師を2年間15千円-25千円で働かせ、教育は事実上できないし、そのわずかな謝礼さえ毎年与えられるという保証なしという悪法をつくったことにはじまる。そして豊川や上田を選んだ医教授会の中には水俣病の責任ごまかし論文をでっちあげた勝沼をはじめとして大資本のために不良論文をでっちあげた輩が大変多かった。
もちろん他学部にもそのような教授は多数いて、それが反動層の中核をつくっていた。多くの研究室では非近代的カースト制度のうえで教授が権力をふるい、外から大資本がその教授を「一本釣」にするという手口で産学協同が行われていた。教授の多くが古色蒼然とした講義を行い、大資本のためにするのでなければ、人民とは無関係な趣味の学問をし、院生学生にそ
れを押し付けているのも、このカースト制度のうえにたつ絶対権力者、封建土侯国のマハラジャであるせいだった。

 そして政治家としての能力に欠けた、やせたソクラテス総長が大ヘマをやる一 方、あまりにも過酷な17名の処分、でたらめな不在者処分も手伝って矛盾は大爆発した。
原注  時計台にたてこもる、数十の東大生、医歯大生に対して警官導入をしたこと(「力関係を中心として戦術論」参照)
 大爆発がおこっても、マハラジャ達はその原因に気づかず、ハムレット総長が物笑いの種になった6.28大衆会見から、8.10告示(「東大変革の闘い」東院協、参照)のあたりが開明派(?)の線であったから爆発は激しくなる一方であった。

 その間に学生、院生、職員など被支配改装の中では、単なる「処分反対」「警官導入糾弾」というだけでなく、「なぜ不当処分が行われ、警官導入が行われたか」という論議が行われ、現体制そのものを糾弾する思想が大衆的に登場する。
 その一つは東院協執行部や民主化行動委員会のかかげた、「教授会の自治から全構成員の自治へ」であり、もう一つは全共闘とそれへの参加諸セクトがかかげた「東大解体」「大学コンミューン」「二重権力」などであった。革マルは両方に反対したが、それについては「文学部スト実行委員会方針の研究」参照。 
 そして全学バリケード封鎖をめぐる二つの思想の対立は少なからぬ大衆学生、院生をまきこんだ大衆的な革命論争にまで高まる。 

 この原因の一つは、大学当局が加藤執行部成立まで無為無策であり、矛盾についてかなり徹底的に討論する時間(6.20全学ストから12月まで)があった事である。もう一つはさまざまな潮流が矛盾の原因について訴えていった事である。
 その潮流の主なものは民主化路線と大学解体路線であり、最後は前者の方向で 闘争が決着し、後者を主張する勢力はその空想性ゆえに亡びていったが話はそう 簡単に割り切れない。

 理念、思想の闘いが徹底的に行われたのは、その滅びていった側のイニシアティブによることが多かったことは否定できないからである。 四項目派(東院協、民主化行動委員会など)が大学変革の思想という点で先手をとったという事実(「民主化行動委員会の要求項目の研究」「全共闘の発想・思考の研究」参照)にもかかわらずそうなのである。
 例えば,東京大学が全体として権力に奉仕しているという事実や、自分の研究そのものを問いかえすという思想は全共闘側が先んじてひろめたといって良い。活動家には当たり前のことだが,それを大衆運動のレベルにまで広げなかったのである。

 この全共闘にイニシアティブをとられた原因は、全共闘側と我々の側の両方にあった。全共闘側の思考は、「全共闘の発想,思考の研究」にあるように戦略と戦術目標の区別がなく、矛盾を発見(?)すれば社会科学に規定されるすべての過渡的段階を飛びこえて,その矛盾に体当たりするというブランキズムに一つの特徴がある。ゆえに彼らの感ずる(!)矛盾論は大衆の中に入りやすいものであった。
 これに反し、民主化を主張する側の思考では、常に過渡的段階を考えるが故に、いつも当面の局面での過渡的段階での戦術的配慮が大きなウェイトを占める。その配慮にウェイトがかかりすぎると、理念・思想の闘いで受身になり、「東大が全体として権力に奉仕していることは事実である。しかし…」という訴え方になりやすい。

 我々の側にみられた誤りは、決して一般的に誤りなのではない。1953ころから の我々の運動スタイルではそれでよかったのに,東大闘争では誤りとなったので ある。
 現在の力関係において権力側の力が全体としては圧倒的に人民を上回るという状況下で、我々の経験してきた闘争のほとんどが、「ノンセクト統一戦線型運動…(当面の要求だけで運動し、思想の闘いは地下で行われる…新語,活動家豆辞典参照)」、日常的要求の闘争、カンパニア闘争(宣伝のための闘い)、防御の闘争のどれかであったとしてよかろう。
補注 形態はいわゆる「市民運動」でイデオロギー抜きに近い運動であっても思想の闘 いを地下で行えば、実践によってどの考えが正しいか次第に明らかになり、正しいほう に統一されてゆくから、その運動は統一戦線運動とみなせる。
 「ノンセクト統一戦線型運動」でも日常的要求の運動でも、悪法反対などの防衛闘争でも、宣伝闘争でも、味方を分裂させぬため最大限綱領を出すことはひかえるのが普通である。つまり公然たる思想の闘いは制限される。

 東大闘争は我々のはじめて経験した構造的な改良の闘争であったが故に、その闘争に公然たる理念、思想の闘いが重要であることを理解していない者が我々の多数であった。
 また民主化とは何か大学を良くし矛盾をなくすものだといった浅薄な思考がつよく、民主化とは力関係の平衡点としての制度を動かし学内闘争をしやすくすると同時に、現在主要である矛盾(当局…学生院生ら)を基本的な矛盾(国家権力…教授、学生院生など)に還元することによって学内人民を学外人民と団結しやすくし、革命に一歩近づくものであることに気づかなかったのである。

 総体的には圧倒的劣勢でも、ある小部分では優勢になり得るという事実は中国革命の実例でみな知っていたはずだが、それに思い及ばなかったのである。 その結果、多くの点で全共闘のイニシアティブで理念、思想の闘争が行われるという好ましくない状況が生じ、アナーキズム思想がひろがってゆく一要因となった。

 また理念の方向にストレートに突撃玉砕する全共闘と違って,われわれの側では理念の実現にいたる過渡的段階とそれを実現する戦術を明らかにしなくてはならず、それらの理論の低い水準も受身になる原因であった。十分明らかにする能力またはその歴史的条件がない場合も、試論として自信のないことを断った上で発表すべきものであろう。二部一章の大学解放論はその一例でわれわれの達した水準を、他の論文ほどの自信はもてないまま発表するものである。 ともかく、これらの思想闘争に支えられ、東大闘争は「第一次東大闘争」としてとらえられ徹底的民主化(これは最大限綱領)にむけての巨大な一歩という考え方がひろまっていった。

3 構造的な改良と70年代闘争

 われわれは構造的な改良が社会主義革命に直結するなどという改良主義には反 対であるが、構造的な改良の意義は大きく評価する。
 構造的な改良が拠点の前進であることは「民主化闘争と大学変革」に記された とおりである。確認書は大学被支配層と当局との矛盾をいくらか減らし、その分 だけ国家権力と大学当局との矛盾を増大させた。
 この構造的な改良はさまざまな矛盾をより基本的な矛盾に変えるが故に、拠点前進と同時に人民の団結をつよめるものであろう。より基本的な矛盾ほど、少なくとも潜在的には多くの人民がかかわりあうから、ひとたび機会がくれば、より大きな団結が出現することとなる。十分多くの人民が団結すれば権力は滅びてしまう。
 この構造的な改良は他の改良闘争と組み合わせられ、敵を弱め、味方を強くするものと想像される。しかし、十分改良が進むのを支配階級がだまって見過ごすことはありえないから、構造的な改良には限界があり、改良が一定程度進んだところで彼らは改良を許さず全面対決となろう。すなわち革命である。

 東大闘争は大学という特殊な領域で行われた闘争であり、それを一般化する事には危険があるが、少なくともその特殊な領域ではそれだけの人民の力がある事が証明された。その力の一部は学外人民の力である。東大を軍事的政治的に押しつぶし、かれらの手で再編しようとするより兇暴な弾圧を行い得なかったのは、学外人民の怒りをおそれたという以外の解釈はできないだろう。

 またこの改良にともなう理念、思想の闘争自体もまた大きな意義を持っている。60年安保闘争の際に田口富久治氏が「社会党支持者の大多数は民主主義を守るという現状防衛のための反逆者であり、そまイデオロギーは現状維持のための急進であって、決して社会主義社会への指向を持ったものとはいえない」という調査結果を示したが、現在でも共産党支持の一部を含めた革新支持層の多くはやはり、現状維持のための急進であろう。天下国家を論じ、民主主義や平和を守るデモに参加しても、大学全体として体制側なのかどうか、科学に階級性があるかどうかということは、学生院生の多数(その多くは革新=社、共支持であろう)が考えていなかったのである.

 ところが構造的な改良においては大衆的な思想闘争が不可避であるため、そのような現実が変わって反体制派の質的変化がおこり、現状維持のための急進から現状変革のための急進にかわり、日常的諸要求が理論的にも実践的にも天下国家の話と結びつき、権力の本質にせまる論議が行われる。

 このような改良は70年代になってはじめてあ程度一般的になり得るものだと想像される。「全共闘をめぐる大衆的状況」にあるように、195360年の基本的な大衆運動タイプは「ノンセクト統一戦線運動」であったが、この運動では活動家がノンセクトとして運動の中に入り、理念、思想の戦いが主として地下で行われるから、理念や思想の闘いには限界がある。1960?現在は、主要な運動が「社共統一戦線型運動」すなわち各政治組織やアクティヴ集団が独自の主張をかかげて論争を行いながら統一して運動するタイプの運動に移る過渡期であろう。

 70年代闘争は,一方ではそのような理念、思想まで問題にする闘争が社共統一戦線型のできるような部分(「全共闘をめぐる思想的状況」参照)で進行しながら、一方では「ノンセクト統一戦線型運動」また現在あるさまざまな運動が組み合わせられて進行するだろうし、そうあるべきだと思われる。それは日本資本主義の二重構造とそれに由来するブルジョア民主主義不徹底の反映であって合理的なのである。構造を改良する闘争は初期においては小規模なものに限られ、各地点の小矛盾が基本的矛盾に転化した段階において、いわゆる構造改革のための全国闘争かただちに中央突破かが問題になるだろう。
 東大闘争はこのような先駆的意義を有するため。権力には恐るべき存在になったと考えられる。

4. 東大闘争で到達しえなかったもの

 ここでは確認書がなぜ抽象的で不十分なものに終わったかという直接的原因はとりあげない。その原因は第1章全体できびしく具体的に追及される、すなわち我々としての自己批判を行っている。ここでは他の方面の問題をとりあげる。

 大学の本来あるべき姿…最大限綱領を実現する闘いの第一歩として東大闘争は十分な展開を示しているだろうか。「大学の民主化」という学内の問題では前進しても、大学をできるだけ全人民のものとしようとする点で前進したであろうか。
 人民のための科学という掛け声は多少あったが、現実の要求項目として並んだのは大学管理運営にしぼられたものであった。管理運営の主体に職員が含まれるとした宣言は、多少大学の解放に進んだとしてその他はどうか。

 これまで「人民のための科学」をめざす運動は困難であった。689月にわれわれが農芸化学某研究室の実態を暴露し、教授の無責任、趣味研究等を立看板等で攻撃しながら、効果ある運動はできなかった。豊川・上田の悪法製造責任追及や、その後の全学大闘争と組み合わせれば有効な闘争ができたかもしれないのに、その時期になってもわれわれは無策であった。全共闘の「科学者加害論」は彼らなりに科学者運動と管理運営についての運動を結びつけるものであったろう。もちろんこの議論は、東大は全体として権力に奉仕するものだから東大を解体しなければ学問は権力に仕えるものでしかない…」というアナーキズムであり、現実の実践はラッダイト運動にすぎなかった。

 しかし、この運動がその理論的低さと破壊一本槍の実践にもかかわらず一定の支持を得たのは、東大闘争科学者運動としても発展する可能性を示しているだろう。

 ところが民主化を主張する潮流はほとんどが、運動を管理運営の問題にしぼってしまった。管理運営の民主化は人民の側に立つ科学を発展させる重要な条件である。しかしそれは万能ではないし、大衆の一部はそれを知り、全共闘側についてラッダイト運動とともに自滅してしまった。

 われわれの誤りの原因はまちしても過渡的段階のみにこだわり、最大限綱領を示さぬことであったが、他にも誤った教授との統一論が足をひっぱったこと(「教授層と教授会の位置付け」参照)や科学運動が民主化と結びつくようにすべき事に気づかなかったこと(気づくのは6812月という遅さ!)、また真の大衆路線を歩んでいなかったこと(「代表団運動」参照)などがあるが、最大の原因はわれわれの伝統的発想が時代遅れであり、東大闘争の本質を見抜けなかった事にあったとしてよかろう。
 われわれが目標を管理運営の形式にしぼった結果、その内容は貧しいものとなり、大衆の目にはわれわれと加藤総長代行ら近代主義者の目標の違いが単なる改良の量に使いものに見えていったといえよう。東大闘争は歴史に残る大闘争であるが,その歴史は人民の側に多数の欠陥がある事を示しており、多くの問題が次の闘争に持ち越されたのである。

5. 東大闘争の思想的意義(T)

 ここでは「新左翼」に東大闘争の与えた意義について考察する。彼らは次のグループに分類してよかろう。
1. 主流グループ 社学同、中核、ML,赤軍派の4セクト。大体これに加えてもよいのが、反帝学評(社青同解放派)とプロレタリア軍団.文字通り、ヘルメット+ゲバ棒部隊の主力である。
2. 旧構改派 フロント、プロ学同。今はイタリア共産党の路線に似るところがほとんどないから、旧の字を冠する。
3. 革マル
4. 第一種ノンセクトラジカル  某農助手や某教養助手のように、かつて社学同、革共同などのトロツキスト団体に属し、今でもセクト秘密党員かそれに近いもの。近いとは革命論から日常行動まで主流グループと酷似し、アナーキズム的傾向がはげしい事を指す。
5. 第二種ノンセクトラジカル  思想発想はまったくアナルコ・サンジカリズムまたはブランキズムであり(「全共闘の思考・発想の研究」参照)主流グループとかわらない。しかし革命理論は不明でゲバ棒も持たない。
6. 第三種ノンセクトラジカル  全共闘やそのセクトと一致する主張はせず、 彼らに一定の批判を持つ。 しかし彼らに同情し彼らを高く評価する。
 ノンセクトラジカルは民主化を支持する側にもいるが、ここでは全共闘側にコミットする人びとに限って問題とする。 

 主流グループの一つである社学同が、東大生ほとんど抜きの安田城攻防「戦」を軍事的に高く評価し、軍事万能方針と封鎖戦術の無制限適用に近づいたことは「社学同の学園闘争論」で記した。他のセクトではどうであろうか。

 ML(日本マルクス・レーニン主義者同盟、赤に帯入りヘルメット、毛沢東主義を標榜する)は機関紙「赤光」126日号で次のように主張する。
「すなわち半年間の闘いと、一月決戦を経た東大闘争はその改良的獲得スローガンとしてあった七項目要求や国大協路線粉砕等の限界そのものを突き出し、また「参加」等の大学共同体への共和制的な没入をも粉砕しつくして、大学、教育に貫徹されている暴力的支配と秩序を暴き出し、政府支配階級ほ直接の敵とし、これを突き破らなければならない局面を生み出した。いまや大学の自治の問題は完全に打ち崩れた。あるのは赤裸々な暴力的闘いを通しての勝利のみである。」
「全社会的な支配秩序解体の二重権力的闘い−−−人民戦争、解放戦線の最初の闘い、これこそ東大闘争の歴史的意義である。」 まさに赤裸々な論文であり、東大という日本でごく一部での軍事的「二重権力」とその崩壊という玉砕をたたえたものである。毛沢東の革命戦略は中国で成功し、またその戦略は独創的なものであったが、日本の毛崇拝者は高度に発達した資本主義国日本にそれを猿真似適用して東大が人民支配の解放区になり得るかのような幻想を持ち、アナルコサンジカリストと行動が同じになる方針をだしたのである。

 中核(革命的共産主義者同盟中核派、白ヘルメット)については、同派が東大では極めて弱体であるため資料が入手できなかったが、同じ傾向のある事は全国で社学同、MLと同一行動をとっていることから推定できよう。赤「軍」派についてはいうまでもない。 

すなわち主流グループはいっそう軍事的方針を強め、
4.21沖縄デーから10.21反戦デー、11.27佐藤訪米にいたる街頭デモにおいても京大、岡山大での大学闘争でも火炎ビンから爆弾製造にいたる自殺的な暴力エスカレートをつづけていった。 しかし少数の学生やさらに少数の労働者が権力とたたかって勝てるわけもなく、すべてのたたかいが権力の圧倒的武力のまえに惨敗し、警官隊の武力エスカレートと人権侵害など権力のいっそうの兇暴化をもたらすだけの結果に終わった。彼らがこの戦略、戦術つまり今すぐ武力で解放区をつくる、ないしそれを全国、全世界の革命に導くという路線を維持できるかどうか が問題であろう。

 フロントが構造的改良らしき路線から、この主流グループの路線に転落した理由については「経済大学院執行部方針の研究」で記した。「軍事的に弱体なフロント諸君」と革マルに6810月立看板に書かれ、「武装」は都学連ヘルメット部隊 と並んで全セクト中最後であったフロントが、火炎ビンなど人間を殺傷するに足る「兵器(?)」を持って「10.21政府中枢制圧」(ステッカー)を呼号するに至ったわずか1年の間の変質ぶりには、当然おこるべき事とはいいながら、驚異の念を禁じえない。 
 また革マルは東大闘争の前後で主張を変えてはいないが、彼らがテロルと暴力 エスカレートのチャンピオンであった事実ははっきりしていると言えよう(「文学 部スト実行委員会方針の研究」)。

 これら諸セクトにとって東大闘争は結局のところ、彼らのブランキズム的突撃、 暴力エスカレートを強め、また革マルを除いては誇大妄想を強めるだけに終わっ たようである。10.21の反帝学評(青ヘルメット)マンモス立看板は次の如くである。
「全世界を獲得するために、2じ東京駅
      10.21 首相官邸に進撃せよ! 
        10.21の大爆発を隠然たる内乱へ!(以下2行略)
                     東大全学反帝学評」
ここまでくると精神鑑定が必要ではなかろうか?
補注 どういうわけか反帝学評ビラの研究が抜けている。理論委員会全員それに気づかなかったのは農大学院自治会にも

農学生自治会にも反帝学評が存在せず、ビラ入手がむずかしかったせいであろうか。

 われわれが問題とすべきなのは、ノンセクトラジカルといわれる人びとの動向であろう。
 第一グループについては多言を要しない。 彼らの中には60年安保闘争以後眠っていた人物が多く、東大闘争それも620日統一スト以降飛び起きた例が多い。ただし60年安保闘争時のようにトロツキズム理論をすすめようとした熱意と格調(例、姫岡論文)が全く消え失せ、安易に自然発生的アナルコ・サンジカリズムやブランキズムを持ち上げ、したがって主流グループのスポークスマンか、その主張を水でうすめて胡麻化す三文文士に転落している。

 問題なのは第二、第三のノンセクトラジカルが大量に生じた事であろう。
 これらのノンセクトラジカルが現在の大衆運動の主流をはみでたものとして1958-60年以後発生する基盤のできていた事は、「全共闘をめぐる大衆的状況」にある通りである。われわれが東大闘争の本質についての理解を誤り、また多くの戦術の誤りを重ねた結果、その基盤が現実化したのである。

 全共闘の理論には現在の大学が総体として権力に奉仕している事実の糾弾など部分的正しさがあったから、体系の誤りにも拘らず、正しい点に共感する人びとは少なくなかった。われわれの多数の誤りの結果、その共感は支持に変わっていった。

 第三種のノンセクトラジカルには部分的に主流グループのアナーキズム、ブランキズムに共鳴しながらも、一方では科学的な考え方を別分野で行っている人びとが多い。これらの人びとの多くはもともと「既成左翼」(社共)の支持者であった。 これらの人びとの思考の特色は「既成左翼に対する不信、批判」が中軸となるとともに、自己の思想については流動的、不明確な事である。ゲバではうまくゆきそうもないが、今までの運動ではどうにもならないから、ゲバ学生に同情しまた彼らを研究するという態度である。

 彼らの論理がムード的で唯物論的、科学的でないという批判は容易であり、彼らが結果としてゲバ学生を援けているという批判もできる。しかしそれで彼らは納得しないし、逆に我々を非難するであろう。 我々は構造的な改良と日常的な改良を混同したり、教授会のみかたを誤るとか、真の大衆路線からはずれるとか、その他多数の誤りをおかしているから、そこを突かれ反論される。 よほどのバカでない限り、誤りは部分的正しさから生ずるのであって、彼らの誤りにも一定の合理性、正しい部分がある以上、我々が彼らの全面的支持を今すぐ要求することはできないであろう。

 我々の正しい態度は、権力に利用されて困難な立場におちいらない限界において、我々の誤りを正直に明らかにし、反省の上で、彼らの支持を求めることであろう。そして一つ一つの例でそれを繰り返し、全面的支持を回復しなくてはならないだろう。 

 第二種のノンセクトラジカルに対しても同じである。 ただしこれらの人びとは、唯物論を完全に捨てて哲学的には典型的主観的観念論におちいり、宗教的「反既成左翼」主義を奉じている事が少なくない。

 我々の誤りはもちろん反省しなければならないが、前記の誤りのように、それらの誤りは一定の正しさを含んでいたのである。例えば日常闘争の習慣がそのまま東大闘争に持ち込まれるなど、合理性のある誤りなのである。

 それに対し、彼らは頭から我々をバカ、キチガイ、日和見、反革命扱いし、人間であることを認めていない。 一方彼らと当面の主張を同じくする中核、社学同、赤軍派、MLらの無道ぶり、すなわち強盗窃盗、腐敗、マヌーヴァーには全く寛大であり、また軍事方針のための悲惨な敗北に対しても鈍感そのものである。そして社学同と同じように(「社学同の学園闘争論」参照)「いかなる事態がおこっても反省の必要はない」という完全な論理系を作り上げてしまっている例が多い。
補注 マヌーヴァーとは平たく言えば政治的な理由での真っ赤なウソ宣伝。

 こうなると、いかなる行動を我々がとろうと,彼らは自らのコースを進まざるを得ない。そのゆきつく先は惨敗と挫折しかなく、ニヒリズムしかない。策士として采配をふるっているだけなら、この運命を一時的な無責任さによって逃れる可能性があるが、現場で敗北に直面する活動家は逃れられない。そして彼らは「反共」「反社共」「反既成左翼」の信念のみ堅いミイラになってゆく。対権力の憎悪は彼らが挫折して戦列から離れる事によって消えてゆくが,目の前にいる「既成左翼」に対する憎悪はいつまでも続く。 そうなれば転向への準備はできたのであり、この道を辿った先輩は多数いる。 

 これは巨大な歴史法則そのもので、我々の力ではどうしようもない事である。
 東大闘争では極めて大量のノンセクトラジカルが発生し、それらの人びとの支持を得るための方法論が問題になった事が重要であろう。

6 東大闘争の思想的意義(U)

 我々が闘争の本質を知り、理念・思想の公開論争の重要性を悟ると共に、闘争の意義を分析するに至った事は今まで記した通りである。 
 また教授会論、大学自治会論、戦術論、活動家集団論、科学運動論その他きわめて多くのことを学んだ事は第二部各章に詳しい。 大衆路線、権力と直接対決する闘争については第一章に記した。
 しかしそれだけでは思想的意義すべてを語ったことにはならない。

 いままでの日常の闘争では、単なる折伏経典として、聖なる書物として、基本的文献を学習していても大した害のないことが多かった。しかし、東大闘争では闘争が構造的な改良の闘争である上に、防御的性格(処分撤回、警官導入反対など)攻撃的性格(大学民主化)を兼ねていたため、大変複雑な闘争となり、今までの横着を許さなくなった事が重要であろう。
 新しい場面が次々に現れ、経験の世界への安住が許されず、唯物弁証法の基礎にさかのぼらなければならなくなった。

 例えば次のような例で形式的議論ではどうにもならないであろう。
A「いま、ゲバ学生の外人部隊による暴力的無期限封鎖がせまっているとしよう。 その時考えた。 
1. 単純な暴力による外からの封鎖はもちろん失敗、敗北。
2. しかし今の情勢では封鎖どころか自主ストライキさえ困難な位自治会は弱体 である。ストなど提案したらかえって孤立し、何もできなくなってしまう。 封鎖されたら話し合いもできない。
その結果、ゲバ学生が全国から仲間を集めて襲撃してきたのに対し、こちらも 保守的学生とともに実力防衛を行った。その騒ぎで話し合いなどどこかに吹っ 飛んでしまった。左翼的学生は「闘う」「現状変革をめざす」ゲバ学生に同情 して彼らと心中してしまい、後には保守的学生だけが残った。」

B「いま「全共闘」が無期限ストを提案している。彼らの支持者は20-30名だ。  そこで考えた。
1. こちらが無期限ストを提案すれば学生大会では50150程度で否決されるだ ろう。学生の多数はまだ無期限ストに賛成しそうもない、という判断は正し いとしよう。無期限ストりための学生の分裂は困る。
2. 1日ストなら通るであろう。ゆえに無期限ストをしなければ闘争に勝てないこ とはわかっているのだが、1日ストを提案した…可決実行。 この結果1日ストの威力で教授会との公開団交が行われた。予想どおり議論 は平行線のままで、1日ストの不十分さが証明された。その結果「オレたちは 執行部にだまされた。1日ストで教授と話し合うなんてとんでもない。全共闘 のいうように無期限ストが必要だ」という事になり、次の学生大会で全共闘 大勝。」

 これらの例については解答が他の部分にある。しかし,それを覚えたところで、 新しい局面になれば役に立たないであろう。
 構造的な改良の闘争がもし一般的にかなり行われるものとすれば、次つぎに新 しい局面が出現するだろう。その新局面に対して自力で正しい方針を見出すだけ の学習と研究が必要で、伝統と経験への安住がゆるされなくなってきたが,それ も東大闘争の先駆的意義の一つなのである。



 東大争議(東大闘争)について研究している方がいらっしゃいましたら、御一報ください。 当時の多数のビラ(各自治会、各 党派など)や立て看板スライドを保存しています。 それらは争議について書かれた「民主勢力」側の書物にも、「全共闘」側 の書物にも(貸しだして)利用とれています。 ただし出来上がったものはすべて十字軍の宣伝「我々は神のしもべで、異教徒は悪魔の家来」という本でしたが・・・。 masuyamaaakio@i-younet.ne.jpまで。 伊東まで車で来られるのでしたら無料貸し出しをします。

新唯物論と古典唯物論