東大農学系大学院自治会理論委員会 東大闘争総括第
---東大闘争の戦後史に占める位置---
もちろんそのような改良が今までなかったわけではない。しかしそれは進歩的教授の協力や名大医学部のような当局の分裂抗争に乗じて得られたものが多かった。
ただし、以上は一般大衆運動として、すなわち人民の一翼としての闘争という側面を評価した場合である。
原注 構造的な改良とは文字通りの意味で佐藤昇氏らの革命論とは関係ない。他
によい言葉がないのでしばらく「な」の一字を入れて区別しておく。ではなぜ東大闘争は権力の一部機能を制約する構造的な改良の闘争となったの
であろうか。それは次の二つの結合のためであろう。矛盾はなぜ激しかったのか。それは大学と政界、大資本との結びつきが強まってきたからである。医学部処分の大もとは医学部長の豊川と病院長の上田が政界と結びつき、青年医師を
2年間1万5千円-2万5千円で働かせ、教育は事実上できないし、そのわずかな謝礼さえ毎年与えられるという保証なしという悪法をつくったことにはじまる。そして豊川や上田を選んだ医教授会の中には水俣病の責任ごまかし論文をでっちあげた勝沼をはじめとして大資本のために不良論文をでっちあげた輩が大変多かった。そして政治家としての能力に欠けた、やせたソクラテス総長が大ヘマをやる一
方、あまりにも過酷な17名の処分、でたらめな不在者処分も手伝って矛盾は大爆発した。この原因の一つは、大学当局が加藤執行部成立まで無為無策であり、矛盾についてかなり徹底的に討論する時間(
6.20全学ストから12月まで)があった事である。もう一つはさまざまな潮流が矛盾の原因について訴えていった事である。理念、思想の闘いが徹底的に行われたのは、その滅びていった側のイニシアティブによることが多かったことは否定できないからである。 四項目派(東院協、民主化行動委員会など)が大学変革の思想という点で先手をとったという事実(「民主化行動委員会の要求項目の研究」「全共闘の発想・思考の研究」参照)にもかかわらずそうなのである。
この全共闘にイニシアティブをとられた原因は、全共闘側と我々の側の両方にあった。全共闘側の思考は、「全共闘の発想,思考の研究」にあるように戦略と戦術目標の区別がなく、矛盾を発見(?)すれば社会科学に規定されるすべての過渡的段階を飛びこえて,その矛盾に体当たりするというブランキズムに一つの特徴がある。ゆえに彼らの感ずる(!)矛盾論は大衆の中に入りやすいものであった。
我々の側にみられた誤りは、決して一般的に誤りなのではない。
1953ころから の我々の運動スタイルではそれでよかったのに,東大闘争では誤りとなったので ある。東大闘争は我々のはじめて経験した構造的な改良の闘争であったが故に、その闘争に公然たる理念、思想の闘いが重要であることを理解していない者が我々の多数であった。
また理念の方向にストレートに突撃玉砕する全共闘と違って,われわれの側では理念の実現にいたる過渡的段階とそれを実現する戦術を明らかにしなくてはならず、それらの理論の低い水準も受身になる原因であった。十分明らかにする能力またはその歴史的条件がない場合も、試論として自信のないことを断った上で発表すべきものであろう。二部一章の大学解放論はその一例でわれわれの達した水準を、他の論文ほどの自信はもてないまま発表するものである。 ともかく、これらの思想闘争に支えられ、東大闘争は「第一次東大闘争」としてとらえられ徹底的民主化(これは最大限綱領)にむけての巨大な一歩という考え方がひろまっていった。
われわれは構造的な改良が社会主義革命に直結するなどという改良主義には反
対であるが、構造的な改良の意義は大きく評価する。東大闘争は大学という特殊な領域で行われた闘争であり、それを一般化する事には危険があるが、少なくともその特殊な領域ではそれだけの人民の力がある事が証明された。その力の一部は学外人民の力である。東大を軍事的政治的に押しつぶし、かれらの手で再編しようとするより兇暴な弾圧を行い得なかったのは、学外人民の怒りをおそれたという以外の解釈はできないだろう。
このような改良は
70年代になってはじめてあ程度一般的になり得るものだと想像される。「全共闘をめぐる大衆的状況」にあるように、1953−60年の基本的な大衆運動タイプは「ノンセクト統一戦線運動」であったが、この運動では活動家がノンセクトとして運動の中に入り、理念、思想の戦いが主として地下で行われるから、理念や思想の闘いには限界がある。1960?現在は、主要な運動が「社共統一戦線型運動」すなわち各政治組織やアクティヴ集団が独自の主張をかかげて論争を行いながら統一して運動するタイプの運動に移る過渡期であろう。ここでは確認書がなぜ抽象的で不十分なものに終わったかという直接的原因はとりあげない。その原因は第1章全体できびしく具体的に追及される、すなわち我々としての自己批判を行っている。ここでは他の方面の問題をとりあげる。
ところが民主化を主張する潮流はほとんどが、運動を管理運営の問題にしぼってしまった。管理運営の民主化は人民の側に立つ科学を発展させる重要な条件である。しかしそれは万能ではないし、大衆の一部はそれを知り、全共闘側についてラッダイト運動とともに自滅してしまった。
ここでは「新左翼」に東大闘争の与えた意義について考察する。彼らは次のグループに分類してよかろう。
主流グループの一つである社学同が、東大生ほとんど抜きの安田城攻防「戦」を軍事的に高く評価し、軍事万能方針と封鎖戦術の無制限適用に近づいたことは「社学同の学園闘争論」で記した。他のセクトではどうであろうか。
フロントが構造的改良らしき路線から、この主流グループの路線に転落した理由については「経済大学院執行部方針の研究」で記した。「軍事的に弱体なフロント諸君」と革マルに
68年10月立看板に書かれ、「武装」は都学連ヘルメット部隊 と並んで全セクト中最後であったフロントが、火炎ビンなど人間を殺傷するに足る「兵器(?)」を持って「10.21政府中枢制圧」(ステッカー)を呼号するに至ったわずか1年の間の変質ぶりには、当然おこるべき事とはいいながら、驚異の念を禁じえない。これら諸セクトにとって東大闘争は結局のところ、彼らのブランキズム的突撃、
暴力エスカレートを強め、また革マルを除いては誇大妄想を強めるだけに終わっ たようである。10.21の反帝学評(青ヘルメット)マンモス立看板は次の如くである。農学生自治会にも反帝学評が存在せず、ビラ入手がむずかしかったせいであろうか。
われわれが問題とすべきなのは、ノンセクトラジカルといわれる人びとの動向であろう。
問題なのは第二、第三のノンセクトラジカルが大量に生じた事であろう。
第三種のノンセクトラジカルには部分的に主流グループのアナーキズム、ブランキズムに共鳴しながらも、一方では科学的な考え方を別分野で行っている人びとが多い。これらの人びとの多くはもともと「既成左翼」(社共)の支持者であった。 これらの人びとの思考の特色は「既成左翼に対する不信、批判」が中軸となるとともに、自己の思想については流動的、不明確な事である。ゲバではうまくゆきそうもないが、今までの運動ではどうにもならないから、ゲバ学生に同情しまた彼らを研究するという態度である。
我々の正しい態度は、権力に利用されて困難な立場におちいらない限界において、我々の誤りを正直に明らかにし、反省の上で、彼らの支持を求めることであろう。そして一つ一つの例でそれを繰り返し、全面的支持を回復しなくてはならないだろう。
第二種のノンセクトラジカルに対しても同じである。 ただしこれらの人びとは、唯物論を完全に捨てて哲学的には典型的主観的観念論におちいり、宗教的「反既成左翼」主義を奉じている事が少なくない。
我々の誤りはもちろん反省しなければならないが、前記の誤りのように、それらの誤りは一定の正しさを含んでいたのである。例えば日常闘争の習慣がそのまま東大闘争に持ち込まれるなど、合理性のある誤りなのである。
我々が闘争の本質を知り、理念・思想の公開論争の重要性を悟ると共に、闘争の意義を分析するに至った事は今まで記した通りである。
例えば次のような例で形式的議論ではどうにもならないであろう。
B「いま「全共闘」が無期限ストを提案している。彼らの支持者は
20-30名だ。 そこで考えた。