古典唯物論での定義には重大な問題がある。 矛盾の止揚という時、現在は矛盾しているが時間がたてば(大衆運動などのために)矛盾しなくなる…という例がある。 また虚数の理解のように見方を変えると矛盾しなくなる例もある。 前者では物質の変化のために矛盾がなくなるのに、後者では認識を変えると矛盾がなくなるので物質が変化したわけではない。 両方を区別せず同じ用語で記述するのは、唯物論の基本的立場に立てば奇妙であり、「矛盾の止揚」とは
2つの概念を形式的にまとめた用語となる。もともとヘーゲルやマルクスの弁証法は形式的論理以外の
(当時の)新論理を指していた。 形式的論理では矛盾だが、新論理では矛盾が止揚されるのである。 新唯物論では(古典唯物論では矛盾のままだが)「矛盾の止揚」となる極めて多数の例が持ち込まれた。 統計や微積分その他の近代数学にある諸論理が持ち込まれたためである。 つまり「矛盾の止揚」で定義した弁証法には「矛盾の止揚」という定義は観念論的であってマルクスの用語を使えば「逆立ち」であり、マルクスがヘーゲルの遺産を受け継ぐときに、観念論の一部も受け継いだという事であろう。
現実の世界では,未知の副次的要因が多数あるために
100%確かという判断が不可能な事が少なくない。 労働者階級の要求として当然全員が一致すると活動家が考える要求も,現実には全員賛成にはならない事が少なくない。学生自治会であろうが、住民団体であろうが同様である。 これを物質(この場合は組合員…の要求)に不確定性がある、という。 教師が生徒一人を扱う場合、その生徒について何でも知るという事は有りえないから、その生徒という物質(唯物論では人間も物質という)に不確定性を認めなければならない。不確定性が無視できないため、確率や可能性、尤もらしさ、などをもとに議論を進める場合の論理を統計的論理という。不確定性が無視できる物質だけを扱う論理を確定的論理という。古典唯物論では確定的論理を不確定性が無視できない場合に使うため、しばしばただの直観になってしまう。
不確定性が認められるが、ある程度小さいので確定的論理を使うほうが「合理的」という、独立の理由がある場合は「その物質の近傍で確定的論理を使う」という。例は「全共闘…」参照。
2行前の「合理的」という意味,その判定方法は、次の[統計的集団]の項にあるものと同じ。例は「全共闘…」にある。対象となる現象に未知の副次的要因が多く、その効果が無視できない場合は、その現象に関係した物質集団を「統計的集団」とし、平均とバラツキをもつ集団として扱う。バラツキや平均が不明であっても統計的集団とみなし、その中の単数物質を統計的集団からの抜き取りと考えて議論を組み立てる。
対象となる各物質の不確定性が十分小さく、統計的論理が不要またはマルクス・エンゲルス・レーニン・毛沢東が扱った狭い範囲の統計的論理だけを用いて良い場合、この場合は新唯物論=古典唯物論である。
新唯物論では統一戦線に
2種類を認める。 前者は「当面の要求で統一して運動する一方で、政党・セクト・活動家団体などが地下、水面下で論争し、実践しながらどの考えが正しいかを構成員が主体的に認識し、最後はどの政党・セクト・活動家集団・個人が正しくともそれに統一されてゆく」というものである。 これに対し古典唯物論で考えられた統一戦線は「公然と政治党派が論争しながら、統一闘争をする」というものであるが、それを社共統一戦線型運動と呼ぶ。毛沢東が定式化した遊撃戦論は。レーニンの不均等発展概念とともに、古典唯物論の中にある重要な統計的概念である。 戦いの全局面は不利でも内部にはバラツキがあり、一部には有利という局面があり得る。 毛はその事と、有利な場所を現実に作る方法を示した。毛は遊撃戦略によって軍事的な部分的勝利を得,敵を弱めながら味方を強めることが可能な事を論証しただけでなく、全面勝利まで戦いを指導して理論の正しい事を実証した。
毛の理論上の功績は多く、実際に革命を勝利に導いた功績も素晴らしい。 毛はマルクス、エンゲルス、レーニンに劣らない天才であるが、不運な事に彼は古典唯物論の限界が問題になる時代まで生きていたというだけではないだろうか。 自然科学者の天才の仕事にも誤りがあるが、それは時代の限界として処理され、歴史には功績だけが残る。 自然科学者の天才と同様に毛も一級の天才と評価すべきではないのか。 ただ革命家の場合は誤りが多数の人々に被害を与え、マイナス面が誰にでもわかるから人権だけを考える議論では非難されるにすぎない。
「現在から見れば問題があるが当時の学問では最善とされた治療で患者が死んだ」という例で「間違い治療をして患者が死んだ」と当時の医師を非難する人はいないだろう。 革命家の場合当時の理論が不完全であれば、それに伴って人権侵害がおこるのだから、より優れた理論が当時あったかどうかの検討抜きに人権侵害だけを問題にする議論は、過去の革命家を誹謗する非科学的議論である。