弁証法、矛盾の止揚

 古典唯物論での定義には重大な問題がある。 矛盾の止揚という時、現在は矛盾しているが時間がたてば(大衆運動などのために)矛盾しなくなる…という例がある。 また虚数の理解のように見方を変えると矛盾しなくなる例もある。 前者では物質の変化のために矛盾がなくなるのに、後者では認識を変えると矛盾がなくなるので物質が変化したわけではない。 両方を区別せず同じ用語で記述するのは、唯物論の基本的立場に立てば奇妙であり、「矛盾の止揚」とは2つの概念を形式的にまとめた用語となる。

 もともとヘーゲルやマルクスの弁証法は形式的論理以外の(当時の)新論理を指していた。 形式的論理では矛盾だが、新論理では矛盾が止揚されるのである。 新唯物論では(古典唯物論では矛盾のままだが)「矛盾の止揚」となる極めて多数の例が持ち込まれた。 統計や微積分その他の近代数学にある諸論理が持ち込まれたためである。  つまり「矛盾の止揚」で定義した弁証法には
1. ヘーゲル・マルクス・エンゲルス・レーニン・毛の用いた弁証法
2. 本論文集、すなわち新唯物論で扱われた弁証法
3. 唯物論者がまだ弁証法として認識していないが、現代諸科学・芸術論・大衆運動論その他に登場している弁証法
4. まだ人類文明に登場していない弁証法
という4種類があり、12種類だが2は多種類であり、34も多種類であるという可能性は極めて高い。 だから「矛盾の止揚」についていくら考えても新しい考え方は出てこない。 新しい弁証法は現実の科学、大衆運動などから次々に発見されるであろう。。

 「矛盾の止揚」という定義は観念論的であってマルクスの用語を使えば「逆立ち」であり、マルクスがヘーゲルの遺産を受け継ぐときに、観念論の一部も受け継いだという事であろう。 
 この論文集では混乱を避けるため、ヘーゲル、マルクス、エンゲルス、レーニン、毛の著作や論文に登場する弁証法だけに「弁証法」という名を用い、「矛盾の止揚」という弁証法定義を用いなかった。 新しい弁証法に例外として「弁証法」の名を用いる場合は断りを入れている。  

不確定性

 現実の世界では,未知の副次的要因が多数あるために100%確かという判断が不可能な事が少なくない。 労働者階級の要求として当然全員が一致すると活動家が考える要求も,現実には全員賛成にはならない事が少なくない。学生自治会であろうが、住民団体であろうが同様である。 これを物質(この場合は組合員…の要求)に不確定性がある、という。 教師が生徒一人を扱う場合、その生徒について何でも知るという事は有りえないから、その生徒という物質(唯物論では人間も物質という)に不確定性を認めなければならない。

 量子力学では物質そのものに不確定性があるが、この場合は物質でなく認識する側に不確定性が存在する。だから適当な実践で不確定性は減少する。
 しかし認識のある段階では、物質そのものに不確定性があっても認識に不確定性が生ずるのであっても実践方法が変わらないので、新唯物論では,一般に物質(古典唯物論でいう物質)に不確定性があると考える事にし、安定した知識は不確定性0か十分0に近いと考える事にする。 実践方法がかわらないという論証はわかりきった事を長々と書き連ねる事になるから省略。 まず確率や尤度が数字として計算可能な場合について証明し(統計学が学問であるという論証に等しいから馬鹿げた作業である)、次に数字が確定できず大小しかわからない場合に拡張すれば論証は自明である。

統計的論理

 不確定性が無視できないため、確率や可能性、尤もらしさ、などをもとに議論を進める場合の論理を統計的論理という。不確定性が無視できる物質だけを扱う論理を確定的論理という。古典唯物論では確定的論理を不確定性が無視できない場合に使うため、しばしばただの直観になってしまう。
 統計学では決定的論理という用語をここでいう確定的論理の意味に使うのだが、古典唯物論では決定的という用語を別の意味に使うので、確定的論理という造語をする。

 統計的論理には、確率や尤もらしさを数字であらわす事ができる確率的論理と、数量化ができず、大小の比較・評価しかできない直観確率的論理がある。
 確率的論理は統計学・確率論・ORなどの数学そのものである. 新唯物論は直観確率の世界の論理集であり、古典唯物論の拡張である。つまり100%確実な議論どころか不確実性の程度さえ不確実という場合にも、極力直観を排除して唯物論を適用し極力確実に近い議論ができるようにするのが新唯物論である。それから統計的論理の大部分を除いたものが古典唯物論である。

近傍,十分近い

 不確定性が認められるが、ある程度小さいので確定的論理を使うほうが「合理的」という、独立の理由がある場合は「その物質の近傍で確定的論理を使う」という。例は「全共闘…」参照。 2行前の「合理的」という意味,その判定方法は、次の[統計的集団]の項にあるものと同じ。例は「全共闘…」にある。

統計的集団

  対象となる現象に未知の副次的要因が多く、その効果が無視できない場合は、その現象に関係した物質集団を「統計的集団」とし、平均とバラツキをもつ集団として扱う。バラツキや平均が不明であっても統計的集団とみなし、その中の単数物質を統計的集団からの抜き取りと考えて議論を組み立てる。
 御用組合でない労働組合、学生、1クラスの生徒など階級や階層の一致する集団は統計的集団として扱う。 本来は階級的利益・要求、階層の利益・要求が一致すべきものであるが、現実には多数の副次的要因によって要求は多様化しているのが普通である。つまりこれらは平均(基本的利益・要求)とバラツキ(副次的要因のため、利益と本人が考えるものが多種多様)を持つ統計的集団である。

 統計的集団では「十分な実践によって不確定性を必要なだけ小さくできる」
 一方日本国民は複数階級を含むから統計的集団ではない。 中小企業経営者と労働者の当面の要求が一致していても企業成員は統計的集団ではない。
 統計的集団とそうでない集団では、統一戦線論が異なる。 後者の場合は統計的論理が無意味で古典唯物論がそのまま適用できるのが普通である。

 通例では統計的集団、またはそれから抜き取った単数の物質を扱う場合は統計的論理を用い、そうでない場合は確定的論理を用いる。以上の通例に反する場合は次の場合に限る。すなわち物質が統計的集団であるかどうかの判定が難しい場合であるが、双方の論理を用いる場合がどのような仮定をした事に相当するか調べ、どちらの仮定が正しいか独立な証拠から判断する。 例は「全共闘…」にある…前衛党が統計的集団とみなせるかどうかで党内規律が異なるという議論がある。

古典唯物論の正しい範囲

 対象となる各物質の不確定性が十分小さく、統計的論理が不要またはマルクス・エンゲルス・レーニン・毛沢東が扱った狭い範囲の統計的論理だけを用いて良い場合、この場合は新唯物論=古典唯物論である。
 従って階級的矛盾など基本的矛盾が誰の目にも明らか(不確定性小)な場合や物理・化学実験の多くの場合は、現在でも古典唯物論を安心して用いる事ができる。 多数の途上国では階級的矛盾が誰の目にもはっきりしている場合が多く、レーニンや毛沢東の理論が今でも通用する場合が多かろう。

 教育現場でも横暴な餓鬼大将の支配など、誰が見ても明白な矛盾がある場合は古典唯物論が成立する。 集団主義が一時成功したのもそのためと考えられ、集団主義理論に加担した教師や教育学者が低脳だったわけではない。マルクスのいうように誤りの大部分は部分的正しさの無制限拡張によって生ずる。 1959年酒井氏が行事改革を考えた頃から、日本の高度成長に伴い生徒の要求や考えが多様化し、教育現場で古典唯物論が通用しなくなっていったと考えられる。

ノンセクト統一戦線型運動と社共統一戦線型運動

 新唯物論では統一戦線に2種類を認める。 前者は「当面の要求で統一して運動する一方で、政党・セクト・活動家団体などが地下、水面下で論争し、実践しながらどの考えが正しいかを構成員が主体的に認識し、最後はどの政党・セクト・活動家集団・個人が正しくともそれに統一されてゆく」というものである。 これに対し古典唯物論で考えられた統一戦線は「公然と政治党派が論争しながら、統一闘争をする」というものであるが、それを社共統一戦線型運動と呼ぶ。
 後者は統計的集団でなくとも採用できるが、前者は原則として統計的集団でだけ可能である。 

 「契約」の本質は教師と生徒のノンセクト統一戦線型運動であり実践によって全員が主体的に意識を変えるという方法である。 それまでの道徳・生活指導法は意識を先に変えて他人の実践を変えようという方法だから平たくいえば(幼児相手でなければ)「折伏」「洗脳」に類する宗教的方法であろう。

遊撃戦

 毛沢東が定式化した遊撃戦論は。レーニンの不均等発展概念とともに、古典唯物論の中にある重要な統計的概念である。 戦いの全局面は不利でも内部にはバラツキがあり、一部には有利という局面があり得る。 毛はその事と、有利な場所を現実に作る方法を示した。毛は遊撃戦略によって軍事的な部分的勝利を得,敵を弱めながら味方を強めることが可能な事を論証しただけでなく、全面勝利まで戦いを指導して理論の正しい事を実証した。

 軍事ばかりでなく政治でも同様であり、労働者階級が劣勢でも遊撃戦略によって政治的な部分的勝利を得、敵を弱めながら味方を強める事は可能である。 政治での遊撃戦論は「全共闘…」ほかの東大闘争関係諸論文にあるが、もう1つ具体例を挙げよう。

 筆者の卒業した高校で「月の輪古墳」映画会事件というのがあった。当時「月の輪古墳」という文化映画が作られたが、推薦者の中に三笠宮殿下など多数の学者・文化人のほか日教組があり、日教組推薦に腹を立てた文部大臣の命令で文部省選定が取り消された。 これを生徒会で上映するとなれば、ヒラメ校長は上に対する立場が悪化するから反対・禁止と来るに相違ない。 しかし殿下をはじめ多数の学者・文化人が推薦する映画がなぜ悪いかと追及すれば校長は孤立し味方を強める事になろう。そこで生徒会主催で上映を計画。予定通り校長は大多数の生徒・教師から孤立し,原水爆禁止運動がまだ弱体だった時期
1954に禁止運動に対する生徒会参加を禁止できない力関係が成立した。

 革新政党はなぜ、「住民大多数は大賛成だが、自民党は反対せざるを得ない事」を発見して街頭署名運動その他の宣伝を行い、自民党がどう動いてもその立場が悪くなるという地点での闘いに主力を注がないのであろうか。 力関係を変える…選挙のときや定期的な?宣伝のときの運動より遥かに革新票を増やすのではなかろうか?

 毛は文化大革命とかカンボジア極左勢力支援のような誤りを犯しているが、毛の誤りは、毛が個人として無能なための誤りでなく古典唯物論の限界を示す誤りであり、正しかった反対派は実用主義的に反対したのではなかろうか。 
 ソ連社会に見られる重大欠陥に気づいた毛は欠陥/矛盾をなくそうとする無茶議論(被害が十分少なければ基本的矛盾が残っても良いという選択肢が古典唯物論にはない)をし、M氏と同じように矛盾の転化した新矛盾のために失敗したのではないだろうか。違いは M氏の咄嗟に思いついたらしい荒唐無稽な議論とは異なり、多数の革命家の支持を得るだけの内容を持つ理論を提出したというだけだ。 毛の誤りを個人的誤りと考えるなら毛を支持した多数派の中国革命家たちは低脳だということになり中国人蔑視思想となろう。 

 毛の理論上の功績は多く、実際に革命を勝利に導いた功績も素晴らしい。 毛はマルクス、エンゲルス、レーニンに劣らない天才であるが、不運な事に彼は古典唯物論の限界が問題になる時代まで生きていたというだけではないだろうか。 自然科学者の天才の仕事にも誤りがあるが、それは時代の限界として処理され、歴史には功績だけが残る。 自然科学者の天才と同様に毛も一級の天才と評価すべきではないのか。 ただ革命家の場合は誤りが多数の人々に被害を与え、マイナス面が誰にでもわかるから人権だけを考える議論では非難されるにすぎない。 

 「現在から見れば問題があるが当時の学問では最善とされた治療で患者が死んだ」という例で「間違い治療をして患者が死んだ」と当時の医師を非難する人はいないだろう。 革命家の場合当時の理論が不完全であれば、それに伴って人権侵害がおこるのだから、より優れた理論が当時あったかどうかの検討抜きに人権侵害だけを問題にする議論は、過去の革命家を誹謗する非科学的議論である。 

 スターリンの場合も単にスターリンが理論的に誤ったというなら、スターリンを支持した多数派革命家たちは低脳というロシア人蔑視思想となりそうだ。古典唯物論にある 問題点の(弁証法的発展による)顕在化という側面が大きいのではないか、最高クラスの教養を持っていたレーニンと違い教養が低いため実用的修正ができなかっただけではないか、と筆者は疑っているが、断言するには毛の場合と同じく研究を要するであろう。 トロツキーやブハーリンについても同様な観点からの再評価が必要なのではなかろうか。

 マルクスが言うように、あらゆる理論に限界があり、新唯物論といえどもある部分では実用主義的な修正のほうが正しい可能性は十分あるから、理屈がすっきりしない実用主義的主張を「修正主義」として断罪してはならないであろう。


増山 明夫 413-0231 静岡県伊東市大室高原4-304

新唯物論と古典唯物論