音楽雑話
「Bercerse」を「子守歌」とすると誤訳になる場合
普通は「Bercerse」を「子守歌」と訳していて、ショパン作品でもそう訳しています。しかし大学
1年の時ショパンの「Bercerse」を弾いてみたら、「子守歌」に違和感を感じました。
終わりの部分です。
一見静かでロマンチックですが、そう考えるとペダルが変なのです。 63小節.64小節のペダルは
普通の奏法ですが、64小節と65小節の同様な音のバターンなのにペダルを途中で切る (異常な)指示
となっています。 すべて同じようにペダルを踏みかえ連続して弾くほうが、静かでロマンチックで
あり、途中でペダルを切ると何かさびしい印象です。
ここには掲げていませんが、47小節から55小節にかけての強弱も普通でなく、さびしい印象を与
えるようになっているようです。 そんな曲に「子守歌」という名がつくのは奇妙なので気になって
いました。
かなりあと…細君と一緒になってから後です…ストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」に
「Bercerse」があるのに気づきました。 「カスチェイ魔王と家来たちの踊り」のあと「Bercerse」
となりますが、凶悪な魔王や家来の魔物たち対象の「子守歌」とは可笑しい。
この単語は魔王・魔物対象でも使えるのだから「眠り歌」とすべきなのだろうと一応考えました。
しかし念のためだとフランス語の辞書を引いてみました。 白水社「仏和大辞典」です。
「Berceur」はもともと「揺りかごを揺する」という形容詞であり、転じて「なだめるような」「心
を和ませる」という意味にもなるとあります。 「Bercerse」はその名詞形。
ですから、ストラヴィンスキーの場合は「魔王の悪心をやわらげ、眠らせる音楽」という意味で使
っているのだと思われます。
ショパンの場合は「自分の心をやわらげ、さびしさの程度を軽くする揺りかごリズムの音楽」と解
釈すれば、ペダルや強弱の指定がすべて合理的です。
「Bercerse」は「子守歌」より意味空間の広い単語であり、子供が対象の場合「子守歌」という訳
で良いのですが、一般的には日本語に相当語彙のない単語としてベルシュースのままにしておくべき
ではないのでしょうか。
手元にフランス語の大辞典がないので…白水社のは名だけ大辞典で実際には「中辞典」クラス…「大
言海」クラスが大辞典…100%の自信はありませんが、そんなところだと思われます。
ストラヴィンスキー「火の鳥」のピアノ編曲…立ち読みをしないで損をした話
ストラヴィンスキー「火の鳥」の原曲スコアは読むのが大変だとSCHOTT社から出ていたピアノ
編曲楽譜を4900円も出して買いました。 しかしがっかり…ひどい曲がいくつかあるのです。
出番のとき弾いた「カスチェイ魔王と家来たちの踊り」の一部です。上は購入楽譜で下は自演。
購入楽譜では左手に装飾音をつけていますが、単調さを回避するには不十分で一本調子の音楽に聞
こえ、また魔王の踊りらしい迫力に欠けています。 しかし本人のピアノロールでは4小節目左手の
重量感のある和音と右手がオクターブ上に飛んだ効果が素晴らしく、強烈で重量感があります。
他の部分も似たり寄ったりで、購入楽譜は貧弱で雑な音楽に聞こえる部分に満ち、御自身のピアノロー
ルがオーケストラ本人指揮演奏に劣らない素晴らしさであるのとは差がありすぎます。 編曲は音が
似るのでなく、内容が似るようにすべきでしょう。
昔は日本楽器、アカデミア、新世界社(まだソ連が存在した当時はソ連・東欧の楽譜の品揃えが日本
一であった)などで楽譜を1-2時間立ち読みしてから楽譜を買っていましたが、今はアマゾン配送の通
信販売に頼るので、買ってみたら損だったという失敗が時々あります。
音楽歴史と他芸術の歴史
ムソルグスキー「ボリスゴドノフ」から3曲をピアノ用に編曲して弾きました。 そのときの解説
の一部です。
音楽学校で教えられる音楽史は、他芸術の歴史と歴史の見方が違っている。 文学や美術では芸術
思想で歴史区分をするのに、音楽では形式で分類をしている。
ムソルグスキーは文学で自然主義、美術で写実主義と呼ぶリアリズムの唯一の代表者である。
国民学派とはいうが、ボロディンやバラキレフ、キュイ、リムスキーコルサコフの音楽は他芸術と
同じ考え方で歴史を見ればチャイコフスキーと同様ロマン派に属している。 当時、英仏独などに比
べて歴史の遅れていた国(ブルジョア革命…近代化された国になるのが遅い)では民族主義が強くなる
が、その民族主義的傾向の強さに差があるのに過ぎない。 ドヴォルザークやグリーグ、アルベニス
なども芸術共通の歴史ではロマン派に分類すべきである。
プロコフィエフ「行進曲」(「3つのオレンジへの恋」より)
細君がこれのピアノ編曲を弾きました。 編曲は本人によるもので当然素晴らしい作品ですが、一
種の頽廃思想がいくらか気になります。
もともと「3つのオレンジへの恋」全体が「できるだけ真実味が少なく、荒唐無稽でありながら気
の利いた感じを加えた作品」という感じで、当時のソ連の極左批評家たちによる攻撃も正しい(彼らの
理論は唯物論でなく一種の観念論だと思いますが)と考えています。 ドビッシーの「ペレアスとメリ
ザンド」と同様、当時の流行にあわせた作品と考えられます…伊豆のガラス工芸館にあるアールヌー
ボー・ガラス美術作品にも当時流行した頽廃的趣味が感じられます。 そういう全体の中でただ1つ、
立派な曲と思われるのがこの曲です。 天才ですから自分の世界を持っていて、「100%流行に合わせ
る」事ができなかったと考えています。
シューベルト即興曲D935,Opus post.142の1ほか
---映画理論でいうモンタージュとシューベルト、ショパン、チャイコフスキー
シューベルトのこの曲を見たとき、終わりの部分が「あまりにも合理的?」に出来ているのに気づき
ました。 浪人時代です。
少し明るいが、不安定な印象を与えるメロディーが3回繰り返され、(赤の番号)
1回目 少し明るいが弱く全体が流れてゆくような、不安定な印象の部分が現れる、
2回目 それがはっきりして明るくなる
3回目 しかしまた明るさがかすかになり、消滅
そのあと不調和な強い部分があり「打ち消し」のような印象(crescのある228小節)
もとの(この曲のはじまりの部分と同じ)暗い部分に戻るとなります。
少し明るいが不安定なメロディーは非現実(希望・幻想・過去のたのしい思い出)をあらわすと考え
れば、意味はあまりにもはっきりしている。
暗い世界に理想世界や明るい思い出の世界が現れるが、それが打ち消されて暗い世界に戻るという
内容に違いない。
これは大変一般的な心理パターンで、文学や映画でも共通だと考えられます。
ですから、他の作曲家作品にこのパターンが見られる可能性は高い。 そこで楽譜を片端から読ん
でゆくと、ショパンの有名でないほうの「葬送行進曲」、「スケルツォ1」、チャイコフスキーの「中ぐ
らいの難しさの12曲」の「ワルツ」、「センチメンタルワルツ(試訳…「感情のこもったワルツ」)な
どに、同様な印象組み合わせが採用されている事がわかりました。
ショパン/スケルツォ1の中間部では1回目と2回目の譜面上の強さは同じで3回目が弱いのです
が、1回目の直前まで、暗く激しい部分が続きますから、1回目は「弱弱しく非現実の世界があらわ
れる」感じになると思われます。 3回目は大変弱弱しく、不安定になっていて、その終わりに強烈
で不調和な「打ち消し」がある。
これらの中には不調和な「打ち消し」が2回目のあとに入る曲もありますが、あらわす世界に大差
ないと思われます。
これらの曲では3回の繰り返しの違いがよくわかるように、また「打ち消し」部分は上品でなく強
烈な印象を与えるように弾くのだと思われます。
有名でないほうの「葬送行進曲」と「中くらいの難しさ…」は現在楽譜の入手が楽かどうかわから
ないので楽譜を添付します。 ワード文書になっていて印刷容易。
もともと独立の印象を組み合わせて、複雑な感情や思想を表現するというのが映画のモンタージュ
です…「子供が家を出るという映像」「その子が電車に乗る映像」「その子が校門を入る」という3つ
のカット(場面)を並べれば、その数秒の映画画面は「その子は電車に乗って学校に行った」という意
味になる。 本当は3つの場面を別の日に撮影したものであっても、画面を見た人々は前記のように
(条件反射ですから自然に)解釈します。 つまり映画場面の組み合わせが実生活にある場面組み合わ
せと比較されて、一定の意味が条件反射により生じます。
音楽でも映画のモンタージュと同様の現象がある事に気づいた事になります。
言葉のないオーケストラ、ピアノ、ヴァイオリンなどの曲がどうして複雑な感情や思想を表現でき
るかを科学的に考えれば「音楽作品の部分部分の単純な印象の組み合わせが実際の人生にある印象組
み合わせと比較され、実際の場面で存在する複雑な感情や思想が条件反射で想起される」とする以外
に科学的説明は不可能です。
上記の例では音楽の部分部分印象を言語でかなり表現できるのですが、一般的にはそうでないから、
印象合成の具体的説明(言語による説明)はむずかしいほうが普通という事になります。
言葉を使う芸術である文学でもこの現象はあります。 プーシキン作品の1つに
参加者数十万という歴史上の農民大一揆を扱った「プガチョフの反乱」がありますが、指導者プガ
チョフは「悪党」「ゴロツキ」などと呼ばれ、具体的な悪事も書いてあります。 しかし作品を読
んでいるとプガチョフは愛すべき小悪党であり、プガチョフと戦っている皇帝や貴族こそ巨悪なの
だという事が自然にわかる。 つまり言語による直接表現・説明文として読めばプガチョフのほう
が悪人ですが、場面印象の組み合わせによる心理的表現・芸術的表現では逆です。
このように印象を指定した部分を継ぎ合わせて曲をつくると「継ぎ目」が生じやすいはずです。
ショパン「幻想曲」…部分印象を指定して作曲し「継ぎ目」が生じたと思われる箇所です。
一番上の行のagitatoからcrescとなり赤で囲んだ76小節が盛り上がりです。
長い事crescが続くのでffで弾きたいのですが、76小節があまり強いと77小節の小さい盛り上がり
の印象が消えてしまい困る。
77小節の指定はcrescですから、パデレフスキーの指示ではpではじめる事になっています。
ffからpでは「「急に全体が弱く静かになった」という事になりやすい。
ですから赤印76小節はどうしてもmfかfかわからない程度の音量に抑えないといけないです。
そうするとagitatoからの長いcrescであまり実音量が上がらないようにしなければならない。
このような矛盾は別々につくって継ぎ足したためとしか考えられません。
実際には「目立つ場所・目立つ右手または左手部分」の音量を上げ、目だたない場所・または左手、
右手では音量を下げるしかないです…実際にはあまり音量が上がらないが全体として心理的には上
がったような感じにする…また76小節はパデレフスキーの指示のようにpoco ritとする…
また77小節でも同じようにして心理的にcrescとなるように弾く…
また目立つ少数の音を長めにする…・
ショパンは自然にそれらの心理的技術を使ったと思いますが、こちらは1つ1つの音の実音量、実
音量の増大や減少を考え右手左手各音の音量や長さ(テンポ)を細かく指定してそのとおり弾くしかあ
りませんから、大変苦しく疲れる場所です。
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