沖縄
 江戸時代の沖縄は日本ではありませんでした。琉球国といい、薩摩藩(鹿児島)に貢物をおさめてい ましたが、江戸幕府の法律が通用せず、琉球国王がおさめる別の国でした。 1868年の明治維新のあ と、1872年に日本政府は琉球国を琉球藩とし日本領土だと宣言しましたが、琉球の王様はそれまでの 政治を続けようとしました。 明治政府は1879に軍隊と警官隊合計400人を王様の宮殿に送り、王 様は王様をやめて琉球藩知事になりました。 「琉球処分」という事件です。ですから沖縄は1872 年でなく1879年に日本になったとして良いでしょう。

北海道
 北海道はいつ日本になったのでしょうか。 今の函館近くには室町時代から多数の和人(普通の日本 人)がいて、江戸時代がはじまったとき松前藩がありました。 それでも北海道の大部分は昔のままで、 多数のアイヌ人首長がおさめていました。 1669年にシャクシャイン戦争というアイヌ人連合軍と松 前藩および幕府
命令で参加した東北北部の藩連合軍との戦いがありました。 戦いの勝負はなかなか つきませんでしたが、和平会談をすると言って出てきたアイヌ首長シャクシャインを暗殺したあとで は弱くなったアイヌ軍が負け、北海道全体を松前藩が支配するようになりました。幕府が北海道を日 本の一部だと宣言したのは18-19世紀ですが、1669年に北海道全体が日本になったといって良いでしょ う。


東北
 東北はいつ日本になったのでしょうか。 天皇政府が多賀城を仙台の東に作ったのが724年ですが それより北の征服はなかなか進みませんでした。 それより北には「えみし」といわれる人々が住ん でいて、古い中国の歴史書である「隋書」には「蝦夷国(エミシコク、又はカイコク)」の名が出ています。 東 北全体が征服されたのは鎌倉時代に源頼朝が28万という大軍(吾妻鏡という古い本による・・実際にはそ の半分以下だと推定されています。それにしても人口の少なかった頃の話ですから大軍です。倶利伽羅峠に送った 平家軍の主力は貴族の日記では4万とあります)を送り、奥州藤原氏を亡ぼした1189年です。 東北が実際 に日本になったのは1189年という事になります。

 東北には「ナイ」や「ベツ」がつくアイヌ語地名が北海道と同じく多いので、「えみし」といわれる人々は アイヌ語に似た言葉を話していた考えられています。 現在は「えみし」が存在しませんが、普通の日本人(和 人、ヤマト民族)と混血したと考えられています。 その証拠は血液型のA,B,Oの割合が福島県から青森県にか けてだんだんアイヌ人に近づく事です。 つまり東北の人々は「えみし」の血を引いていて、北にゆくほど「え みし」の血が濃い。 
 ふつうの日本人(和人、ヤマト民族)は縄文人と弥生人の混血の結果できたのです。 「えみし」はアイヌ人と 同じく縄文人の子孫に近い人々と考えられていますから、東北地方の人は同じ混血ですが縄文人の血が濃いと いう事になります。 東北地方の支配者だった奥州藤原氏は普通の日本人と「えみし」の混血と考えられてい ます。
 岩手県の人である宮沢賢治が源頼朝を「大盗」(大泥棒)と書いた事はよく知られています。 頼朝は武士たち と新しい政治をはじめた大人物ですが、今の岩手県に住んでいた人々から見れば多数の人々を殺し、町や村を 破壊した「大盗」という事になるでしょう。


関東から九州まで
   関東から九州まではいつ日本になったのか学者の意見がわかれています。  九州が征服されたのはいつでしょうか。 多数派の学者はいつの事かわからないがはるか昔の事だ と考え、教科書はそうなっています。 しかし一部の学者は527-8年の「磐井の乱」を九州豪族の反 乱でなく近畿国と九州国との戦争とし、この年まで九州が独立国だったとしています。 また別の学 者は701年に九州国が滅びたとしています。 白村江の戦い(663年説と662年説がある、倭・百済連合軍 と新羅・唐の連合軍が今の韓国で戦った戦争)で倭(九州国と考える)・百済連合軍が惨敗したあと唐の軍隊が 2000人大宰府(福岡県)に進駐しましたが、その間に唐・新羅と親しい近畿国が軍隊をほとんど失った 九州国中心部を占領してしまい701年に日本全体(とはいうが、実際には九州から関東まで)の支配を宣言 したという考えです。その考えでは南九州の反乱を鎮圧したという721年が実際に九州全体を征服し た年です。

 出雲(島根県)には宮があった、つまり王様の宮殿があったと出雲風土記という古い本に書かれてい て、その王宮の場所に今の出雲大社があるそうです。 出雲が征服されたときの事を古事記や日本書 紀には「兄のコトシロヌシは入水自殺し、弟のタケミナカタは抵抗を続け今の長野県で降伏した」と 書いてありますが、美保神社(島根県)ではコトシロヌシの入水自殺を悲しむ行事が今でも行われてい るそうです。 ただし出雲国の降伏は何世紀の事か不明です。
 最近やっと「宮」という字のある出雲風土記が出版されるようになりました。それまでは昔から天皇陛下の おさめる日本という国に、王様などいるわけがないという考えで、「宮」という字をけずった修正本をつくり、 それが出版されていたのです。


 「天皇の祖先が奈良の豪族であったか九州の豪族であったか」も学者の意見がわかれています。  戦前はサヌノミコト(イワレヒコノミコト)が九州から船を使って近畿地方に攻め込み奈良盆地を占 領して神武天皇になったという古事記や日本書紀に書かれた伝説を信ずる学者が大多数で教科書にも そう書かれていました。   しかし戦後は奈良の豪族が天皇の祖先だという説が優勢です。古事記や日本書紀の記事で古い部分 は歴史でなく神話・伝説だから信用できないと考えます。平たく言えば神武天皇のおはなしを奈良時 代直前に作ったというのです。  しかし今と同じく盾津(タテヅ大阪府東部)のまわりが陸になっていた奈良時代直前に、「船を使い、盾 津に上陸した」という話は作れないだろう、今の大阪環状線の中が湖になっていて淀川とつながり、 盾津が湖岸だった2000年前の話を伝えたものだと少数の学者が主張しています。 盾津ではそこの 豪族であるナガスネヒコと戦って負けたので、熊野のほうにまわって山の中を進み奈良盆地を占領し たという伝説の大体のところは事実だろうというのです。
  2000年前には環状線内部が湖でしたが、淀川と大和川の運んできた土砂のために湖は埋まって小さくなり奈良時代にはなくなっていました。


 以上の話は、今の人が見た場合の話であり、昔の人は別の考えを持っていました。 江戸時代は自分を 「日本人」と考える人が少なく、「○○人(○○は大名領の名とか島の名など)」と考える人が大多数だ ったと考えられています。  江戸時代の後半になり、外国の船が開国を要求して日本に来るようになり、日本列島がイギリス、 フランス、アメリカ、ロシアなどの外国軍隊に占領されてしまうのではないかという心配ができてか ら、自分達は「日本」の人だという考え方が広まり、明治維新のあと大多数の人がそう考えるように なったのです。
写真が紛失してしまい、出す事ができませんでした。写真ははじめが首里城、次が中尊寺、以下 宮地岳神社の筑紫舞、出雲大社でした。筑紫舞は伝承によれば、九州が独立国だった時代の 宮廷舞で日本舞踊には珍しく跳んで空中回転する所作がありますが、大変上品です。 

    「理科以外・目次」