
(試論) 全共闘は前衛党に変わり得るか」にある社会主義社会はどういうものか
補注 筆者の悪い癖で、自然科学研究者には自明と思われる論理の説明が省略されている。 その省略の中で重要なのは「混合方略」という統計学の理論で、それを知れば純粋な社会主義経済や純粋な資本主義経済より混合経済を採用するほうが、例外的・極端な基準を採用しないかぎり常に有利だという事がわかるが、数学的証明は統計学入門書にあるから省略する。
古典唯物論ではなぜ混合経済を実用的に一時期採用するもの程度に考えられていたのだろうか。 古典唯物論では「基本的矛盾をなくす」という方法論に従って理論が構成されたため、レーニン・スターリン・毛沢東式の「資本主義企業を基本的には排斥」という社会が採用されたと考えられる。
現在の基本的矛盾がなくなっても、その矛盾が他の矛盾に転化し転化した矛盾が致命的であり得る事は古典唯物論の弁証法でも論理的に肯定される。「主張内容が致命的であり得ることを主張せざるを得ない」という点で古典唯物論は自家撞着をおこしている不完全な論理系なのである。
新唯物論では「基本的矛盾が残っても、そのための人民の被害が十分小さく、将来次第に小さくなってゼロに近づくなら良い」という異なる方法論に従うので、結論,つまり共産主義社会に至る過渡的社会の理論が異なってくる。
この理論は典型を示すもので、個々の場合はその場合に応じた理論がさらに必要な事は古典唯物論の場合と同様である。
先進国の場合
高度に発達した資本主義社会の革命では、一般的にいって次のようになる。
まず革命時の混乱を抑えるための独裁時代がある。イギリス革命のクロンウェ ル独裁、フランス大革命のロペスピエール独裁、明治維新の大久保独裁などブル ジョア革命で独裁があったように社会主義革命にも独裁時代がある。その期間は 1年位で十分と思われるが、一部の領域では独裁が数年続く可能性もある。
独裁といっても、スターリンなどの個人独裁とは異なり、国民の99%には独裁 という感じがしないであろう。すなわち国外への資本逃避などのブルジョアジー の破壊的抵抗を阻止するため、主な大企業、軍隊、警察に権力のある革命委員が つくという独裁である。基本的人権など、ブルジョア民主主義の権利・自由は事 実上全部が保護されるのであり、大ブルジョアジーの破壊的行為だけが抑圧の対 象となる文字通りのプロレタリアート独裁である。だから独裁期間でも独裁や革 命そのものに反対するデモ、署名などは自由である。発展途上国では次のような 平衡型社会にいたるまでの長期の過渡期社会が必要だが、高度に発達した資本主 義社会ではただちに平衡型社会となる。
平衡型社会とは組合管理国有企業、国営企業、純資本主義企業、経営者を定期 的に拒否できる権利が保証された資本主義企業の4つが、市場経済のもとで平衡 状態になるという社会である。 市場経済がなければスターリン式の物量計算だ けの官僚システムしか方法がなく、財貨の効率的生産の計算ができず、また人民 が自分の失敗から主体的に学ぶようにはできない。
組合管理企業の経営が悪ければ倒産とし、可能な場合には純資本主義企業とし
て再生させる。新たに資本主義企業ができることもある。純資本主義企業は業種 によって規定される年数のあとでは社長や工場長を労働者の過半数の賛成投票で 拒否できる資本主義企業になる。その年数は資本家が十分利益をあげられる年数 に設定しなくてはならない。
新しい企業を作るには、労働者大衆の説得・彼らの 学習を必要とする組合自主管理企業より少数の発案者だけでも成立する純資本主 義企業のほうが適しているから、社会全体の富を速く増すには資本主義企業を認 めたほうが良い。富を作り出す才能のある者はこの社会でも資本家として成功す ることが可能である。可能でないと資本家になる者が出ないから経済的不平等も 認めなくてはならない。
労働者が拒否権を持つ資本主義企業は、過半数の拒否投票で経営者が交替しな
くてはならず、しかも労働者の人数と業種によって規定される労働者の投票(8 割とか9割という賛成が原則)により、組合管理企業に移行する。だから資本家 は搾取率を高くする事が困難になり、いつも自分のような優秀な経営者がいるか ら資本主義企業のほうが良いと宣伝し労働者にそれを納得させる事によって資本 主義企業を維持してゆく事になろう。
一方労働者が相談して経営を行ったり、労 働組合が経営者を雇用して行う組合管理企業ではよほど労働組合の団結が強く、 労働者全員の高度な学習がないと経営能力の点で倒産の危険が大きい。特に合理 化が自力でできるか問題である。
――転職(国家斡旋)が必要になる場合があり、国家が残る者以上の待遇を補償 しなければならない。転職による収入減プラスアルファを国家が補償しても、国 家全体の富が増すならば社会主義国家ではそのほうが良いことになる。だから労 働組合と雇われ経営者の合理化に対する意見が衝突した場合、資本主義国の場合 と国家の裁定基準が異なり、合理化は1企業の利益でなく、国家全体の利益かど うかで裁定をする事になる。
資本主義企業と労働組合の対立でも同様で合理化の裁定をした場合は、損をす
る労働者が出ないように国家が金銭的補償を行うが、組合管理企業の倒産は原則 として失業者に対しては資本主義国の場合と同じ失業保険などで対することにな ろう。 労働争議についての調停方針は純資本主義企業の場合、資本家・経営者 にある程度有利とする。
だから、実際には組合管理という冒険に反対する労働者も多数いて、拒否権つ き資本主義企業と組合管理企業の割合は一定の平衡に達すると思われる。なお移 行のとき国家による企業買収は有償とし、そのときの国債で資本家は倒産国有企 業の買収もできるし、新企業発足のための資金借り入れもでき、平均的有能さが あれば資産増大が期待できるようにする。ただし資本家が法の定める内容に違反 して抵抗した場合は無償とする。
資本家階級が徹底抗戦する場合は、純資本主義企業を規模の小さい場合しか認
める事しかできなくなり、拒否権つきの資本主義企業も成立しない事さえ考えら れる。その場合は一度資本主義大企業がなくなってから、また復活させる事にな るがその可能性は極めて低い。
なぜなら革新政党政権ができてもすぐに革命が起 こるわけではなく、圧倒的支持が政権に集まるまでは革新知事・革新市長の政治 と同じく資本家の利益を制限した弱者に厚い資本主義の政治という時期が続くこ とになる。その社会と平衡型社会では資本家の利益に差が少ないから、資本家の 大多数はすべてを失うより平衡型社会を我慢するであろう。
組合管理になったら 大損だから資本家は徹底抗戦すると考えられそうだが、実際には革命の時から組 合管理になるような企業では、労働組合の力が強くて資本家の気ままな経営は事 実上不可能になっているのであり、補償をしてもらって経営をやめるほうが得か もしれないという事情になっていて資本家の大損ではなくなっている。
――明治日本で大名たちが版籍奉還に反対しなかったようなものである。
資本主義企業のままで残る場合はもちろん大損でない。それに以下のように平 衡型社会では革新政党に失策があれば彼らにも平和的かつ混乱の少ない旧体制復 活の希望は十分持てるのである。
つまり絶えず純資本主義企業が発生し、拒否権つき資本主義企業、組合管理国
有企業と移行して、また純資本主義企業に変わるといった平衡型の社会に革命で 移行する。「東大闘争の…」にあるように、高度に発達した資本主義社会では圧倒 的多数の企業、大学などで「国家権力の介入がなければ人民が自主管理できる力 関係」になってはじめて革命が成功するのであるから、革命とともに出現する組 合管理企業は決して少なくないはずである。
しかし、自主管理をする力量があっ ても慎重派は当然存在するし、またその力量のない企業や大学も当然あるので、 拒否権つきの資本主義企業もまた多数でき、一方純資本主義企業も規模の小さい 場合や新しい種類の企業と国家が認める場合は残されるから、はじめから平衡に 近い状態が出現し、大きな経済混乱はないはずである。
一方国有組合管理企業の合同も適当な条件で認めるので、巨大化した組合管理
企業が実質的には少数の専門家が運営する国営企業に近づくことも考えられる。 この巨大化も能率化の利益と官僚主義化の不利益の矛盾があり、言論の自由があ れば失敗の被害がひどくならないうちに適当なところで平衡すると考えられる。
各種企業移行条件として何が適当か(平衡点はどこが適当か)は、無限に経済 学が発達しなければ確かな判断はできず、誤りが不可避である。誤りのための被 害を減らすために複数の労働者政党や労働者政党セクトが論争しながら実践をし なくてはならないし、市民運動も盛んでなければならない。さまざまな意見が自 由に発表でき、さまざまな運動が自由かつ徹底的に行われないと「全共闘の…」 にあるような理由で間違いの訂正が遅くなり、間違いのための被害が大きくなる。 どんな天才的政治家や天才的経済学者も間違いがゼロではないから、「人間は必 ず間違いをする」という前提に立った議論をすすめる必要がある!!
補注 いかなる理論も不完全だから、理論に忠実なほうが正しい場合と直観的・実用主 義的判断のほうが正しい場合があり得、複数の労働者政党か複数セクトが必要である。
批判政党として保守政党も存在しつづける事になる。資本主義社会に共産党や社会党左派が存在するように社会主義社会に保守政党が存在しておかしくない。
そして極左ヒステリー、例えば労働組合に大した力量もないのに組合管理にしようとわめく競争を労働者政党同士がはじめたりするヒステリーの出現を防止するという積極的意味も保守政党に認めるべきであろう。 毛沢東のような天才や周恩来のような一流政治家が権力の座にあっても文化大革命のような極左ヒステリーが発生するのであるから、極左ヒステリーが原理的に発生しにくい社会構造になっていなくてはならない。左翼的冒険をすればただちに保守政権・資本家権力の社会になるから冒険が不可能という社会にすべきである。
補注 世界を見渡せば多数の革命に極左ヒステリーが伴っている。日本のブルジョア革 命(明治維新)での廃仏毀釈で破壊された文化財が多数ある事は各地の寺社をまわれば 誰にでもわかるが、その全体像は明らかになっているのだろうか。
そのような労働者権力の平衡型社会は長い年月の後では、次第に平衡点がずれる、すなわち組合管理企業の割合が増え、その規模も大きくなって国営企業に近づくから、エンゲルスのいう社会主義社会に近づく事になる。労働者の団結と学習が進むからである。ただし絶えず新発明や新工夫に伴って純資本主義企業が発生し、その発生を国家が積極的に支持するのであるから、資本主義企業がゼロになることはない。
補注 革命直後の途上国ではレーニン・スターリン式の計画経済のほうが正確な計画の できる経済であるが、先進国では計画が複雑になり中央と現場の矛盾がはげしくなるか ら、平衡型社会のような統計的計画経済のほうが正確な計画経済、つまり計画通りの経 済となり得る。 また資本主義経済ではひとにぎりの大資本家の意思によって国家経済 が大きく動くが、平衡型経済では計量経済学の法則がほぼ正確に貫徹するから、計画は 資本主義経済より正確に実行され得る。すなわち平衡型経済の社会主義社会は計画経済 という意味ではマルクス・エンゲルスの想像した社会に最も近い。
そこからあとはマルクス・エンゲルスの結論と同じになる。平衡が十分偏れば
オール・オア・ナッシングの論理が使用可能だからである。つまり平衡型社会の 末期はエンゲルスのいう社会主義社会に十分近いだけでなく、政治学、経済学、 教育学…が十分発達し、共産主義社会に近づく条件が成立するのである。
――資本家がいて、何がエンゲルスの社会主義社会に近づくといえるか、まして 共産主義に…という疑問が生ずるであろうが、平衡型社会末期には、資本家が新 しい企業を作るのも組合管理倒産企業を立て直すのも、「儲け・自分個人の贅沢趣 味のため」でなく「新しい冒険としての面白さ、富を増す面白さのため」に変化 し、搾取率が極めて低くなるといえば、回答になろうか。
もっと正確にいえば、共産主義社会やエンゲルスのいう社会主義社会そのもの
は決して実現しない空想的社会であるが、それらに無限に近い社会は成立可能で 現実に近づいてゆくと考えられる。
途上国の場合
まずレーニン・スターリン型の国営企業中心の時代が絶対に必要である。
これ以外に資本家階級の抵抗を排除しながら生産を持続発展させる方法は考え られないし、また革命後しばらくは革命的情熱が人民の間にあり官僚主義の害は 少ないであろう。
――高度に発達した資本主義国の福祉社会から平衡型社会への移行と異なり、経済構造が大変化し、資本家が大損をする事が多いから、資本家の抵抗は極めて強 くならざるを得ず、革命に同情的ないし中立的な資本家は少ないであろう。した がって以下のように資本家を一度大弾圧でほとんど消滅させてから復活させると いう妙な事がおきる可能性が今でも高い、としておく。
しかしこの社会では経済が複雑化すると、統計的制御でなく直接制御だから計
画とその実行点検が膨大な作業になり実用的でなくなってくる。また少数の官僚 だけが経営能力を持つようになってしまう。しかし一方では組合管理をするほど の労働者力量がないから、国営企業と資本主義企業の並列時代、おそらく制限つ きの市場経済をその次の時代とするしかない。
途上国の場合は労働者階級の力が弱く、毛沢東のいうように農民が労働者階級
の思想で武装して革命が成立している。しかし労働組合の企業管理の力は労働者 自身の力を高めるしかない。
だから資本主義企業を次第に認めてゆく事になる。そして資本主義企業と国営 企業の並列時代が続いた後で拒否権つき資本主義企業が登場する。労働者大衆に 拒否権を適当に行使できるだけの力がつくには、成人教育・学校教育によって経 営をある程度理解する…少なくとも労働者にいろいろな個性的能力があって皆で 協力すれば資本家の話や国家の労働争議仲裁委員会のいう事がわかるという段階 にならなくてはならず、それには時間がかかる。一方それまでに資本家に十分な 利潤を保障しなくてはならないからそれにも時間がかかる。
――革命に味方、または中立的態度をとる資本家が存在すれば、はじめから混合経済を採用する事ができ、歴史が速く進む。
国営企業―資本主義企業の並列時代の後期に、拒否権つき資本主義企業から組合管理企業が発生し、また国営企業から組合管理企業への移行もあって、平衡型社会に次第に移行してゆく事になろう。
また資本主義社会の初期は決して民主的でない。明治日本もイギリス清教徒革命の場合も民主政治とはほど遠い。フランス大革命やメキシコ革命のように民主主義をかかげる勢力の一時的支配が成立した事もあるが、権力は不安定で短期のうちに政権は崩壊している。社会主義社会の場合もたいていの場合、初期・過渡的社会のうちは典型的な民主政治ではあり得ないだろう。さまざまな階層のさまざまな要求に応えるだけの経済的基盤がないのであるから、よほど人民の団結が強くなければ無責任な煽動政治家の煽動を強権で抑えるしかない。
補注 人民が失敗をしてやりなおすという経済的余裕がないから、「全共闘…」にあるのと同様な理由で古典唯物論に従うのが正しい。
特に外国帝国主義の干渉と闘う場合、独裁に近い方法が合理的であろう。
経済的発展とともに資本主義社会でも、社会主義社会でも民主化が進むのである。ただし資本主義社会の場合は資本家の利益を代表する国家とプロレタリアートとの闘争によって民主化が進むのであるが、社会主義の場合には「人民の自治の力を高めながら民主化をすすめて当面の目標である平衡型社会を早期に実現するプログラム」について革新政党・市民団体が論争しながら民主化を進める。
途上国の革命直後には革命前と同じく基本的問題がはっきりしているので(例 えば「外国資本家の飼犬である独裁者と与党が百害のもと、農地改革が必要…」 など)古典唯物論が通用し、唯物論者のほうがそれ以外の人びとより正しい意見 を出す可能性が極めて高いから、一党独裁に近い政治が人民にとって利益である。 しかし、大きな問題が解決に向かうと、何が正しいか唯物論者にも判断が難しく なるから複数革新政党が必要になり、市民運動、保守政党などもないと誤りによ る被害が大きくなるから典型的民主政治が人民の利益になってくるのである。
――農業については大規模な機械化が可能な条件ができてはじめて、協同組合企 業や資本主義企業が成立するであろう。商業については資本主義大企業の成長に 並行して個人商店の連合による協同組合企業を育成し、競争により、集団化が自 発的に行われるようにする。
新唯物論と古典唯物論
全共闘は前衛党に代わり得るか