増山明夫
第一章 「市民的自由」を最大にする社会
はじめに
国家権力と「市民的自由」の矛盾がないという社会は存在し得ない。
様々な環境に育つ人間から様々な考えが発生し、その様々な考えが相
矛盾して衝突する現象も必然として出現するから、「市民的自由」が制
限されていると考える人をゼロにする事は原理的に不可能である。
問題は
「自由が制限されていると考える人を極力少なくし、しかも将来限り
なくゼロに近づけるような社会はどのような社会か」
という事であろう。 旧稿では半世紀以上昔の論文をそのまま転載し
たので、現在は大変読みづらいものになっている。そこで1章2章を
書き直して、同趣旨の内容を読みやすいものにした(つもりである)。
この問題を唯物論から取り上げるという課題は論理的に複雑になる。
「矛盾を限りなく小さくする」という近代的微積分学の論理や「誤り
が少ないという可能性を最大にする」という近代的統計学 (推計学)
の論理は大多数の人々にとって身近な論理とはいえないから、以下の
文は「近代的数学・自然科学の諸概念や諸論理をこっそり持ち込みそ
れらを感覚的に理解可能なようにする」という内容にするしかない。
最初は極端な仮定をした単純で空想的な社会を例にしてこれらの論
理や概念をできるだけ感覚的に導入する。 それから仮定した条件を
次第に減らし最後には現実の社会での議論にする。
最初の例では社会主義社会(階級的矛盾が少ない)、政党は無謬の左
翼政党(社会主義社会支持政党)1つだけとした。 無謬の政党は存在
し得ないが、近代的数学や自然科学の概念・論理を簡明に記述するた
めの便宜として導入する。
第一節 空想的な単純モデルで権力と人民の自由との矛盾を限りなく
小さくしてゆく方法を考える
もっとも簡単なモデルとして
@ 左派政党・革命政党は1つで無謬であり対立派閥はない。
2 右派政党など対立する政党は存在しない
3 階級的矛盾は存在しない
4 「革命期」でなく「安定期」である(この用語は後に検討)
という社会を仮想する事にする。
現実がこのモデルに近いのは中学校や小学校(高学年)の現場であろ
う。4つの条件に相当する条件が成立している。
@ 教師は大抵正しく生徒の間違いを無くす役割がある。
A 対立政党に相当するものは存在しない
B 階級的矛盾は殆どない。
C 荒れている学校が例外になるだけ。
教師が生徒を指導しようとすれば、必然として「教師の指導」と「生
徒から見た自由」との矛盾が生ずる。 その矛盾を極力小さくする方
法を考える事にしよう。
教師が何か規則を決めようとすれば、「規則はないほうが良い」とい
う少なからぬ生徒たちとの対立が生ずるであろう。
「休日の昼は、寝ころがり顎を床につけてテレビを見ながら(ゲーム
をしながら)カップラーメンを食う」という生活をしている生徒たちが
「規則は無いほうが良い」と考えるのは当然である。 彼らの生活で
は「規則は不快なだけで役に立たない」場合が多いから、彼らから規
則反対論が自然発生する。
「道徳教育」という方法で教師が規則は必要だと教えたり、「民主的
討論」という方法すなわち優等生が説得を行う方法では、「現実の生活
を合理化した思想」が無くならないのが普通であろう。 「先生や優
等生は口がうまいから自分たちは対抗できないが実際の経験から考え
れば自分たちのほうが正しいはずだ」という事になりやすい。 物質
(その生徒の環境)は意識より根源的というのが唯物論の基本である。
ではどうしたら良いかといえば、「規則があるほうが楽しい」という
経験を生徒にさせれば良いであろう。 そうすれば「規則反対」から
「規則も場合によっては有益だ」という考えにいつのまにか変わる事
になる。
例として「中学1年生の山中遠足」と「トランプ持込み問題」を挙
げる事にしよう。
「遠足として、@行列遠足 A1コース班行動 Bコース自由・休
憩自由・道草自由遠足(オリエンテーリングや山中ウォークラリー)
のどれを君たちは希望しますか? 」
教師と生徒代表の会議(学級委員会)で教師が問えば、彼らは勿論Bを
支持する。 森林の中で5-7人程度の班毎に生徒がバラバラになるか
ら、自由なだけでなくスリルがあり面白い。
ではそのような遠足を実際に行う場合に問題はないか、と教師が問
えば学級委員たちは「わがクラスにはアイツ(問題児)がいるから迷子
が出る危険がある」と答える事となろう。
そこで迷子を出さないような規則が必要という事になり、「班が分
解しない」「どの道を行くか班員の意見がまとまらない場合は班長決
定(登山隊のリーダー決定に相当)」「班長が道を間違えた事がわかっ
た場合でも文句を言わない」などヒマラヤ登山隊に似た大変厳しい規
則が定められる。
学級委員がクラスで「厳しい規則があっても一番楽しいBの方法に
しよう。」と提案すれば、「問題児」もそれに賛成する。彼らも楽しさ
と安全を求めているからだ。
そこで山中のコース自由・休憩自由・道草自由という遠足を行えば
規則違反は皆無となる。 違反しないほうが楽しい!!
そして「規則反対派」の多くは「規則があったほうが楽しい事もあ
る」という考えに変わる。つまり教師から見た「問題児」が減る。
「トランプの校内持込み」に対する右派・保守派教師の指導は「生
徒のトランプ持込みを許可すれば、休憩時間だけでなく次の授業時間
に食い込んでトランプ遊びをする(教科書用意などの授業準備をしな
い)生徒が出現する」「だからトランプ持ち込みを禁止すべきだ」とい
うものであろう。 現実にその指導をすれば規則違反の生徒が出現し、
その数は増大してゆく。 違反するほうが楽しければ違反が増えるの
は当然であり、この指導は結果を見れば「反道徳教育」という事にな
ろう。
左派・リベラル派の多数の指導は「生徒を信用すべきであり、トラ
ンプ持込み許可は当然」となるのが普通であろう。 これも時間制限
に違反したほうが楽しいが故に違反が次第に増大するから、やはり「反
道徳教育」と言えるであろう。
違反を出さない方法は次の通りである。
「トランプ持込みは生徒の要求である」「授業時間に食い込むトラン
プ遊びは教師として容認できない」事を教師と生徒が確認し、
「持ち込みは原則として自由」「ただし違反が出たらそのクラスでは
1週間持ち込み禁止」とすれば良い。
違反が出なければ生徒全員のトランプ遊びが保障されるのだから、
「問題児」が違反しそうになると仲間が違反をやめさせる事となる。
「問題児」が我慢を覚える事になる。
実際の指導例は第6章「酒井一幸氏の中学行事改革」以下を参照。
この2つの指導例が大衆運動の「統一戦線」戦術と似ている事は誰
でも気付くであろう。 つまり教師や優等生が「問題児」を含む一般
生徒を説得するのでなく、
1 「問題児」も本音で賛成する内容で統一行動を行う
2 その統一行動の結果「問題児」を含めた生徒全体の考えが変わる
という方法になっている。
このような教師指導は生徒の希望を極力通すという指導だから、
「生徒から見れば自由主義の指導」であるが「教師から見れば大変厳
しい集団主義の指導」となっている。 つまり教師の厳しい指導と生
徒の自由が両立している。 ヘーゲルやマルクスの用語を使えば、教
師の指導と生徒の自由の矛盾が止揚されている事になる。
ただしこのような指導が教育のすべての局面で発見されているわけ
ではない。 数学・自然科学で理論が面白いという授業、音楽や美術
で芸術に感動するという授業を毎回行う事は困難であろうが、そうだ
とすれば「生徒がつまらない授業を強制される」という場面が生じ、
その苦痛に耐えられない生徒に対する説教と弾圧が出現するのも自然
の成り行きである。 また将来社会が進歩すれば、新種の矛盾が生ず
るであろう。
生徒と教師の統一戦線を作る指導によって矛盾は必要な程度に少
なくできるし、将来教師と教育学者の努力によってさらに少なくして
ゆく事が可能である。しかし矛盾は絶えず減少するだけでゼロになる
事はない。
同様に
1 国民一人一人から見れば自由な社会で
2 社会主義国家とそれを支える左翼政党から見れば一定の目標に直
進する社会
3 統一戦線をつくる方法で「政府や政党の指導と国民一般の市民的
自由との矛盾を必要なだけ小さくし、また絶えず小さくなってゆ
く(ただしゼロにはならない)社会
が存在可能なのではなかろうか?
少しだけ具体的にそのような社会を想像するために、やはり教室モデルから出発する事にしよう。
「授業中騒動」に対して、現在普通なのは「教師の説教・体罰」「反省会つまり優等生を動員した説教」であろう。 教師と学級委員。班長など
優等生の力で問題を解決しようとする。
統一戦線をつくる方法では、授業の苦しさを我慢するのが大変な生徒達と教師・優等生が話し合って、両方が我慢できる程度の授業中騒動制限を
する事になる。「問題児」にもある程度の我慢をしてもらい、次第に我慢に慣れるという方法となる。
その我慢できる程度は「問題児」の代表と優等生代表が話し合って原案をつくることになり、「班長会」「多数決原理」でなく「遊びグループ
代表会議」「本音での話し合いと満場一致」が採用される事となる。
一般社会で考えれば、優等生会議に相当する「ソヴェート会議」(活動家会議)での多数決でなく「普通選挙による議会」で、満場一致をめざす
事に相当する。
もともと現在日本で普通の「教師が学級委員や班長を指導」「学級委員や班長が一般生徒を指導」という方法は戦後、一部の左派教師・教育学者
が提起したもので、
「教師は労働者であり、生徒の大多数は労働者の子弟であるから、教師と生徒との間に本質的矛盾はなく、教師は生徒の先頭に立つ事が重要」とい
う粗雑議論に由来する。
「まず主要な矛盾だけを考え大体の結論を出し、他の矛盾はそれから考える」という粗雑論法はスターリン著作に普通である。
この方法は当時普通に見られた「餓鬼大将の暴力支配」対策に有効だったというかなり多数の実践報告(日教組全国教研、都教研)があり、そのた
め方法がある程度広まったものであろう。
ソ連革命においてレーニンが最高指導者の時代、、二種の選挙が行われている。普通選挙のほうでは遅れた地域から旧特権階級の代表が多数当選
し、彼らの議事妨害で革命に必要な諸改革ができない…・そこでレーニンは「活動家会議」である「ソヴェート会議」に頼る事になった。
革命期には「革命」を支える事が最も大切な判断基準であるから「ソヴェート会議」に頼る事になるが、餓鬼大将の暴力支配を無くすという「革命」では「活動家会議」に相当する「班長会議(優等生会議である)」に頼る事は合理的である。 大荒れの場合も同様で教師が多数生徒の支持で独裁体制を作る事が必要だ。
問題は「餓鬼大将が不在で、子ども達が多数の小グループに分かれている」「大荒れではない」時代に多数教師(右派を含む)がその方法を適用した事である。スター
リンが革命時のシステムをいつでも正しいとしたのに似る。
同様に、この空想的簡単社会では
「普通選挙」で選ばれた代表がホンネで話し合い、極力多数決を回避し、妥協できる線で満場一致」「共同実践を重ねるといつのまにか正し
い(人民大多数の利益)方向に妥協線が移動」という事になる。
近代的微積分を忘れていなければこのあたりの議論が近代的微積分の基礎である「δ―ε論法」そのものである事が自明であろう。
マルクスの時代は近代的微積分の研究がはじまったばかりで、このように(以前より)正確な論法は少数の数学者しか理解していなかった。
だからマルクスの唯物論にこの論法はない。マルクスもエンゲルスもレーニンも毛沢東(若い時)も超一級能力を持った人物ではあるが絶対神では
なく、彼らの研究にも時代の限界がある事を認識すべきであろう。
次の節では、「左翼政党が無謬でなく誤りだらけである」「当然複数
の左翼政党や政策派閥が存在する」という現実に近い条件で「社会主
義国家権力を支える左翼政党の活動・指導と市民的自由との矛盾」を
考察する事にしたい。 資本主義国家の場合や右派政党が存在する本
当に一般的な議論はその後となる。
このような指導を感覚的な図式にすれば次のようになる。
今「道徳性」という尺度があったとすれば、生徒は「道徳性」の低い者か
ら高い者まで分布することとなろう。本当は「道徳」に多数のモノサシ(評価
基準)があり、そのモノサシも論者の立場によって異なるから「道徳性」とい
った客観的・一元的基準は存在しないが、話を簡単にするために、そのような
基準があるとしよう。
「道徳教育」を支持する教師や「民主的生徒討論」に依拠する教師は指導に
よって、1図の左のように分布する生徒集団がら右のような分布の集団になる
事を期待している。 すなわち、目標とする基準まで「道徳性」の低い生徒を
引き上げるのである。
しかし実際の結果は2図のようになるのが普通と考ええられる。
つまり、教師は「道徳性基準」の低い生徒を目標レベルまで引き上げようとす
るが、低い生徒たちが指導に納得せず「説得しようとした教師がうるさい」「し
つこい」と反感を持つようになる。 実際には「問題児」の遊び友達が「問題
児」に同情して教師嫌いになり、「道徳性」の低い生徒が増える事もありえよ
う。

統一戦線をつくる指導では生徒全体がいつのまにか「道徳性」の高い
ほうに移動する事となる。ただし個人的には低いほうに移動する例もあろう。
「道徳性」の低いほうに移動する「生徒の自由」が保障されているから、さま
ざまな偶然的理由によって低いほうに移動する生徒が出現するのも必然であ
る。ただし高いほうに移動する生徒が圧倒的に多く、全体として高いほうに移
動するから指導に困る事はない。
以上のように生徒が勝手に動き回る事を前提とした考え方は、1つ1つの粒
子が勝手に?動き回るが粒子全体としては法則に従うという統計力学を学んだ
人ならごく当たり前の思考であろう。 「道徳教育」推進者や「民主的討論」
中心の指導を推進する人々は近代科学以前の思考をしているのではなかろう
か。
同様な問題は労働組合や地域運動団体でも普通にある。
活動家の中には「自分の正しいと思う主義主張」を誰にでも執拗に
宣伝し一般組合員、団体成員に「しつこい」「うるさい」と嫌われる人
が少なくない。
それぞれの組合員、団体成員の考えは、さまざまな環境の中の自分
を合理化した考えであるから、理論的に矛盾する不合理な点があって
当たり前である。その不合理を執拗に追及すれば、追及された人が不
愉快になるだけだ。
政党や知識階級に属する人々でも、明らかに矛盾した主張をする人
は圧倒的多数であろう。たとえば現代の日本で「男女平等」を主張す
る人は圧倒的多数であるが、家事洗濯を妻にだけやらせたり、夫には
「さん」がつくが妻は呼び捨てという例も多分圧倒的多数である。活
動家自身にも矛盾があるという事を前提にして活動すべきであろう。
自分の支持する政党のスローガンすべてについて長々と喋り説得を
試みる人は道徳教育に熱心な教師と同じく「いかなる方法でも宣伝を
すればするほど効果がある」という単純思考をするとともに「自分の
考えは絶対的に正しい(絶対的に正しい主張をする人間は存在し得な
い!!)」と考えている人だと思われる。
御用組合でない組合に属していれば、どの政党とどの政党が自分の
味方であるか次第にわかるであろう。 活動家はその「次第に分かる」
のを速くするような活動をすべきである。
ただし支持政党の宣伝が有害だと言っているのではない。政党が政
策やスローガンを宣伝する事は重要である。 ではどの程度に宣伝す
れば良いのか…・…・教師の場合ならどの程度まで教師の考えを生徒
に「知らせる」必要があるか、は次の章で問題とする。
―――「知らせる」であり「説得する」ではない。
また階級的対立の(理念上では)ない、社会主義社会のほうが、「市民的自由」の確保が容易
な筈なのに、現実の社会主義社会では自由の制限が厳しい理由も問題
とする。