先進的な部活動指導教師たち





補章 「先進的な部活動指導教師たち」

 6章「酒井一幸氏の中学行事改革」7章「意識より生活を先に変える指導」で登場する酒井一幸 氏らの先進的教師は、理論的意識はしなかったが実際にはスターリン式粗雑唯物論*に反する新指導を 行い生徒の絶大な支持を得、彼ら生徒が勝手に(教師と独立に)努力し向上するようになるため、「道徳 教育」とか所謂「生活指導」はほとんど無用になった。
 彼ら先進的教師たちの部活動指導もまた流行に乗らなかったので、実践はほとんど活字にならず、 教研集会発表も地区どまりであった。 ここでは今村哲郎氏の部活動指導を中心とし、増山良夫氏の 指導、酒井一幸氏の指導について考えてみたい。
 *「教師は労働者であり、公立学校の生徒はほとんど労働者の子弟であるから、両者の考えや立場は基本 的に一致するはずで、教師は生徒の先頭に立って指導を行うべきだ」という粗雑議論。スターリンは副次的 要因をカットして主要因だけ考え、議論を単純化する事が少なくなかった。文末にこの場合の正しい唯物論。  

   1. 今村哲郎氏の勤務していた東京都練馬区立石神井中サッカー部創立と指導
 1982年(昭和57年)12月10日の「富山南ロータリー」という地方出版物に増山三雄氏の「サッカ ーを通じて」という一文がある。 長くなるが今村氏の指導方法がよくわかるので引用する。
  文章と用字はその出版物にのったままにしてあります。

「…増山君、石神井中学でサッカー部を作りたいのだが手伝ってくれないか、の一言。…」
 増山三雄氏は文京区立3中での教え子であり、高校・大学でサッカー部に所属していた青年である。 「聞いてみると、メンバーはいわゆる落ちこぼれ組、教室にも運動部にもはまりきらない生徒達でし た。酒、たばこ、女、暴力などで、学校では校庭の片隅にたむろする子供たちでありました。」
「…最初、今村先生よりその子供たちに紹介を受けたとき、子供たちが半身でこちらを向き、体は反 抗的で、目だけが人なつっこそうだったのが印象的でした。」

「以来毎日、子供たちの授業が終わるのを準備万端ととのえてグランドで待ちました。ラインを引き、 ネットをはり、ボールに空気をつめ、今村先生が監視役で帰りそうになる子供たちを一人も逃がさず に全員練習スタート。 練習内容は、どの子も機会均等で
 「全力で走ること。」「全力で蹴る事。」「全力で相手にぶつかる事。」「大声を出す事。」
でした。

 戦術としては全員攻撃、全員守備でした。 キックアンドラッシュの典型です。」
「さて、この子供たちに一人一人の限界に挑む練習をさせますと、今までのヤッケル立場からヤッケ ラレル立場になり、怒りが表情にまで表れ、なかなかの迫力でした。たたくほど目を見開いてむかっ てくるすばらしさです。」

「かなり緊迫感の高まったところで、すぐ対抗試合、今度は自由に思うままやらせました。最初の試 合は惨憺たるもの、ボールのあるところに石神井チームが密集して、うまく相手にパスでかわされ惨 敗、それでも蹴り返したボールに石神井集団がなだれ込み一点をあげる事ができました。」

「それからは点はとられるが点もとれるチームとして成長して行きました。 今村先生と『当たれ』 『突っこめ』『戻れ』と叫び続ける試合を重ねるうちに、一人一人の個性がすこしずつ発揮されるよう になってきました。人混みの中で誰よりも足数が多く出てよくボールが見えるやつ、ウィングからカ ミソリのように切り込むやつ……(中略)…役割分担が彼らなりに出来てきました。

 夏休みには箱根・仙石原中学での石神井中学全運動部共共の合宿、排水の良い…(中略)…  一緒に早朝マラソンや体操をやり、一緒に練習をやり、一緒に風呂に入り、一緒に食事をし、一緒 に歌を歌い、きついが楽しい五日間でありました。 中学出の就職組も半数近くおり、少年時代の感 動の体験となったようです。」

「さて、いよいよ秋の東京都大会トーナメントとなり、いまやその強いあたりとするどい突っ込みの 迫力に恐れられるようになった石神井チームは一年を経ずして小石川サッカー場での決勝戦進出とな りました。惜しくも洗練された相手チームに(2-1)で惜敗しましたが、今村先生共々、子供たちのはつ らつたるプレーに喝采を送りました。

 だが表彰式での全日本コーチO氏の講評はひどいもので、「この石神井チームのプレーは雑すぎる、 大声を出し相手を威嚇することなどは紳士のスポーツであるサッカーの精神にもとる。」といわれ、そ れから今村先生と痛飲し、「この子たちには、このサッカーが最高であった。なんのOめ!」と…・  「やがて学校の仲間にも認められ市民権を得た三年生部員は、「先生オレ高校でサッカーがやりた い。」といいはじめました。今村先生や有志の先生方の補習授業、私も家庭教師の代役、何人かはめで たく、その頃サッカーに力をそそぎはじめた帝京高校などに入学できたようです。」…後略。

 問題児達の立っている地点…彼らの現在の習慣・考え方・学習能力などから出発するという今村氏・ 増山三雄氏の考え方と、エリートを指導するサッカー専門家の考えとの違いがはっきりしています。
 両氏の考え方は六章にある、自由グループ参加式文化祭で問題児集団の「うるさい音楽」を認める べきかどうかについての酒井氏発言と同種の思想といえるでしょう。 「彼らの生活で100%後ろ向 きではない事といったら、楽器演奏くらいではないか。(中略)条件をつけて認めるべきだ」
 問題児達が問題児ではなくなって行く過程もこの文には書かれています。 一見「熱血先生や熱血 先輩の力で生徒が変わった」ように見えますが、熱血先生による説得の効果がほとんどない事は常識 と言ってもよいでしょう。 効果があればどの学校でも問題児がほとんど存在しないはずです。 

   七章にある「生徒集団による問題児を良くする運動」の場合は「問題児と集団で遊ぶ」「問題児を集 団構成員多数の参加する部活動や趣味の会に参加させる」という過程、つまり「問題児の生活が変わ る」「やがて問題児の人物も変化」という過程を常に経過します。 

 問題児にも楽しいサッカーをさせると、彼らは楽しいから努力をはじめ、その努力をする自分を合 理化して考えが変わってゆくのです。 生徒集団の運動でも、この例のような教師と先輩の指導でも 同じく、物質(唯物論では生活も物質)が変わるから人間の意識が変わるのです。
 …「道徳教育」とか所謂「生活指導」はO氏の講評と同様、言葉だけで人間の意識を変えようとする方法。

 短期間で「都大会決勝まで勝ち進む」チームになったのは、技術指導も優秀だったのでしょうが、「生 徒がサッカーに努力する」事に生きがいを感じ、周囲からサッカーで認められるようになった効果が あると考えられます。 学習意欲が急に上昇している。 七章にあるような生徒運動の場合も、問題 児の成績が急上昇しますが、同様な心理的原因と思われます。

2. 部活動の大切さ 
 理想的部活動では「生徒が部活動に参加すると、楽しいから一生懸命になり、その努力する自分を 合理化して人格が変化する」ようになると考えられます。
 部活動では生徒の上手下手・他の個性が問題になりますから、いろいろな個性を持った生徒が楽し さを感じ、その努力が皆に認められる事が重要だと考えられます。 ですから「個性を尊重した平等 教育」…「貧乏人は麦を食え」(昔の大臣放言)という差別主義でなく、「皆同じ定食」という素朴な平 等主義でもなく、「好きなメニューを選ぶが皆おいしい」という教育観が必要と考えられます。 

 前記引用文にある箱根仙石原での合宿とは次のようなものです。 1960年.61年はテニス部、バレ ー部という2つの部だけが夏休み合宿をしていましたが、1962から年今村氏が中心となり8つの部 すなわちテニス・バレー・サッカー・バスケット・ソフト・社研・美術・地学が合同で合宿をするよ うになります。 以後1966-71を除いて*1982年まで連続して行われますが、81年と82年は部活動 以外に「一般参加」があります。 夜には演芸会とか肝試し会(男女ペアで夜道を歩かせ、部の補助指 導員になっている「先輩」がお化けになって生徒をおどかすというものらしい)、フォークダンスなど も行われたようです。「先輩」のほか親有志も参加しています。

写真は「あかまつ」昭和58年12月5日、石神井中PTA広報委員会発行の7ページ目です。 合宿の「しおり」は生徒製作だったそうです。

 今村哲郎氏は1978年に病気で鬼籍に入られたので、後半の実践は同中学校の他教師と親の支持に よって行われています。

 大変な教師負担があるこの行事がどうして教師多数の支持を得たかという理由を現在今村氏に尋 ねる事はできませんが、1974年に同種の実践をはじめた増山良夫氏は次のように語っています。
「ほとんどが30歳前後の組合員で、良い教育をしたいという熱意があった。」「それまでの学年主任は そのような熱意を持たない人だったので次の年別の人(組合員)が主任となり(当時は組合が強く主任は 選挙が普通)この行事が行われた。」

   前記の通り、同種実践は増山良夫氏が中心となり74年以後東京都練馬区立練馬中学校で(5泊6 日)行われますが、そのときはじめて全部の部活動参加となります。そしてPTAとともに学校行事と して認めてほしいという陳情をしていますが、教育委員会は認めていない。 

               

      「教育与論」1975.1.20日から 

 49年度(1974年度)の参加人数は少数の3年生を含めて467名 参加率は1.2年生全員の7割強と なっています。卒業生20名 親20名も参加。

   このようなクラブ林間学園方式は「生徒の個性を尊重した教育」という点では酒井氏の「多数コー ス希望制(コースは鍛錬・植物観察…・絵・詩や俳句など)・希望者による臨時班の行動」に比べたと き、更に徹底したもので生徒の支持は更に大きいと思われますが、全員参加の実現すなわち「生徒の 個性を尊重して平等」の理想までゆかないのが問題となります。 ただし学校行事となり部に属して いない生徒全員が参加すればこの問題はありませんが、その場合無所属生徒がどのような形で参加するか が問題となりそうです。

   一方酒井式の林間学園では、「個性を尊重して平等」という点の問題はありませんが、山歩きのリ ーダーが務まる教師がいないと、安全性に不安があります。 北八ヶ岳や志賀高原だから、安全策は 6章に書かれた指導プログラムで十分なのであり、他の地域だと別の安全策が必要になるかも知れな いです。 例えば谷ぞいのコースは大雨の可能性があれば通行してはいけない…しかし圧倒的大多数 の教師にそのような知識はない。 林間学園としてどのような形が適当かは、場合によって異なり、 教師が自分達で考えてゆくしかないのではないでしょうか。

  3. 優れた部活動指導の例 筆者の知る優れた指導の例として、この章に登場した2人の教師の指導を記します。いずれも初 期実践ではなく、指導法が完成したときの指導です。

   A  酒井一幸氏の公立中学ワンダーフォーゲル部指導
1. 荷物の重さは体力に並行するようにし、3年男子は1年男子の約2倍の荷物。
2. 南アルプス、八ヶ岳など大きな山を登る夏休み登山では、部員がいくつかのグループにわか れて登る。 酒井氏は後からついてゆき、落伍者がでたらその荷物を持つ。
3. グループの責任者は3年生で、あらかじめ酒井氏に指定された場所で休憩し全グループ員の現在 位置確認の話し合いをさせる。 その場所が地図のどこにあたるかの手がかりはすべて酒井 氏が責任者に教えておき、話し合いのあとその場で責任者が全員に公開する。
4. どのテントにも1−3年生が配置され、3年が班長となりテント設営・撤去は3年が率先し   て模範を示し、下級生に真似をさせる。
5. 冬には奥武蔵の低山でガイドブックに記載のない地域を選び、地形図に酒井氏が書いた一本の 赤線にそって、生徒達だけの力で歩く。 間違えたら、しばらくしてから、酒井氏が間違いである理由 を生徒達に教え、赤線のコースに出るようにする。
6. 2年の林間学園では、酒井氏創案の「多数コース希望制・希望者による臨時班行動」となる。 地図を読む力に優れた優等生やもと餓鬼大将のリーダーを説得して、コース分担教師の補佐 役とする。 岩場があれば、通過指導員として部員を配置。 それ以外の部員はラップタイ ム監視係とする。 鍛錬コースは他中学のコース(全員1コース)よりずっと長く高低差も大き い一方、班行動だから教師の直接監視はない。山に慣れていない生徒達のオーバーペースが 事故のもとになる(疲れると注意力が落ちる)ので、定点での監視を行い速すぎる班に警告を与 える。 
 3年と1年.2年との矛盾に対する方法論があり、部員の個性を尊重し、また部員全員に誇りを持た せるようになっています。

   、 B. 増山良夫氏の公立中学テニス部指導 
1. 原則として練習メニューは全員同一である(そのメニューについてゆけない場合の配慮は例外)
2. 学校対抗団体戦は強い者が出るから、3年の一部・2年のごく一部が出る事になってしまう。 それでは全生徒が目標を持つ事にならない。 個人戦は普通の個人戦、新人戦のほかに1年対 抗戦を区大会で行い、全員が区の大会での試合に参加できるようにする(その提案者は増山氏)。
  会場のテニスコートだけでは間に合わないから、校庭に臨時コートを作る。
3. 部員が多いので、トレーニング組と実技練習組に生徒をわけて教師や先輩指導員が、多数の生 徒の実技を指導できるようにする。
4. 出入り業者を通して、第一線で活躍するプレーヤーを招き、優れたプレーを見せる。また短時 間でも全員と打ち合ってもらい、第一線プレーヤーの技術の素晴らしさを生徒に知らせる。
 エリート生徒だけでなく、全員が目標を持ち努力できるようにし、全員にテニスというスポーツの技術の奥深さ を感じさせると共にまた「下級生の中に上級生より上手な者がいる」ことから生じやすい諸問題がおきない ようにしています。 


    写真は「くらぶ」NO.4 79.3.19  練馬中学クラブPTA常任委員会発行です。 東京都練馬区 の大会ではテニス部が学年別全員参加制になっている事がわかります。


注  スターリンの著作には「副次的要因をカットして局面を単純化してから議論をはじめる」粗雑議論 がしばしば見られるが、そのような粗雑議論は「わかりやすい」ため、当時多数の人々から支持され、ス ターリン崇拝・スターリン独裁の一因になったと考えられる。 教師先頭論も副次的要因をまず切り捨て て階級論だけ考える事としたスターリン式粗雑議論である。

 授業中騒動一つとっても、「教師は騒動ゼロを望む一方、生徒のかなり多くはつまらない授業、わかりにく い授業の我慢がつらい」という矛盾を見れば教師が生徒の先頭に立てない事は明らかだ。 生徒に授業中騒 動の我慢を強制したり、タテマエ論で生徒を圧伏させたとすれば、一部の生徒がはみ出して反抗的になった り、多数生徒が不満解消のため弱い者いじめに走る事があっても自然の成り行きというものであろう。

  教師と生徒の考えや立場が基本的に一致するからと言って、現実に一致するとは限らない。 「基本的 に一致」とは「無限の実践の後で一致」という事であり、「現実には、適当な指導を続ける事によって、必要 なだけの一致が得られる(基本的な一致があるから)」という「定理」のような論理が正しい唯物論である。  この論法は微積分教科書で学ぶのだが、数学苦手の教師や教育学者でも「部品の精度を上げてゆけば、必 要なだけの製品歩留まりが確保できる(基本的設計が正しいから)という論法だから理解できるはずだ。
 教師が生徒の先頭に立って良いという条件は、「教師と生徒の目先の利益、要求がはじめから大体一致して いる」という事である。 革命初期の社会や横暴な餓鬼大将支配とか大荒れ学校での番長支配のような場合 は指導が成功する事になる。 その成功を見て指導法はいかなる場合にも正しいと誤断し、世界的にスター リン批判が行われたあとで、「班競争」「ボロ班批判」などスターリン独裁社会主義社会のミニチュアが出現 し、やがて教師が総スカンを食らって「理論」放棄という馬鹿げた事になったのであろう。 スターリン独 裁を支えた理論を批判せず、独裁だけを批判するという横着がもたらした結果である。

 当面「優等生」も「問題児」も我慢できるレベルに騒動を制限し、次第に騒動が減ってゆく方法が前記「定 理」によって常に存在するから、教師が具体的工夫をすれば良い。全員または圧倒的多数生徒のホンネでの支持 が得られるが具体例は七章。 

P.S. クラブ林間学園に「一般」という項目をつけ加える事を考えた実践者は誰かいまのころ不明です。部活動 に参加していない生徒も一部が参加するというのは、学校行事化への前進です。 ただしその生徒達をどのように 指導するかという工夫が必要になってきます。

 はじめの写真はクラリネットが増山良夫氏

「酒井一幸氏の中学校行事改革」
「訓話や討論でなく生活を先に変える指導」

「新唯物論と古典唯物論」