道徳・生活指導では教師が直接教える指導法が伝統的に採用されていた。しかし物質が意識より第一義的だという唯物論に基づいて考えれば、「生徒の生活を変えれば、生徒はその生活を合理化して考えを変える」という方法のほうが原理的に優れているという結論にならないであろうか。 「寝そべってテレビを見ながらカップラーメンを食べる」生活をしている生徒達は、規律などないほうが良いと考えるのが自然であり、それを「規律が必要だ」という訓話や討論で変える事は極めて困難なのが通例ではなかろうか?

 「授業態度を良くしようという説教」(要するに言葉で説得)よりも「指導要領準拠・教科書ガイドに頼る授業をやめて良い授業をする」(現実の生活を変える)ほうが生徒の授業態度を良くするのに効果がある事は有力教師の常識である。
 酒井式行事の経験をさせるなど現実の生活を変え「規律があるほうが楽しいという経験を彼らにさせれば彼らも規律が必要だと考えるようになる」という方法のほうが合理的ではないか? 思想が上部構造だというマルクスの理論(大多数の人間が自分の現在の姿を合理化正当化するから成立)は生徒でもあてはまるのではないか?

 仮説実験授業という理科の授業はルール押し付けをしない授業だが、道徳・生活指導でも教師が道徳・生活規範の押し売りをせず、生徒が自力で正しい考えを身につけるという指導方法が今村・成見両氏によって発見された。 酒井氏はまじめに努力をという説教・説得なしで生徒がまじめに努力する行事を考案したが、その行事の原理がすべての場に適用できるように拡張され、道徳の説教、説得がほとんど不要になったのである。

 筆者のクラスの生徒で次年度に「学級目標を討論の上決めその点検をする」教師の担任クラスの学級委員になった場合、例外なく「すべてが偽善」「物凄くくたびれる」不快な仕事だったと言っていた。中学以上で上から道徳を教えたり道徳について討論させ結論を引き出すのは革命直後の国家や宗教系学校で行う場合以外、結局は建前論の押し付け・建前論での「討論」となり、偽善養成の時間にしかならないのではなかろうか。 現人神の天皇とか、ヒトラー、スターリンなどの後光があれば別だが…

 

中学1年学級に採用した場合の結果



 

 

3年以上続いたいじめを生徒運動だけでなくす

 

非行生徒を非行グループから引き抜き良くする

 

他クラス生徒上級生の暴力実力阻止

 

実践A

 

いじめなし

 

成功

 

成功

 

実践B

 

成功

 

非行生徒なし

 

校内暴力なし

 

実践C

 

成功

 

成功

 

成功

 

実践D

 

成功

 

成功

 

成功

 

実践E

 

いじめなし

 

成功

 

校内暴力なし

 

実践F

 

いじめなし

 

非行生徒なし

 

成功

 

 いじめ消滅の基準は本人または親のほうから担任に申し出ること。 非行生徒を良くしたという基準は有力リーダーの遊びグループに入り(リーダーと親の確認)通知表54321の合計が年度末の3月に4以上上昇した事(3の上昇では3年以内の非行復活例があるので、学期末に非行が知られなくなっても上昇3以下の場合は非行克服の失敗例に数える…2.3年からこの方法採用の際に問題となる)。 暴力実力阻止は教師による対決事件目撃または2週間以上続く被害者の護衛(集団登下校・集団トイレ)が目撃された事で成功と認める。

 これらの基準に合う実践が他の方法で実現された発表例はなく、1つの基準だけの成功でも例は少なかった。 この方法では6例とも成功である。 また3学期期末テスト3教科または5教科合計平均点が1例(8学級で3位)を除き学年最高(6-8学級の学年)である。 常にリーダーが多数出現し、極端な例では2年のときの生徒会本部役員、学級委員、部長・キャプテンそれぞれの約半数を占めている(学年は6学級)。
 生徒の個性が伸びたのが生徒会部活動だけでなく、数学中3終了1人、英語あと少しで中3まで終了という生徒2人、雰囲気を察して頂けるであろうか。
 肺炎に対するペニシリンの如きはっきりした効果だと認めてよかろう。

 東京都組合教研発表の際は助言者のO氏、司会者のI氏T氏らからウソツキ扱いされ、 全国発表レポートは参加者全体で決めるという組合規定にもかかわらず、彼らが密室で 選ぶ事に決まってしまった。 つまりそれまでの実践家たちの常識を絶する結果だったのだ。 生徒が勝手にまじめになり勝手に努力するから教師はデクノボウに徹すればよく、名演説・臨機応変の工夫・指導の苦心談などが全く存在しない、というのも熱血教師が先頭の人間教育が理想という彼らの常識を絶していたであろう。

 生徒有志運動が表にあるような有意義なものも、「××チームを応援する会」など趣味的なものも発生し、直観的にいえばクラス全体が沸き立つような雰囲気となる。1年の学年全体である程度採用した場合、23年から採用の場合の結果は後掲する。

  成見学級の驚異 

 このような学級が存在する事を筆者が知ったのは、大学院生のとき東京都練馬区立大泉中学の理科講師をしていて、偶然、成見克子氏担任クラスで授業をした事による。 そのクラスの特色は極めてはっきりしていた。

1.
面白い授業(仮説実験授業、一部は玉田式授業と中原式授業)をしていると、私語や教師指令違反がなく、教師の管理的発言が不要…つまり叱られる生徒が存在しない。生徒発言は量質とも抜群。
 玉田氏と中原氏は当時の科教協の代表的な名教師。 心理学的に見た授業の構造は極めて安定していて努力すれば真似可能。5章のリンク「理科授業論」の中に仮説実験授業、中原式授業、玉田式授業の心理学的構造の比較とそれぞれの長短を記載。

 また担任である成見氏の授業も騒ぐ生徒なし。 

2.
ただし他教科授業ではさんざん騒ぎ、教科によっては学年一私語が多いという。その一番騒ぐという教科でも定期テストのクラス平均点は学年全クラス中最高という常識に反した現象が見られる。

3.
間違い教科書通りの授業をした時,質問が出て教師(筆者)が立ち往生。  2回。 間違っている教科書をそのまま教えて申し訳ないと謝ったところ。では本当の事を教えろという要求が出て全員賛成。 授業時間不足を告げたのにもかかわらずテスト対策と関係ない予定外授業をやらされる事になった。
 浸透圧を教科書通り穴の大きさだけで説明したところ、それでは水がどちらに動いて もよいではないかという質問(真の説明…エントロピー増大原理による)。
次はレンズの中心を通る光は直進すると説明したら別の生徒が、斜めにガラスに入る光は屈折する と習ったばかりですがと質問(真の説明…教科書説明は無限に薄い仮想レンズの場合の 模式的説明で、現実のレンズでは2回の屈折があって光が直進せずそのためカメラや顕微鏡では何枚ものレンズを組み合わせで直進に近くなるようにしている)。

4.
授業中騒動が大変な場合があるというので、担任の指令で「反省会」が行われる事になった。班長会でなく有力生徒の会議である。  午後最後の授業(筆者の理科)のあと生徒たちが授業態度についての反省会があるという。1-3の現象に興味を持った筆者は会議を傍聴させて頂いた…最初の写真。

 最初は「もっと静かにしなければいけないかなあ」という意見も出たが、O君が「だってあの先生の授業はつまらない。(授業中)冗談の1つもいいたくなる。」と発言。そのあと「そうだそうだ。クラスの平均が学年最高なのに少し位騒いで何が悪いか」「勉強はちゃんとやっているからいいではないか」といった発言が連続し、ついに満場一致で「反省する必要はない」という結論。困った成見氏は下を向いて黙ってしまった。そのまま解散。

 おそらく授業態度が悪くて困るとの苦情があったのだろう。常識的には勉強嫌いの「問題児」が騒ぎはじめその取り巻きが一緒に騒ぐのであるが、成見学級では成績優良なO君ややはり成績優秀な学級委員のI君らが先頭になって騒ぐらしい。
 最初は静かであるが、そろそろ大衆生徒の我慢の限界とみたリーダーがまず口火を切り、一斉に騒いでモグラタタキになる…しかしテストに出そうな重要内容だとリーダーが判断すると騒ぎはおさまるらしかった。後に成見氏と同じような指導をすれば常に見られる現象である事がわかり、今村氏はそれを回避する指導を工夫している。
 担任の目の前で担任の意向に反する決議が行われたのにも驚いたし、それを認めた成見氏にも驚く。

5.
担任の人気は絶大で、学級44人中42人が土日に担任宅に遊びに行っている。  何回行ったかわからないという生徒も少なくない。  中242/44という数字は知る限り最高である。

6.
遊び友達グループが中学2年生としては大変少なく男子2、女子3合計4であって、友達がゼロとか少数という生徒が通常の学級とは異なり存在しない。

 それらのグループ間の親しさも通常の学級と大差のある事は次の現象でわかる。演習をやるとき、優等生たちが教室を巡回して理科や数学の苦手な仲間の面倒を(グループの枠外でも)見るのだ。

7.
つまり男女混合クループがあり、クラスの4割を占めているが、そのグループの生徒はすべて一芸に秀でているか、 心理学教科書に出てくるような典型的性格を持つ個性の強い生徒であり、彼らはそれを認め合って仲良しになっている。 彼らは流行や常識を馬鹿にする傾向が強い。
   彼らの表現では「あいつは面白い…」

種々の場面で、リーダーになる能力を持つ者はたいていこのグループにいるから彼らがクラス雰囲気を支配。 「中心グループ」と筆者が命名。

 当時はソ連型社会主義社会を批判すると革新派の中で「修正主義」のレッテルを貼られる時代であり、教師が先頭になり学級委員、班長が一般生徒を率いて「授業態度を良くする」などのクラス目標、班目標などを実現するように指導するのが革新派教師の中でも常識であった。 これは強力な指導者が活動家会議(ソヴェト会議)を指導し、全国民を動かすというソ連型社会主義社会に似ている。また多くのブルジョア革命初期社会に似ているといっても良い。 やはり強力な指導者が「能動的市民」の協力で人民を支配する(だから選挙は有産者の選挙、日本の明治維新もそうだ)。

 ところが成見学級では、生徒自主管理が成立していて、生徒たちが「授業中は騒いでもテスト勉強はやろう」というような目標を勝手に作り実行する。また教科書、指導要領準拠授業のいい加減な説明(大多数の教師、指導要領作成者、文部省検定官は気付かない!)に納得せず、テスト勉強より本当の事を知る事を大切にする。
これは自主管理・市民運動の平衡型社会(新唯物論社会主義社会)に似ている。 平衡型社会の自主管理企業では個性的能力を持つ労働者が全員とまでゆかずとも何割かは存在して彼らが協力すれば企業のすべての状態が分かりあえるという条件が必要であり、そうでなければ雇われ経営者に従う事しかできず 拒否権つき資本主義企業と変わらなくなってしまう。
 成見学級では自分の個性に自信を持つ生徒の協力による学級自主管理が成立…そこまで似ている…故に未来につながる指導法だと考えられた。

 また成見氏は授業での生徒支持はあるが(氏は数教協会員)氏自身が認めるように話は下手である。 筆者も並以下だが筆者以下で特別下手の部類であろう。   故にこのようなクラスの成立に名人芸は不要で、授業で生徒に支持されていれば誰でもこのようなクラスはつくれると考えられた。 
 授業で支持がないと授業のときの弾圧が必要になり、弾圧と教師の姿を結び付ける学習(条件反射)が成立するから、教師の前では生徒たちが本音を出しにくくなり話し合いは形式的建前論になって有効な道徳教育・生活指導が原理的に成り立たないと考えられる。


 そこでどのような指導をすれば、このような学級になるのか考える事になった。

 成見氏は「どうしてこんなに面白いクラスになったのかしら」と言う。つまり自主管理成立を目標としていなかったのに、自主管理が成立したのである。
 後に近隣中学の今村哲郎氏の学級が成見学級に似る事が判明。氏の私宅にも多数の生徒が土日に出入りしていた。氏の場合も理論なしに自主管理が成立し氏の葬儀には800人近いもと生徒が参列という常識では考えにくい現象が見られた。 抜群の人気であろう。簡単なクラス雰囲気調査テストでも両氏の学級の結果が酷似し、他のクラスとは大きく異なる事がわかった。  両氏の指導に共通し、他教師の指導にない点は何だろうか。 

最も重要な指導が何かわかっていない猿真似指導ても自主管理が成立

 そこで筆者が教師になったとき、成見学級(今村学級)再現を目標とする事にした。その報告が5章引用文献にある。 ただしその報告では自主管理成立に必要と現在思われる大切な指導が書かれていない。 その指導は酒井氏行事指導及びその拡張で現在「契約」と呼ぶ指導である。
さまざまな条件での実践例 (リンク)
 今村氏勤務校では氏や藤木氏らが中心となりオリエンテーリング遠足やグループ参加式文化祭を採用していたし、成見氏勤務校では大寄英雄氏が中心となりグループ参加式文化祭や班行動行事が行われていた。 当時それらの行事をする学校は稀であった が、両校とも酒井氏勤務校から2キロ離れていない近隣校であり、酒井氏行事とその思想が口コミで伝わってこれらの改革行事が行われていたと思われる。

 当時の筆者は酒井氏改革行事を単に生徒に支持され、自治の力を強める行事と いう程度にしか理解していなかったから、酒井氏の行事指導方法の拡張版である 両氏独立工夫の指導方法、「まじめに努力するほうが楽しいような場をあらゆる局面で連続設定する」という指導法の意味などわかるはずがなかった。 

 しかし両氏の指導の意味を理解せず、真似をしただけで、2回連続して酷似クラスが成立した。
 2回とも教師と直接の関係がない生徒有志運動で小学校時代に3年以上続いてきたいじめや非行が解決し(問題児君は3学期通知表54321合計が1学期との比較で7上昇)、授業の上手な複数教師の授業では授業中騒動ゼロ・生徒発言が抜群に多く授業態度は学年ベスト1位、指導要領準拠のつまらない複数授業では学級委員や生活委員が先頭になって大騒ぎし授業態度が間違いなくワースト1位だがそれでも3学期定期テスト成績は最高となった。
 集団いたずらも授業中騒動と同じくリーダーが先頭だから職員室にしょっぴかれて説教されたり正座させられている生徒たちの中には常に学級委員や生活委員、成績優秀なリーダーがいて叱られた回数ワーストランキングの上位は彼らが独占している。 

他教師の指導要領・教科書準拠授業に登場するいい加減説明、インチキ説明に納得しない質問・食い下がり事件も登場し、学校で禁止していた3学期テスト前日の球技練習(テスト翌日にクラス対抗球技大会がある)を(教師に見つからぬように)近所の広場で行う(1例は全員参加、1例は不参加2人らしい)など、自主管理が成立している事は明らかであった。

 テスト前日に全員参加の球技練習をしてもテスト平均は最高であったのだ。 またクラス 雰囲気調査でも成見学級、今村学級と結果が酷似している。すなわち教師批判が抜群に強い一方で担任に対する親近感はやはり抜群に強い。

 前記の通信簿数字が7上昇という某君が9月タバコをポケットに入れて登校したとき、 男女生活委員・学級委員を含む7-8人生徒が筆者の前に現れ、「先生。某君がタバコをポケットに入れていました。僕たちの力でやめさせますから、先生は何もいわないでいいです」。だから担任は何もせず、他教師にも言わなかった。案ずるに担任は話が下手だし 他教師たちの体罰や長大な説教は有害な効果しかないと生徒たちが考えたのであろう。 

 指導の意味を全く理解せず何となくやっていても結果が同じという事は「指導の本質的部分が臨機応変の創意工夫を必要としない機械的指導」でありプログラム化可能という事である。 またイタズラが中1生徒の多くにとって面白いものである以上、自主管理に集団イタズラはつきものであり、リーダー層がその先頭になるのも仕方ない現象であろう。だから一番良い生徒イコール一番悪い生徒で、2番目に良い生徒はイコール2番目に悪い生徒となる。イタズラの具体例はリンクの 「素晴らしき生徒列伝」にある。 集団イタズラと授業中騒動がひどいが、そのクラス雰囲気についての生徒作文もある。

 当時の段階でも、成見氏今村氏とも「平均点より上か下かをうるさくいわず、好きな事は一生懸命やるように指導する…個性的能力を特別大切にする」点で大多数の教師と異なる事に気付いていた。 その結果「個性を認め合って友達」というグループが成立し、それが「個性を生かして援けあう同志的友達」という段階に進むと生徒有志運動がはじまるように思われた。 普通のつきあい友達グループより団結が固いから、権威や暴力を恐れない。それが中心グループである。   
 後で判明したがしばしば中1の中心グループが高3まで維持される。 団結の固い原因は「様々な特色をもつ生徒の集団」だからだ。 テストの前には数学の得意な者や英語の得意な者が他生徒を指導し、クラス対抗球技の前にはバレーボールやバスケットボールの得意な者が他生徒を指導する。 「オレはバレーボールに努力しているのだから数学に努力するアイツより数学ができなくて当たり前」という事で援けあいは常に自然発生するし、具体例はリンク「素晴らしき生徒列伝」に多数ある。 だから「誰が誰と遊んでいてもおかしくない」状況に十分近い。普通のクラス、学年では「勉強が得意な少数」「運動の得意な少数」「ほとんど特色なし・・これは多数」など、しかもそれらが「親教師・・・反教師」などさまざまな理由でわかれていて、「団結」は教師の頭の中に存在するだけである。


 成見氏と今村氏の勤務校は練馬区西部の「石泉地区」にあり、選挙では社会党共産党の票が自民党票を上回りリベラルな教育観を持つインテリ父母の多い地域であった。地域全体として業者の行う高校入試模擬テストの生徒平均得点は杉並区武蔵野市三鷹市などに劣るが都内では高いほうに属している。大泉中は越境入学生徒が1/3いて当然業者テスト得点平均が極めて高く、無指導でも個性的能力を持つ生徒がかなり多い。 

 今村氏の場合は氏が一時4つの運動部の顧問をしていて、それらの部は今村氏が卒業生や知人を頼りに集めた大学生、高校生が指導しているから、純素人の教師が指導する他校とは指導レベルが違い、当然対外試合では優勝候補、シード校になっている。また氏は生徒会顧問もしているが、当時の石神井中生徒会は生徒の要求を掲げて教師会と交渉するレベルの活動をしている(普通の学校の生徒会は御用生徒会で儀式的活動をするだけ…今村氏は校務主任つまり互選制教頭でもあり組合分会長でもあったから可能だったのであろう)。 従って多数の生徒が自分の個性的力量に自信を持つ事が可能である。

 成見学級の場合そういう条件はないがもともと(越境入学のため)学業優秀な者、一芸に秀でる者が多い上に筆者の趣味で、一部生徒に山や写真、数学などを教えていた。 山を教えるというのは、西上州の岩山など当時は一般コースのないところに連れて行って、ルート判断や危険に対処する方法を教えるのである。 写真は1通りの撮影技術暗室技術を教えるのだし、数学は1-3年以上高いレベルの水道方式教科書の独習を援けるのである…。

 講師をした別の学校では師である筆者のレベルをはるかに越え、成人してからプロ山岳ガイドになったW君もいる。 このような指導は人間の可能性を試すという意味で面白いと思うのだがいかがであろうか。
 しかしそのような個性的努力をしようという筆者の呼びかけに応ずる生徒は普通1クラスに1人か0であり、成見学級だけが多数だから、担任の指導の影響が大きい事が確かである。 だが担任の考え方だけで個性的努力をする生徒が特別多くなるという事は信じがたい。 多くなる原因があると考えられる。



契約…真面目に努力するほうが楽しい、という一般的方法


 1つは酒井式の行事であろう。 面白さ、楽しさを実現するために生徒は努力し困難な行事を成功させるから、自分に自信を持つ事になり、自分の能力の限界に挑戦しようとする生徒が多くなるであろう。 
 もう一つは、筆者が行事係となり、酒井式行事の指導をしたときやっと気付いた。多数コース希望制・臨時班による登山でも、グループ参加式文化祭でも、生徒会代表や学年生徒代表と話し合うとき、「どの方法が一番楽しいか」という話し合いが行われ、次に「その楽しい方法での問題(危険、低俗化など)はないか」「その問題は解決可能か」という話し合いになるのである。 そのとき、今村氏の実践報告を思い出した。

 今村氏の話では、練馬区立石神井中学生徒会から「校門前にパン屋があるが、昼休みパンにを買いに(校外に)出る事を許可してほしい」という要求がでたという。 その時今村氏は「先生たちがそれに反対する理由を考えるように」と答えた。 そこで生徒会本部では交通事故の対策や整然とした行動の具体的行動案を作って再度職員会議に申し入れをし、それで許可になったという。生徒希望…問題点をはっきりさせる…その問題解決の努力をする事で希望実現…その指導は酒井式行事の指導と全く同じ論理で行われているではないか。 


右が今村哲郎氏、左は石神井中学松本先生、石神井ボート池には多数の生徒ボートあり。
さらに思い出したのは、成見氏が生徒たちと話し合うとき、常に次のような定型的問答をした事である。
 「あなたがたの本当の希望、考えをいいなさい。」
 「それで責任がもてる? (何か悪い事がおきない?)」
 「責任を持てる方法を考えたら、それでいいです。」

 筆者は無意識のうちにそれを真似ていたのであった。 例えば「昼食の座席はどうしようか。君たちの本当の希望は?」「自由!」「自由で何か悪い事がおきる事がないかな。」「仲間はずれ。」「では仲間はずれがなければ、昼の座席は自由で良いのかな。」「はーい。」「では机を自由に動かして、勝手に集まって食べても良いことにしよう。 ただし一人ぽっちになる人がいたら、君たちには自由にする資格がないから出席簿順の座席の食事にする。それでいいかな。」 全員賛成。 そこで昼食の座席は自由になるというわけである。

 約束を守れば、楽しさを教師が保証する…という点が酒井氏の行事指導、今村氏や成見氏の一般的指導に共通である。 「汝生徒が契約を守らば教師は楽しい学校生活を保証する」という事だから旧約聖書にある神と人間との「契約」に似 ているという理由でその指導を「契約」と呼ぶ事にした。 契約をすると生徒は 喜んで努力をする。 前記の例でいえば、仲間はずれになりそうな生徒をどのグ ループに入れるか有力生徒(つまりグループの親分格の生徒)同士の話し合いと なり、結局親切な生徒のグループがいじめられっ子を入れてくれる。
座席指導 (リンク)
いじめの原因について (リンク)
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今まではそのいじめられっ子に関わりを持つと自分も被害者になるおそれがあるから、親切生徒も手出しできなかったのであり、今回は「みんなのため」という大義名分があるからその子を入れても大丈夫という事になる。 以後いじめの程度はずっと軽くなる (イヤな顔をする程度になる)。 後ろ盾ができたからだ。 親切生徒グループ以外の生 徒だって努力している。 不満を弱い者にぶつけず、我慢するようになるのだ。

 契約を繰り返すと、反教師派が消えてしまう一方、努力が当たり前となり「真面目に努力しているように見えるとカッコ悪い」という大多数生徒の常識が消滅する。 それが「公然と真面目に(いろいろな方面で)努力をする」生徒が多数派になり、その生徒たちが似たもの同士でグループを作る条件ではなかろうか。

 競争主義では大多数が敗者となるから、圧倒的多数の敗者の中では勝者も「オレは勝者になろうとして真面目に努力などしてはいない」と言い訳をせざるを得ないであろう。 敗者も敗者である事を「オレは真面目に努力しないから敗者なので自分が低能なせいではない」と合理化しなければ精神の安定が得られない。それが「真面目な努力はカッコ悪い」という圧倒的多数の学校・学年・学級で浸透している生徒思想である。 

 つまり、酒井式行事、契約という指導、多元的価値といろいろな方向の努力を認めようとする教師の宣伝、の3つが重なるとき、自主管理クラス(学年)が成立する可能性が高いという事になる。

 契約という方法は「アメとムチ」ではないかといって反対する教師は少なくない。「面白くてわかる授業」 「楽しい昼食」「行事も楽しく」…など生徒の要求はアメの要求なのか。 子供を含む人民に幸福を追求する権利がないという独裁者の思想であろう。
 また 「契約」は制限つき自由の指導であり、管理主義的要素があると反対する教師もいる。 自由は上から恩寵として与えるべきなのだろうか。 贅沢三昧に育った子供に問題児が多い事は誰でも認めるであろう。 自分たちの努力・運動を通じて自由が拡大するのでなければ、自由の意義を理解せず破壊的行動をする生徒があらわれて当然だろう。そして結局管理的指導となり生徒が不自由となる。
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トランプ指導 座席指導(リンク)
無競争集団主義の進路指導 (リンク)
 つまり契約なしの自由を推進する思想は「現在の矛盾をなくした結果生ずる新しい矛盾」を考えない主観的観念論なのだ。

 つまらない授業での授業中騒動を回避する今村氏の方法は次の通り。生徒の希望は授業中も自由座席…それでは騒動が大変となり成績低下という事になるという話し合い。   
 そこである程度不自由な座席とし、2--1月たって騒動がみなで決めた基準以下ならより自由な座席とし、どの程度の自由化が良いかは教師と生徒が話し合う。それを繰り 返せば完全自由座席になっても差し支えない」という契約を生徒全員とする。成見氏実践や筆者の初期実践では授業中座席が「仲間はずれなし」という条件だけで授業中騒動 については無契約の自由座席であった。 今村氏は校務主任(互選制教頭)と組合分会 長を兼ねていたので、生徒から見れば「静かに聞くのがつらい」という指導要領準拠授 業をする教師に配慮する必要性が特に大きかったと考えられる。

 以後の実践は「手抜きをしても自主管理が成立するか」という調査であった。 実際に手抜きをしなければならない場合が大変多いからである。 
 「契約」はたいてい可能であるが、酒井式行事は教師説得が大変で、一部の行事ができない事も多い。生徒を自由にすると何がおこるかわからないと保守派が 反対する一方、革新派が「民主的行事」には他の方法(教師直接管理下の形式的班行動や全員一律行動押し付けというソ連教育学準拠の組合宣伝行事)があると反対する。ま た酒井氏の原型行事の一部は行事担当者が夏山ガイド可能・国土地理院地図の訂正可能という能力が必要であったから、そのままでは大抵の教師が実践できない。
 昔と違い航空写真から地図を作るので地形は信頼できるが、空から見えない森林の中の小道の記入はおそろしくいい加減。オリエンテーリング地図を作るには1.5-2キロ四方 30-40箇所の訂正というのが相場である。 昔は人間が歩いて地図を描いていたので、奥地では尾根が一本足りない事もある一方、道書き込みの信頼性は高かった。ウォークラリ ーのほうはある程度アバウトな地図でも使用可能である。

 また生徒一人一人の個性的能力を発見しそれを伸ばすという指導は、教師の得手不得手の関係で、普通は多数の人々の協力が必要になる。 筆者の場合、体育教師の助言を得る必要があった。「この生徒はこの部活で部以外の普通生徒よりうまくなれそうですか?」 理数の好きな生徒に対する微積分の指導、帰国子女の外国語指導(これをやらないと半年か1年で語学を大の苦手とする筆者より下になる)とか、碁・将棋の定跡指導、登山知識や写真指導…のできる教師は少数である。また指導時間の問題もある。多数の社会人が教育に参加しないかぎり指導には限界がある。

 典型的な無競争集団主義から一定の手抜きをしたら結果はどの程度だろうか。

 この個性的能力の指導は分裂気質の生徒(1クラスに1-3人)の場合特に必要である。 関心の範囲が狭く深いから、他人と話が合わない変人であり、優秀な能力と3歳的知能が同居している事が多く、一面だけ見ると誤解しやすい。いじめの被害者の大多数がこの先天的性格の生徒である。同じ事を退屈せず徹底してやるから分裂気質の人間は科学者、芸術家、技術者、名人芸の職人、棋士…などに向いているとされる。 そうだとすれば生徒時代も一芸に秀でる事によって生徒仲間に認められるようにしてやるのが合理的であろう。数学が特別できるようになれば、他生徒に数学を教える事で生徒たちの仲間に入る事ができる。碁や将棋であろうが、園芸であろうが…何か好きな事ではたちまち抜群の能力を身に付けるから、それで生徒仲間の中で一定の役割を演ずるように指導すべきであり、平均的生徒を目標にした指導は本人にとって大変苦しい指導である。 全く関心がなく知的障害者並みの能力しか持っていない方面での努力を強制されるからだ。 分裂型気質の生徒は宝くじのようなもので当たると大きい(例えば筆者の指導で中学時代に数学高校水準を抜いた生徒は例外なくこの性格)が、何が当たるかの判定が難しく、同じ分裂気質の筆者でも指導はやさしくない。 いじめ克服が簡単にできた理由は一方でこの指導があり、他方では「いじめをなくす会」の有志運動が発生するからである。  登校拒否になる生徒は非行生徒でなければこの先天的性格の生徒である。酒井式行事と無競争集団主義がある程度学年で取り入れられると、生徒大集団を腕白坊主お転婆娘タイプ(つまり教師べったりでなく問題児と話のできる餓鬼大将、女餓鬼大将タイプ)のリーダーが統率するようになり、登校拒否も非行も発生しなくなる。

  2.3年から採用の場合と学年である程度採用の場合

 1年からの個性を伸ばす指導では、生徒の半分かそれ以上が部活動に頼る事になる。2.3年からでは部活動に参加しても、まわりの友達よりうまくなり自分に自信がつき他人からも評価される…という状態にはならない事が多い。つまり23年からの指導では個性を伸ばす指導を全員に対して行う事ができない。
 選択授業というのがあるが、指導要領準拠の普通授業に慣れた生徒の過半数は勉強が嫌いだから、好きな事での個性を伸ばすという意味からはほとんど無意味であり、通信簿に点数がつかないという点が気楽で強制された努力のない時間だという事にすぎない。
 だから酒井式行事と契約に頼る指導になるのだが、その結果はどの程度だろうか。

 いじめの克服はよほど大荒れの3年でなければ容易であった。 しかし暴力阻止とか非行生徒とつきあってよくする運動の成功率は5割程度になる。 ただし通知表54321の合計が4以上上昇という前記基準で評価した場合であり、教師仲間の直観的基準なら良くなったという評価をされるのが普通である。

 非行生徒とつきあう運動発生の必要条件は、友達グループが非行グループより大きくなり暴力をおそれる必要がないという事であるから、1年のとき担任をした場合なら5月に運動がはじまるが、担任をしていなければ9-10月からの運動となる。 担任をしていれば旧担任生徒は非行グループの暴力をおそれないから (旧クラスの仲間がいる)すぐ運動が始まると考えられる。だから成功率は1年担任をした場合のほうが高くなる。 運動は「学校で遊ぶ」段階から「家に押しかけて遊ぶ」段階に進み、「争奪戦に勝つ」段階(運動グループの遊び仲間になってしまう)、「成績回復」の段階(それ以前から成績が上がり始めるが4上昇はかなりあと)となるから、時間がかかる。

 昼食座席や授業座席を条件付自由とするのでなく、不自由座席にしているのは友達グループの成長を妨げる指導であろう。もちろん友達グループ成長を阻害する基本的原因 は「親教師…反教師」「部活動熱心…部活動不参加」「勉強嫌い…勉強家」などの対立であるから、生徒に支持される授業、酒井式行事や契約、多元的価値宣伝でこれらの対立を弱めるようにする。
 具体的な例はリンクに多数ある。例としたのは、さまざまな条件で実践を分類した上、すべての分類例で筆者担当の最後の例であり、特にうまくいったという例ではない。 だから客観的な成功判定条件に合わず失敗例に数えた実践も入っている。

 学年主任になって担任をはずれたり、60歳になって嘱託となり担任ができない場合は、もちろん個性を伸ばす指導がほとんどできなくなる。 その場合でも「15月に2つの大規模いじめ事件・7人家出、1/4の生徒が6年生崩壊クラス出身」という状態からはじまった大変な学年でも毎年問題児が半減し、3年時では市内中学で一番問題が少ない」という状態にはなったし、普通の学年なら3年で知られた非行やいじめゼロという事になった。 教科書や不良自主教材の欠陥を突く質問、発言も少ないが出現した。
 最後の例は、電池と抵抗1つの単純な回路で、「電池のマイナス側(プラス側)と抵抗のマイナス側(プラス側)は同じ電位なのに電流が流れるとはおかしい」というもの。

 だから個性的能力を伸ばす指導がほとんどできなくても、かなりの成果は期待できるといえよう。 例は後掲リンクにある。 多元的価値の宣伝は競争主義に苦しめられている生徒の苦痛軽減のため話だけの指導は一応しておく。人気教師がそういっているという安心感が生ずるであろう。

 また学年教師の多くが保守的(「ウヨク」つまり極右を連想させる教師までいた)であり、酒井式行事が全くできない事があったが、1年から契約と個性を伸ばす指導を徹底してやれば、生徒運動による非行克服や暴力阻止、いじめ阻止ができている。 ただし教師がノータッチとまではゆかない例があるが、後掲リンクにその例がある。

 現在、酒井式行事の指導、契約の大多数はプログラムとなり純機械的指導になった。 教師の創意・工夫や努力が必要なのは、個性的な能力育成だけである。 生徒の個性はさまざまであり、その指導だけはプログラム化が困難だ。




2008
追記  .集団主義など全生研の推進した指導方法の評価

指導の成功する条件
 「大衆生徒の要求が教師の要求とはじめから一致し生徒の団結だけが問題」というのが、成功の条件であろう。
 1960年代に「集団主義」指導の成功例が多く報告されたが、当時多く存在した横暴な餓鬼大将の支配をなくす場合には上記の条件が成立している。 また「非行克服」実践において「暴力生徒の支配をなくして、教育現場の秩序を回復させる」場合にも成果は喧伝され映画まで作られた。やはり上記の条件が成立している。 ただしこの場合、正確に言えば、「非行克服」でなく「荒れた現場の秩序回復」であり、非行生徒がいなくなったわけではない。

 たいていの場合は教師の考え方や要求と生徒の考え方や要求が一致していないから(本文にあるような苦しい指導要領準拠授業の我慢問題など)、熱血教師の訴えは生徒から見ればただの建前論で、「討論」と称するものは教師の考えを押し付けただけであり本当の支持はないという茶番劇となる。 生徒支持が薄いから担任の家に大多数の生徒が何回も遊びに行くとか、教師をやめる時生徒有志主催の送別会が行われ大多数の生徒が参加するとか、葬式に800人近い元生徒が参列するといった現象は絶無である。

行事改革
 集団主義の指導がうまく行かずクラス崩壊が見られるようになってから、全生研が宣伝するようになったのは行事改革である。酒井氏創案行事から出発したのだが、「現在実現できる方法で一番面白く、楽しく、各生徒の興味に合う方法は何か」「その実現にはどの程度生徒の努力が必要か」を明らかにし、生徒の圧倒的支持、各生徒が勝手に努力する事を前提としても今まで困難と考えられてきた行事を実現する」という方法論は消し去られ、教師の理想を直接生徒に示し、すべての生徒活動を教師の管理下に置き先進的生徒に教師の指導の補助をさせる方法に変更された。 
 その改革行事は組合を通じて全国に普及したが、行列遠足や100%教師お仕着せの学習発表会のような伝統的行事よりは楽しいから、生徒にある程度歓迎され、指導がよく入るという事で普及した。 普及という点で全生研の功績は認めなければならないが、原型行事とその思想の普及を妨げたというマイナスもある。 

「許容」という考え方
 問題児の考えを直ちに否定し問題児を説得するのでなく、一応彼らの言い分を聞くという方法である。 集団主義の指導が全く通用しなくなった90年代に発生したのではなかろうか。 同じ方法は同じ頃、仮説実験授業研究会でも発生しているし、カウンセリングでははるか以前から採用されていて、新しい要素は何も無いと考えられるから、いつこの方法の宣伝がはじまったのかの調査に意味があるとは思えない。
 問題はこの一時凌ぎから出発してどう現状を変えるかという事である。問題児を取り巻く環境・力関係を変えて、彼らが自動的に、自然に考え方を変えるという方法が抜けている。 そのような方法は実践例に詳しいが、教師に対する生徒の圧倒的支持や生徒の「援けあいが自然発生」「校内暴力の実力阻止可能」というレベルの生徒団結が前提となる方法が多いので、一時凌ぎである事はわかっていても、一時凌ぎでない方法を考える事は不可能であったと考えられる。

どうして一時、班競争やポロ班批判が行われたか
 当時から、チャイム着席などでの班競争は「社会主義的競争」に似るし、それで成績の悪い「ボロ班」批判は人民裁判に似る…全生研はスターリン的だ…という批判は少なくなかった。
 しかしソ連共産党大会でのスターリン批判が有名になりスターリンが独裁者であり誤りだらけである事が革新派の常識になってから班競争やボロ班批判という方法が登場したのであるから、これらの方法はスターリン崇拝から発生したものではなかろう。

 スターリンの議論の特色は、人民一人一人の意識や闘争の力関係が絶えず変化する事を考えない静止的思考がしばしば出現する事、まず副次的要素を思考の中からはずした上でもっとも基本的要素だけ考え結論を下すという粗雑論法が少なくない事、それからレーニンの議論は絶対的に正しいとする事であろう。

 仮りにレーニンが全知全能、完全無欠でその主張は全部正しいと仮定(この仮定は唯物論違反)しても、その「正しい」主張の中にはレーニンの時代だけ「時代の特殊条件のもとで正しい」場合と、「いかなる条件でも正しい」場合が論理的にはあり得るが、スターリンは理由ぬきで後者だと断定する。 科学は実験、観察によって検証される仮説の集合であり、「いかなる条件でも絶対正しいという体系」の主張は宗教であるから、スターリンは唯物論を科学の一分野から宗教に変えたといえよう。
 スターリンの著作では、支配階級や保守的右翼的思想を、歴史的条件に規定されたヘーゲル的合理性をもつ存在として客観的に見るのでなく、サタンとして扱う傾向が激しいように思われるが、その点は論証を要することである。 キリスト教の影響と見るべきなのか、ソ連孤立という現実の影響なのだろうか。 聖書を宗教心なしに読むと、ユダヤ教は一神教であるが、キリスト教はサタンを悪神とする二神教のように思われるがどうであろうか。

 教師が生徒の先頭に立つ、すなわち教師が学校社会の中の活動家として生徒大衆を導く事が「いつでも可能」という思想は、教師と生徒の間の矛盾を無視するという単純化を行ってから議論をはじめるのだからスターリン式議論である。 またソ連教育学を革命期にだけ合理的な理論体系という可能性を排除して、いつでも直接集団を教育する方法が正しいとする議論もスターリン式議論である。 レーニンを神とするスターリン製作宗教の姉妹品で、クルプスカヤやマカレンコを神とする宗教であろう。

 スターリン時代には筆者を含む大多数の活動家がスターリンの著作・論文を通して唯物論を学んだので、思考構造がスターリン式で当たり前だった。 スターリン批判のあとも、スターリンの独裁だけを感情的に批判し、独裁の基礎となったスターリン著作・論文の粗雑論法や唯物論違反を批判しなかった人々は、「スターリン批判のあとでスターリン式の主張をし、スターリン式の実践をするという喜劇を演じた」という事であろう。
 ただしスターリン理論を批判した当時の人々の多くがトロツキーその他の革命家の著作に飛びつき、スターリン以上と思われる粗雑議論の末観念論・戦術極左になって自滅した事や、全生研を批判した人々のかなり多くが観念論・不毛な無原則的自由主義へという道を辿った事もつけ加えなければ不公平であろう。

 教育理論がスターリン哲学のレベルであったため、全生研内部で85年の川辺実践(クラス行事を多くし、多数の生徒に活躍の場を与える)のような前進的要素を含む実践がでても…そのままでは教師が多忙になりすぎるし、また教師が特別優秀でないと成功しそうもないから理論化によって実践の中にある多数の部分を切り捨て一部だけ膨らませる必要がある…その実践の意義を「自治を高める」形式の一種としてしか評価できず、実践家のすぐれた創案を無駄にした事も付け加えるべきだろう。

新唯物論と古典唯物論
酒井一幸氏の中学校行事改革
水泳大会指導プログラム
コース自由道草自由遠足指導プログラム
多数コース希望制で臨時班による行動の林間学園
文化祭指導プログラム
トランプ指導
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無競争集団主義の進路指導
素晴らしき生徒列伝
さまざまな条件での実践例
いじめの原因について
自主勉強論

理科授業論

 問題児とつきあって良くする運動の指導方法