現在は遠足や修学旅行などで班行動を採用していない学校が珍しい。公立中学最初の班行動行事は酒井氏の発案(1959)である。
氏の勤務する東京都保谷市(現在西東京市)ひばりヶ丘中で「コース自由道草自由遠足」「目的別班行動の登山」「班行動見学式の修学旅行」などが順次行われた。
---グループ参加式文化祭も氏が最初だと思われるが資料が残存していない。
1959以前は行列遠足、教師主導の文化発表会、軍隊式整列行進の登山、パック式修学旅行が行われていて、班やグループ単位の行動が行事に取り入れられたのは公立中学最初であろう。教職員組合図書館にある教研集会実践レポート(全国、東京都)、雑誌、単行本に氏の実践より早いものは存在しないし、また10年前後遅れて登場した池上氏や桐ヶ谷氏の実践、また現在普及した班行動行事とは以下のように根本的な違いがある。
氏の考案した行事は、「現在実行可能な行事では最も生徒にとって面白い形である事が生徒にわかる」という特色があり、「生徒の積極的支持と努力を前提として、当時の常識では困難とされた行事を行う」ものであり、その楽しさ確保のために班行動が採用されていた。
一方、現在普及した班行動行事は「生徒自治の訓練」と考えられていて必ずしも生徒に支持される形になっていないから、生徒の圧倒的支持はなく積極的行動もほとんど見られない。 当時の革新派内で流行したソ連教育学の考え方によって,組合を通した普及の際内容に大きな変更が加えられたと考えられる。
例えば後記するコース自由・道草自由の遠足は教師の直接管理下で生徒が同一の行動をする1コース班行動遠足に変えられてしまった。しかし酒井氏実践が口コミで伝えられた近隣の学校では、酒井氏の実践と教育思想が比較的忠実に伝えられ、酒井氏の行事改革の方法が行事以外の指導に拡張され、種々の有効な新指導法が発生する。
酒井氏や後継者の仕事は少数派の仕事であるからほとんど活字になっていない。 だから資料として当時の校内資料(職員会議資料や生徒学級委員会資料、生徒作文など)が残っている場合のほかは、氏や他教師の証言(しかもその一部は本人死亡のため現在まで筆者の記憶していた証言という間接的資料)に頼るしかない部分が多くなり、記述された事実の信頼性が問題という部分が残るがやむを得ない。 当然ながら、証言と当時の資料内容が矛盾する場合(50年近く前の記憶だから少なくない)は資料のほうを優先した。また氏の初回実践よりはるかに後の実践であっても出版され活字になっている実践報告や校内資料が残っている実践は記載した。
主要な資料は酒井氏が保谷市教育委員会「ほうやの教育」60年度のために報告
を書いたが長すぎると掲載を拒否された原稿(以下報告案と呼ぶ)、及び全校または学年の職員会議資料(教務係である酒井氏の提案)、および当時の生徒作文である。
保谷市(現在西東京市)ひばりが丘中学1学年の春の遠足は「時間差をつけて出発する1コース班行動」遠足であり、公立中学での班行動遠足としては日本最初であった。
コースは埼玉県奥武蔵の丘陵地帯、高麗→日和田山→物見山→東吾野というコ
ースであり、時間差をつけて班毎に出発させた。 地図としては5万分の1地形図の他に分れ道のある地点の絵図(絵図は現存しない)が与えられた。
時間差がどれだけかの資料は残っていないが、生徒作文に「道を間違えた」という内容がかなり見られるので、「班がくっついて行列遠足と大差がない」という状況ではなく、生徒は班毎にかなりバラバラになっていてかなりスリルのあるものだったと推定される。 「休憩も食事も班で場所を決める」とした。行事での班活動は現在普及しているが当時の常識的班活動とは異質な班活動である。当時は「班活動」といえば当時の「生活指導」誌や教研レポートに見られるように、チャイム着席競争など建前論にそった班競争や班会議が常識だった。
少なくとも遠足・林間学園について酒井氏は59年春現在の時点で全行事を変える予定だった事が後掲の職員会議プリントから知られる。また以後の氏実践では1年の春からウォークラリーかオリエンテーリング、つまりコース自由・道草自由遠足が採用されている事から見て、1コ−ス班行動遠足は「班行動式遠足でさえ日本最初」という事で氏に自信がなかったか同僚や校長の心配対策としての中間的行事であったと考えられる。
当日の行動について同僚だった若林京子氏は
「酒井さんは生徒が間違えて入りそうな道に先回りし、"かなり行ったところに警告テー
プをつけた。だから酒井さんは他教師の2倍歩いた」と証言している。以後の行事では
2倍歩き・警告テープがなくなったから、班単位の山中生徒行動の全国初回実践で成功するかどうかの心配(迷子続出の心配)があったためというのが理由であろう。酒井氏は早稲田大学山岳部OBであるから、歩行距離・速度が他教師の2倍でも困る事はない。
氏は多数の生徒から「オッチャン」と親しまれ、山好き生徒からは「仙人」と呼ばれた。岩場・急傾斜地を歩くスピードが人間のレベルではないからだという。「酒井大仙」という西遊記に出てきそうな敬称?もあった。
1960年5月8日の狭山丘陵でウォークラリー遠足についてはかなり詳細な記載のある資料が残っている。前年班行動遠足をした学年(2年)である。
(リンク)最初のコース自由・道草自由遠足地図
東村山諏訪町-20分(最短距離ならば)−白十字サナトリウム第一関門−25分−久米水天宮第2関門−40分−荒幡富士第3関門−60分−狭山公園というコース。現在は平らなところだけでなく斜面にも住宅地が広がっているが、当時は雑木林と田畑の地域であり現況とは著しく異なる
(リンク地図参照)
。報告案では次のようになっている。
「a 日常の生活班によるラリー形式とする
b 関門と関門との間は自由にコースを選ばせ、班の持ち時間を楽しく使うよ
う計画させる。
c 学年を5つの集団にわけ。時差をつけて出発させる
関門に時間内に到着すれば良く、事故は関門で連絡、ハンディトーキーで救援がかけつける。到着しない場合は教師の捜索隊が出る事とする。 教師分担。 総務1会計1 観察4 パトロール2 救護2 自動車2台。 ハンディトーキー4
台。学年教師会で『迷子』『班行動中の問題』『事故の後始末』の議論をした。」
「事前にコースを知らせない」「次の関門までとその周辺の地図を渡す」 「班
単位の出発、休憩、食事。 食事の地域はバス毎(5つの集団あり)に指定。 班
の係り分担…会計、救護、記録など全員分担。」
班の持ち時間を楽しく使うとは、長い休憩も道草も自由で到着時間に間に合えば良いという意味である。 5グループの出発・到着の時間差は20分づつである。
「企画の一部に生徒を参加させる」と報告案にはあるが、指導計画を見ると最初の生徒学級委員会4月21日(火)は「遠足のねらい、実施形式を理解させ、乗車割り当てやもちものを決めさせる」とある。
だからどのような遠足にするかと
いう基本的企画は生徒参加でなく、乗車割り当てや持ちものの検討を生徒にさせ
たのが「一部企画参加」である事がわかる。 22日の班長会ではどんな係が必要
かという議論が行われ、24日の班会議では係分担とおやつについて相談とある。
当時は庶民の生活水準が低かったので、おやつの共同購入が安くなるという理由で行われたと解釈できる。
1979年以降の実践で基本企画まで学級委員会やクラスで審議されるようになると、行列遠足、1コース班行動と並列の選択肢を示した場合、ウォークラリーに圧倒的支持が集まり、次に記すオリエンテーリングの場合と同じく97-100%の支持率となっている。 生徒の裁量範囲が極めて広く、また生徒にとって冒険だから面白いという要素があるからだろう。 支持しないという少数生徒は「どの道をゆくか班員の意見がまとまらない場合は班長に従う」という点を問題にする生徒で「そんなに信用できる親切で考えの深い人はいないから班長の選びようが無い」という理由で支持しないのであり、遠足形式そのものを支持しないのではない事もわかっている。 1960年段階でも生徒の支持は大変強かったと考えられる。
(リンク)コース自由・道草自由遠足の指導プログラム
この遠足方法では、鎌倉、横浜、川越などで行われる班行動見学の遠足と教員負担は変わらない。 遠足指導も伝統的遠足より1日余計なだけだ。
伝統的指導では学級委員会1回のところが、どのような遠足にするかという委員会、次の日のクラス会、クラス会の決議またはクラス全員の投票結果を持ち寄り遠足形態を決める委員会となり、1日よけいになる。
地図についても当時は誤りのかなりある地図しか入手できなかったが、現在は市販されている電子地図が空から見える道については十分正確であり、林の中の道も現在は各所に絵図があり写せば良いから地図訂正のできる登山ベテランは不要である。最近修正のオリエンテーリング協会地図があれば理想的であろう。
地図の確実な訂正ができるのは地図記号を知る教師でなく、地図を見た瞬間現実の地形が想定できるベテラン登山者の教師である。
それなのに都市内の班行動ほど普及していない原因は、大多数の教師、教育学者が生徒の積極的支持、積極的行動を問題にしないからだと考えられる。 山中ラリーでの班行動は都会での班行動と違って冒険が面白いから生徒支持が強く、迷子の危険を避けて楽しさを確保するため生徒が積極的に行動、教師に対する生徒支持強化という面があるがそれらは無視される。
酒井氏はどのようにしてコース自由道草自由という遠足を考えたのだろうか。班行動、小グループ単位の生徒行動という考え方は当時流行した集団主義から学んだと考えられる。勤務校やその近隣校に集団主義を推進した全生研の有力会員(代表的実践家)がいるし、集団主義は組合で宣伝されたが酒井氏は単なる組合員でなく組合代表(都教組保谷地区協議長)をつとめた事がある。
氏は班競争など集団主義の教育そのものには反対であった。 集団主義の教育そのものは生徒の総スカンを食って学級崩壊に至る事例が次第に増え、90年代に支持者が消滅したが、集団主義にある「班、小集団を基礎として生徒の力を結集する」という方法は酒井氏によって継承採用され、班行動行事という形で今日教師の常識となるまでに普及したといえよう。
生徒にとって最も面白い方法を常に採用するという考えは、氏に直接聞いたがどうして成立したかはっきりしない。 氏が生徒時代に遠足脱走事件(わざとコースを外れて好きなところに行き、帰りに遅刻した由)を経験している事と氏が生徒を山やスキーに連れてゆく教師であったという事情すなわち個人的に親しい生徒が多数いて彼らの希望を聞く機会が多かったという事情が生徒希望を最大限尊重するという考え方のもとになったのではなかろうか。
氏が生徒を夏休みに連れて行った山は南アルプスや八ヶ岳のような高山でなければ東沢(中級コース)、鶏冠尾根(上級コース)などの一般登山者には困難なコースであり、また日曜に連れて行った奥多摩奥武蔵の低山も海沢を一部遡行してから(大型の滝が3つ見られる)わきの小道に上がるなど一般的でないコースが多かった。 だから氏は体力的困難(高山)、技術的困難(難コース)を乗り越えて生徒が喜ぶ姿を見慣れていた事になり、心理学専門家の託宣などなくとも子供というものは冒険が大好きで困難を乗り越えると満足するという事を十分知っていた事になる。 夏休みや日曜、生徒たちに冒険を始終体験させていたという事と、遠足を全生徒の冒険にするという事との距離は小さいであろう。
残存資料のある酒井氏実践では埼玉県飯能朝日山1974年東久留米市立南中が古いが、70年代初頭に近隣中学で類似実践(練馬区立石神井中学の藤木達三郎、今村哲郎両氏中心)が行なわれているので、真の初回実践は60年代だとしておく。 現在朝日山は住宅地になってしまったが当時は山林であった。
氏や旧同僚教師の証言でも記憶不鮮明のため初回実践年度の確認はできず、残存資料による確認もできないので藤木・今村実践が公立中学で最初という可能性を否定できない。ただしその実践はコース自由とはいえ、ポイントがすべての班で共通であり班に時間差をつけて出発させたのであるから、酒井実践に比べればスリルが少なく生徒支持のやや劣るものだったと思われる。 両氏実践が最初なら先駆的意義があると考えられるがその実践の残存資料もなく両氏の話を当時聞いた筆者の古い記憶だけがすべてなので両氏実践のほうも年度確定ができない。聞いた当時は酒井実践を知らなかったのでそれとの関係を両氏に聞かなかった。 また前記のように酒井氏と藤木氏は面識があると酒井氏が証言している上、職場が近く(2キロ弱)、酒井式の文化祭を藤木氏今村氏の勤務する石神井中では採用し(60年代末からだと記憶)、同中学では他の行事も班行動式だったと両氏が述べている(その内容は記憶していない)のでオリエンテーリング遠足でも伝播関係があると想定されるが、今となってはどちらから伝播したか確実な判断は不可能である。なお藤木氏は都教組新聞に自分は組合のストライキ全部に参加して校長になったという記事を寄せた人物。今村氏は映画監督今村昌平氏の兄で後記のように近隣校の成見克子氏と共に「契約」という一般的指導法を発見し無競争集団主義の最初の実践者となった人物である。
1コース班行動遠足にクイズを足した「オリエンテーリング」と称する遠足とは異なり、本物のオリエンテーリング競技と似て、冒険とゲームの面白さを兼ね備えた遠足である。当然生徒の支持は極めて強い。
生徒班毎に異なるポイントが指定されるので、当然コース自由、休憩自由、道草自由となり生徒は山中で班毎にバラバラとなる。 班長に渡された地図には7つの赤印があるが、文字を書いた旗は多数あり旗の大多数は他の班のポイントという事になる。 生徒は班長に与えられた地図赤印の地点の旗はどれか判断し、旗の文字をカードに記録する。 正解数を得点とし、クラス合計を競うクラス対抗競技である。
ポイント群は6種類であり、各クラスに同じ問題群を割り当てる。 問題1は
A組1班、B組2班、C組3班…に与えるが、1班と2班は5分時間差をつける
ので、同じポイントの前に班が集まる事はほとんど無い。 また6(班)×7(ポイン
ト)で42の旗が要るようだが、実際には26である。 出発地点から遠い旗は生
徒の到着時間の幅が大きいので班共通になっていても問題ないからである。
本物のオリエンテーリングと同じように時間を競うと、生徒が山を走って事故のもとになるという理由で、決められた時間内に集合地点に戻れば良いとする。
遅刻は減点。 決められた時間までに帰れば良いのだから、時間に余裕のある班は川原で遊んでいてもよい事になる。
このオリエンテーリング遠足も生徒支持絶大であるが、山のベテランが必要という大欠点がある。 一般的には地元山岳会員の協力が望ましいであろう。
(リンク)最初のコース自由・道草自由遠足地図
(リンク)コース自由・道草自由遠足の指導
(プログラム化されている) オリエンテーリング用の地図が市販されていた朝日山が住宅地になってから、埼玉県
高麗清流地区や北向観音付近で行われたが、オリエンテーリング範囲である1.5-2キロ
四方の範囲で国土地理院地図の誤りは30箇所以上あり修正が必要になった。 オリエンテーリング用地図の作成は登山地図も指導標もない山を歩ける(国土地理院地図の道は不正確だが地形は正確だから地形から道、ルートの誤りを判断)山のベテランでなければ困難である。 オリエンテーリング地図が入手できても、山の深い場所に旗をつける係は
ある程度地図に強い事が必要になり、その実力を持つ教師は1割程度であろう。
後掲リンク「コース自由・道草自由遠足のプログラム」にある班長地図は2000年に高麗清流地区で行われた時のもので、74年の班長地図は残存していない。
仮説社「行事おまかせブック」に1984年に埼玉県武蔵嵐山で行われたこの形
式の遠足が掲載されていて、2004年にもその場所で行われている。後掲リンク「コース自由・道草自由遠足のプログラム」にある武蔵嵐山地図は2004
年に使用された地図であるから、2006現在も使用可能であろう。
このように生徒に大幅な自由を与える(酒井氏は「日本一自由な遠足だ」と生徒に宣伝したそうである)と、規律の低下や迷子事故が問題になる。 それについての氏の考え方や完成されたコース自由道草自由遠足(ウォークラリー、オリエンテーリング)での事故対策は次の林間学園での事故対策、仮説実験授業、契約の理論
と関係があるので後記とする。
酒井氏は「クラブ活動」と称する多数コースを設定し、コース希望者により臨時班を作っての山歩きを創案した。 目的別コース・コース希望者による臨時班行動である。この方式の詳しい報告は勤労者山岳会機関誌「山と仲間」1986年9 月号10月号に北八ヶ岳での実践が掲載されている。 (リンク)最初の多数コース選択・臨時班行動に使われた地図
学校での山登りというと、1コースの軍隊式行進か、体力の劣る生徒用コース
を全体行進用コースの他に設定する差別主義的2コース登山が普通である。 班行動の場合も1コースが普通であるから、生徒の体力や趣味好みによっては苦しい山登りになってしまう。
コースを3つ以上とし、上記報告のように鍛錬、地形観察、植物観察、絵、写真、俳句…などとすれば、体力は希望コースを決める条件の1つにすぎなくなる
から、劣等感、格差といったものは生じない。
生徒の支持は絶大である。 支持絶大でなければ、近隣他校のコースより2時間以上も長い「鍛錬」コースを6-7
割生徒が班行動で歩くという行動は正気の沙汰でない。 班長は夏山リーダーとして最低限の知識(現在の大多数登山者、教員よりレベルがはるかに上)を積極的に学習しなければならず、班員は議論のあとでは班長指導に従うという規律を守らなければ安全性は確保されない。 女子の荷物の一部を男子が持つ(鍛錬コース
は女子多数の体力限界に近い事を教師が告げる)、歩くペースの体育学学習、疲労した仲間の見分け方学習、協議の上での班長指令に全員従うという規律(班長に優秀で親切な者を選ぶ事も含まれる)、積極的地図学習などが必要になる。
生徒討論に際して、この方法では厳しい学習と規律が安全確保のため絶対必要だと教師が告げても、軍隊式行列登山や1コース班行動に賛成する生徒は皆無かそれに近く、この方法は常に支持された。 つまり生徒は大きな努力が必要な事を知らされても楽しいほうを選択し、実際に一生懸命努力する…これが酒井氏の原型行事が普及した行事より決定的に優れた点である。
この方法の最初の実践である群馬県榛名林間学園では、(60年の校内配布資料)では2日目にクラブ活動と称して「フォークソング」30名、「登山」21名、
「釣り」17名、「写生」17名、写真」17名、「植物」19名、「探鳥」17名、「天
と地と(雲や岩石の観察)」19名、「詩歌」14名となっている。 1970年度の校内配布資料では「1日目温泉街は2列山路は班単位」とあるので、60年の実践で
もクラブ内班行動(コース希望者による小グループ行動)が行われたと思われる。 リンクの榛名地図にクラブのコースが記入されているが、この図は何年度のものか不明である。
最初に「一人一人が自分の係りとしての仕事と、この時間の範囲でできるかどうか検討して下さい」「自分の林間生活がこの時間の組み方でできるかどうか考えてください」「修正意見は委員長(「林間実行委員長」を指す事がまわりの文からわかる)がまとめて下さい」と書いてあるので、コースだけでなく日程、内容すべてが、「林間実行委員会」を通して生徒討議にかけられた事がわかる。
生徒プログラム委員会があり、「渡されている資料を使用、又は活用して計画、
または修正をした。 集合、開会式、ミーティング、クラブ活動(多数コースの事)、
キャンプファイアー、の内容を決める」と「想い出の榛名」という生徒文集にあ
り、その文集からもコース以外の部分も計画段階からすべて生徒討論にかけられ
た事がわかる。 ウォークラリーと同年度なのに生徒参加の度合いが全く異なり、
酒井氏の提案に矛盾があるようだが、おそらく矛盾があったのでなく同僚教師や
校長の態度の変化によって、すべての行事で計画段階まで生徒参加を認めるべき
だという酒井氏の意向どおりになったと考えるべきだろう。
なぜなら1959年4月の学年教師会資料にこのタイプの登山計画が入っているからである。
修学旅行も多数コース班行動になっている。3年遠足は企画すべてが生徒計画で教師はお客だとされているが、実際にはどのような遠足であったのかわからない。
(補注2012 筆者が生前の酒井氏に質問するのを忘れたのである 現在酒井氏は故人)。
この方法を生徒が常に支持するのは、生徒裁量の範囲の大きさ、冒険の要素の
ほかに「クラブ活動」が「生徒個性を認めた上での平等」という思想に立脚しているからであろう。
メニューで説明すれば次のようになる。
第1の立場は「貧乏人は麦を食え」(昔の大蔵大臣I氏放言)という差別主義である。
第2の立場は「全員に同じ定食を与える」という主義で途上国の場合や革命期で特権階級のための教育を平等な教育に改める場合に合理的な方法であろう。
第3の立場は「複数のおいしい食事から好きなものを選ばせる」という方法である。 酒井氏の「クラブ活動」つまり3コース以上から生徒の個性に合うコースを選ばせる方式は第3の考え方に属する。 要求の多様化した先進国生徒に歓迎される方法であろう。 生徒投票をさせた年度では反対ゼロと言って良い。
「能力に応じて教育内容を変える」という差別主義でなく「全員同じ待遇」「全員同じ事ができる事が目標」という素朴な平等主義でもなく、「複線型教育だが格差はない」「個性を認めて平等」「それが生徒に支持される」という教育の考え方は酒井氏の文化祭提案でも見られる。吉田松陰がどの人間にも独自の良さがある事を認めたのは有名だが、酒井氏の方法も「どの生徒にも個性があり、独自の良さを尊重した教育を(集団教育の中でも)すべきだ」という思想(書かれたものは残存しないが氏の主張は70年代から何回か筆者が聞いている)にそっている。
酒井氏のこの思想は「全生徒の個性を積極的に育成し、個性的能力を持つ生徒の援け合いを発生させる事で生徒の全面発達を実現」という「個性育成と全面発達の矛盾」「個性育成と平等の矛盾」を止揚し、多数の生徒が嫌う全面発達直接押し付けを回避する指導法の出発点になった。
林間学園、移動教室の行われる山は大型旅館が近くに必要だから有名山岳になり、現在は登山家の作った登山用地図があるから(間違いは稀でそれも小さいミス)地図使用に問題はない。
当時の国土地理院地図は蓼科山山頂南面のガレを道と誤認して記入など初心者遭難につながり得る誤りがあったから、生徒班行動を可能にするには実地踏査で地図を修正する事が必要であった。当時は山登り指導の規格化もされていなかったから、夏山ガイド
のできる教師がいないと原型行事は実行できず、3コース以上採用で生徒の支持をある程度確保した近隣校の実践でも全コース教師が先導する形になっていた。
現在は方法が規格化文書化されたので、誰でも指導が可能である。
(リンク)林間学園・登山指導
(プログラム)
山のスケールが小さい榛名山では登山以外の要素が大きいが、酒井氏勤務校の地区教育委員会の方針によって志賀高原や蓼科高原の宿舎が指定されると、山のスケールの関係で前記の雑誌掲載例のように登山のウェイトが大きくなってくる。
榛名山実践では安全策の工夫がほとんど不要であり、危険防止策は酒井氏の訓話程度で済んだと考えられる。 しかし志賀高原や北八ヶ岳となればグループ行動での登山の危険が増し、危険防止の指導内容が多くなって特別授業か生徒との話し合いが必要になる。
女子荷物の一部を男子が負担するという安全対策は場所が志賀高原になった1973年に採用されたようだが現存資料による確認はできない。 前掲リンクの指導内容もそのほとんどが採用されたはずだが、口頭による指導であり資料が残っていない。 内容が確定したと確実に言えるのは77年である。 つまり安全確保のために生徒がどれだけ努力しなければいけないかを生徒代表(学級委員、実行委員、生徒会本部役員で2年の者)に文書で伝え、それでもこの形式が良いと生徒たちが判断し、生徒代表が生徒全員に「努力が必要だが楽しいほうにしよう」と呼びかけ、生徒全員の賛成を得るという形で実行されたのが77年である。
つまり文化祭に10数年おくれて、生徒との契約が典型的な形で成立した。 ただし実質的には73年になんとなく成立していた…生徒と教師の了解事項(生徒林間委員会と酒井氏ら教師代表、また生徒学年集会での壇上に立った人気教師の酒井氏と2学年全生徒との相互了解)として成立していたと考えられる。 そうでなければ、重大事故の危険がある。
契約---生徒にとって最も楽しい方法は何か教師と生徒が話し合い、最高の楽しさを実 現するにはどれだけ生徒の努力が必要かを明らかにして、生徒の積極的支持のもとで厳しい規律と生徒努力を実現する方法。 汝生徒が契約を守れば教師は楽しい学校生活を 保証するという方法だから筆者が旧約聖書用語の意味に近いとして転用。 酒井氏は行事だけに、しかも徐々に採用。後に今村、成見両氏が全面採用した。
林間学園の登山で重大事故が発生した事はないがウォークラリーやオリエン テーリングでは毎年のように「班内で男子と女子の意見が合わず分裂して地図なしの片方が迷子」 「いじめられっ子をほうりだして他班員が逃走」「コース自由だとヤブの中に突入して迷子」「テキトウに歩いて地図範囲からとびだして迷子」などの事故が発生していた。
ウォークラリーやオリエンテーリングで安全対策確定の遅れた理由は、「事故の重大さ」の評価の問題であった。 北八ヶ岳や志賀高原では、重大事故(遭難死)
があり得るから安全対策指導は絶対に必要であり、人気教師が口頭で生徒を説得し生徒と実質的約束をするか、仮説実験授業に似た問答(規格化された授業)を通じて明文化した契約をするかの問題があるにすぎない。
初期実践ではコース自由・道草自由遠足の場が埼玉県所沢市郊外であり、迷子がでても30分ほど無駄になるだけであった。だから酒井氏は事故があっても遭難にならない場所での事故は生徒の教育に役立つから差し支えない、事故の不快さ(全員待機となる)を生徒が覚えれば林間学園のときの失敗がなくなるから事故で生徒が痛い目にあうのも教育的だと主張していた。
しかし都市が拡大し、遠足場所を所沢から飯能、高麗や吾野と次第に山深く高度差も大きい場所に移した結果、迷子事故による生徒疲労が増大し(疲労が増大すると転倒・捻挫事故が増える)、電車本数の関係で(所沢までは頻繁運転だが先は1時間に1本程度)事故の場合勤務時間を大幅に上回る勤務になってしまうから同僚のブツブツもひどくなった。
そこで筆者の提案で仮説実験授業と同じく焦点をしぼった事故原因の学習をしてから、「契約」を結ぶ方法が採用された。
要するに過去の事故例を生徒に知らせ、1時間駅でまちぼうけという不快事故をなくすにはどうすれば良いかの授業を行い、「班が分解しない」「班長には考えが
深くて親切な人を選び意見がわかれたら最後はその人に従う」「班長が道を間違
えても文句をいわない」などの約束が必要な事を生徒全員が確認した上で、コー
ス自由道草自由の遠足を行う事にすれば事故は生じない(詳しくはリンク コース自由・道草自由遠足の指導)。最初の実践から20年後であった。
(初回実践は1962と推定されるが残存資料がなく確認はできない)
(リンク)文化祭指導プログラム
大学や高校で普通のグループ参加式文化祭である。 自分の関心のある企画に
参加するのだから、生徒の積極的支持があって夜9時10時までがんばりたいと
いう生徒は少なくない。 また自分たちの演劇や展示を見てほしいと、当日サン
ドイッチマンが廊下を練り歩く光景が多数見られる。
ただし生徒の自由を拡大するから「低俗な企画が多くなる」「非行生徒・問題児らの希望するストレス発散音楽演奏を許可すべきかどうか」という問題が当時
からあった。
「低俗な企画が多くなる」という問題に対して酒井氏は「勉強になる企画であると顧問を頼んだ先生が認める事」「ただし勉強という意味は広く解釈する。売店で菓子を売るのは認めないが、自分たちで菓子を作り見学者と食べるのは家庭科の勉強だから許可するし、金魚すくいという企画は認めないが釣りの科学という
理科勉強の中に金魚すくいがあっても良い」という線で生徒と話し合って、
低俗化を避けながら生徒の希望である自由グループ参加を実現している。
この生徒との契約により、楽しさ・生徒支持と、規律・水準の維持との矛盾を解決する方法の工夫・採用は酒井氏が最初であろう。 無原則的自由至上主義を排し、「学園秩序の維持できる範囲での最大限の楽しさが実現される方法」を生徒に教えて生徒の理解、積極的支持を得る方式である。 現在は教える方法がプログラム授業になり安定した生徒支持が確保できる。
問題児グループのストレス発散音楽について、酒井氏は職員会議で次のように発言した。以下の発言は1974年東久留米南中でのものだがひばりヶ丘中学でも同様だったと考えられる。
「問題児たちの生活で100%後ろ向きではない事といったら、楽器の演奏位しかないではないか。 彼らの現在立つ地点から教育をはじめるのでなく、規範を押し付けるのでは教育的でない。 近所迷惑、他企画迷惑にならない音量とか、
中学生らしい服装とかの制限をつけた上で許可すべきだ。」
この問題児の現在立っている地点から教育をすべきだ、という考えは酒井氏の場合まだ教師個人の指導だけを問題にしているので、一見カウンセリング理論との距離が大きくないように見える。 しかし酒井氏の考え方を基礎として、後に
「問題児とバンド、スポーツなどを媒介とし集団として付き合う生徒運動を基礎として非行を完全になくす」方法が出現したから酒井氏の考えはカウンセリングの方法論より大きく前進したとすべきだろう。
つまり問題児が喜んでやる事,
主体的に行動する事から出発するという酒井氏主張の延長にカウンセリングより遥かに有効な非行対策が出現したのである。 「問題児の好きな事でつきあう大衆的生徒運動」があれば、問題児が真面目に行動・努力する範囲が拡大し、問題児は真面目な行動・努力をする自分を合理化していつのまにか全面的に良くな
るという、物質が意識に優先という唯物論に従う指導法である。
酒井氏原型行事を行うと、問題児を含む多数の生徒が厳しい規律に従い学習をする自分を合理化し「規律も場合によってはある方がよい」と考えはじめるのと同様である。
問題児の考えは「寝そべってテレビを見ながらカップラーメンを食う」「友達と
遊ぶ時はいつも喫煙」…といった彼らの生活を合理化した結果であるから(伝統的
指導のように生徒を説得して意識を先に変え生活を改善するという方法でなく)
生活のほうを一部変えればその分だけ意識も自然に変わる事になる。
「友達と遊ぶ時イコール喫煙タイム、教師非難合戦タイム」という状態をそのまま にした熱血教師の説得で本当に非行がなくなるであろうか。 この方法の成功率は2 年3年の場合に5割程度であるがそれでも熱血教師の説得中心の方法とは比較にならぬ結果であろう。
(リンク)問題児とつきあって良くする運動の指導方法
成功率は「本人の非行消滅およびリーダーの遊びグループだけがつきあい相手になった事を親とリーダーが認める」、「1年間で通知表54321の数字合計が4以上
回復した」という2つの判定基準の両方合格という数字であり、この厳しい基準を適用したら多数出版されている熱血先生の努力による実践は成功率ゼロに近いであろう。
熱血教師の奮闘のおかげで積極的反抗はなくなったようだが、非行の追跡調査はおろか現在喫煙などの非行が存在するかどうかあいまいで、調査の方法さえ書かれていない。 3年間の追跡調査のできた例(有力リーダーが同じ高校にいる場合)では、通知表上昇3の場合には非行再発がかなりあり、4以上上昇なら再発例が知られていないから非行克服の判定基準として以上の基準は合理的である。 15年あとで「生活指導」誌に出た教師主導の
類似実践と異なり、多数生徒が勝手に問題児の家まで押しかけて遊ぶから、問題児と運動生徒集団の接触時間は教師主導の付き合う運動の場合と大差があり運動の効果も段違いで当然であろう。
この方法は誰かが工夫発明したものでなく、運動が自然発生して「いつのまにか番長候補が良くなった」事から発見された。 教師が生徒の圧倒的支持を得ていれば反教師派である非行生徒はたちまち孤立し話し相手がほとんどいなくなってしまう一方暴力を振るう事も困難になるから、孤立している生徒を仲間に加えようとする有力リーダーグループと非行グループの友達グループ拡大競争、問題児争奪戦がしばしば自然発生する。 自然発生しない場合も発生した時と同様な力関係があるから、遊びグループ代表者会議で教師が提案すれば
運動は成立する(具体例は前記リンク)。 酒井氏はこの方法発見の一歩前の地点に立っていたとしてよかろう。
筆者の経験では文化発表会からグループ参加式文化祭に移行するには、「文化発表会
プラス有志グループ参加」という中間形態を1-2年採用すると職員会議での抵抗は少ない。
附 団結の基礎は何か
グループ参加式文化祭に比べて普及度の高いクラス参加式文化祭は70年代(75年か)に出現した。 クラスの団結を重視するからだという。 また自由多数コースのウォークラリーやオリエンテーリングの普及しない原因の1つが、教師管理のもとの全員斉一行動が団結の基礎であるという(多数教師の)信仰だと思われる。
学年全員とかクラス全員の(管理された)斉一行動が団結の基礎だと聞くと大日本帝国やヒトラー、スターリンを連想して寒気がするほうが正常な感覚ではなかろうか。
教師が生徒の圧倒的な支持を得れば「親教師派−反教師派」の生徒間対立はほぼ消滅する。「格差のない個性尊重」という指導をすれば「勉強家−勉強嫌い」「部活熱心−帰宅部」の生徒間対立は弱まる。その結果「誰が誰と遊んでいてもおかしくない」状態が出現する事が団結そのものだというのが科学的思考(心理学に依拠する思考)であろう。
斉一行動が団結の基礎と主張する教師の実践で「校内暴力を生徒多数の実力行使で封じ込める」レベルの団結を実現したという実践は報告されていないが、前記の方法なら、毎回のように実現する。3年前の(筆者の最後の)実践でも3年の反抗的生徒・非行ゼロである。
酒井氏は各所で以後発展の芽となる独創的な思想、方法論を示している。しかし氏は学者でなく実践家であって、自分の実践を十分理論化するのに成功せず、実践には理論的矛盾とそのために生ずる問題があった。
前記のようにウォークラリーやオリエンテーリング遠足では事故が毎年のように発生していた。 ただし迷子はこの種の遠足にだけあるのではない。 行列遠足でも1973東久留米市立南中での例のように、列が切れ後ろにいた教師を含む40数人が集団迷子になり迷子集団発見に40分以上かかって帰りが1時間遅れた事件が発生している。
酒井氏によれば、草津白根で同様な事故がおき、行列が切れて火山ガス地帯に入った迷子集団が死傷する有名事故があったというが筆者は調べていない。
ウォークラリーやオリエンテーリングでは、迷子が発生すると帰りが遅れ全員が不快になる事を生徒にわからせれば事故は生じない。 文化祭の場合と同じく、問題となる部分(迷子問題)に生徒の視点を集中するように指導してからは、それ以後事故が生じていないのである。
酒井氏の方法論を授業方法論として最もレベルが高いと思われる仮説実験授業方法論と比較すると、「内容がやさしくとも、面白くなければ生徒は理解せず、ある程度難しくとも面白ければ生徒は理解する」に相当するのが「多少の危険や面倒な学習・規律が必要でも楽しければ生徒は真面目に努力するから問題ない」という考え方であろう。
スターリン式の静止的思考ではなく、生徒の考え方や行動志向は絶えず変化するという弁証法に従っている。
しかし仮説実験授業の「実験の大切な点に生徒の視点を集中する」という考え方に対応する指導(三浦つとむ氏の唯物論と新唯物論では支持される、その他の哲学の支持者も世界一流心理学者ピアジェの実験を知っていれば支持するであろう)は文化祭だけで採用され、ウォークラリーやオリエンテーリングでは採用されていないため事故の原因となった。
また林間学園の場合、北八ヶ岳では視点を絞る指導がないと厳しいコー
スを生徒多数が希望した場合の安全が保証されないが、規模の小さい榛名山では指導なしでも大した問題はなかったから、初期実践では採用されなかったと考えられる。
この点で理論化は不十分であり、改革行事方法論に矛盾があった事になる。 理論化不十分なために、クラスや学校全体の規律、生徒会活動でも「実現可能な範囲で生徒が最も楽しい学校生活をするには、どのような規律を定め、どのような努力をすれば良いか」という視点をはっきりさせて、生徒が主体的に(教師の直接指導なしに)努力するようにするという応用方法は開発されなかった。 開発は酒井氏改革行事がほぼ忠実に伝わった近隣校で2名の教師が行う事となる。
また行事以外の指導に「格差のない複線型教育」で生徒の支持、積極性を高めるという方法を酒井氏は適用しようとはしていない。これも理論化が不十分だったためであろう。 この指導を一般化した実践も近隣の2校で行われた。
しかし、実践家であり学者ではない酒井氏に理論化不十分のための限界があっても、それはやむを得ないことであろう。 多くの行事を生徒に大歓迎されるものに改め、その一部は大多数の学校に採用されるほど普及し、氏の実践・思想・主張が現実に有効な指導方法多数の発見の出発点になったという3点で、氏の仕事は歴史上最高クラスの輝きを持つものという評価が与えられるべきであろう。
新唯物論と古典唯物論
最初のコース自由・道草自由遠足地図
最初の多数コース選択・臨時班行動に使われた地図
コース自由・道草自由遠足の指導プログラム
水泳大会指導プログラム
林間学園・登山指導
プログラム
文化祭指導プログラム
問題児とつきあって良くする運動の指導方法