生まれたのは北海道小樽で1912年10月3日です。 父親滋次郎は日本銀行に勤めていたので、その官舎にいました。 元三郎は小 樽時代の事は何も覚えていないそうであります。 松江に移り幼稚園にはいりま したが大変なイタズラ坊主であったらしく、後に東大物療内科に入った若い先生 が、元三郎に向かい「母は先生の事を良く覚えております」と挨拶したそうです。 なぜ良く覚えているかというと、その若い先生の母親である幼稚園の先生をイタ ズラで困らせたからです。
大変好奇心があり、物見高い子供だったらしく、チンドン屋さんが面白いので、 松江から隣の町である玉造温泉までついて行った事があるそうです。5-6キロあ りますから子供の足では帰りが大変難儀だったそうです。
この写真は小学校時代松江で妹の智恵子と写したもので
すが、この目を見れば、大変なイタズラボウズである事は誰でもすぐわかる。 こ
のようなクルクル廻るような目つきは「面白い事はないか」とキョロキョ
ロしているイタズラボウズの目であり、大人でそういう目の人は昔大変なイタズ
ラボウズだった人で、知る限り例外はありません。
智恵子の話では、友達のカバンに石を入れる名人だったそうです。
授業中も騒いでいて、その授業中騒動とイタズラのために廊下に立たされる事 も多かったそうであります。 身に覚えがないのにイタズラの犯人とされ先生か ら怒鳴られた事もあったといいます。 どうせそんな悪い事をするのは増山だろ うというわけです。
中学に入ってからはイタズラも減ったようでありますが、富山で滝に打たれる 修行をしている人がいるのを見て、滝の上に廻り、石を動かして勢いよく水が落 ちるようにしたそうです。 その結果どうなったかは忘れたそうです。
成績は良いのですが、1番2番でなく、10番ぐらいだったそうです。
要するに先生の指定する勉強はあまりしないで、自分の好きな本を読んで勉強す
るので、成績ムラがある。 でも好きな勉強をしたおかげで後に学位論文や就職
で得をする事になりました。 天気予報のとき、当時は風向きや風の強さを経験
とカンで予報官が予報していたのですが、当時勉強していた人の少ないテンソル
を使えば客観的に風向きや風の強さを計算できるという啓蒙のための論文を書き、
それが気象台長の藤原先生に認められ、先生の薦めでそれをそのまま博士論文に
したと言います。 またロシア語文献が読めるという事で、気象台に採用されま
す。当時ロシア語の読める人は気象台にあと一人しかいなかったそうです。
絵は大変得意で、小学生のとき先生の命令で大きな絵を書かされたというので すが、本人の詳しい記憶がなく、絵は全く残っていません。 後に我々の父親になってから、子供のために書いた絵はあります。
また切り絵を得意としていて、これは妻の母親つまり僕らの 祖母です。 大変よく似ている。 直観像つまり記憶したものを空中の像として 見る事ができる能力を持っていましたから、祖母の姿を見なくても切り絵ができ たのです。 当然写真も上手で、後にインドで写した写真は地理の書物で採用さ れています。これは妻と子供、僕から言えば母と妹、弟を写した写真です。 その写 真はカビでだめになり、ここにあるのは僕が複写しておいたフィルムを更に複写 したものです。
絵と工作、写真は得意でしたが、字は下手でした。 単にまずいという程度で なく現代の通信簿の54321で評価すれば1どころか0かマイナス1になりそうな ヒドイ字で、学者になってからは本屋さんを苦しめていました。 たしか岩波書 店だったと思いますが、大先生に聞くのはおそれ多いと、子供の僕のところに「こ の字は何と読むのでしょうか」「この文章はどう読むのでしょうか」と編集部の方 が15箇所ほどの部分について聞きに来られた事があります。中学のときに結核になり、それから30すぎまで再発を繰り返すことになりま す。 当時は結核の治療で確かな方法は安静にするだけで、あとはマムシの黒焼 きから亜砒酸にいたる怪しげな薬しかありませんでした。 この結核患者であった事と万病の博物館であった事が関心を医学に向かわせ、 また治療法に怪しい部分が多い事から、物理に入る事にしたといいます。 物理 化学をしっかり勉強して、医学を物理・化学のような客観的で信頼性の高いもの にしたいと考えたそうであります。
この調子で本も書きますから、ある人物事典には「難解をもって有名」と書か れてしまいました。 多くの人にとってわかりやすい本とは、読者のわかってい る世界のひろがり・認識の発達の順に書いてあって、最後にキチンと内容を整理 してある本です。 そうすると重要な定理、重要な概念は2度書く事になります。 僕がそうしないからわかりにくいのだと言ったら曰く「同じ事を2度書く必要は ない。 寝転んで読めるような本は身のためにならん」と一蹴されてしまいまし た。 家まで質問にくる人がいましたが、横で見ていると丁寧に手取り足取り教 える場合と、ほとんど教えず自分で考えさせている場合がありました。 そこで どうして人によって教え方が極端に違うのか聞いたところ、「あの人は専門家を めざす人だから、自分で考えてもらわないと困るのだ。 専門家を目指さない人 には丁寧に教えても良いのだ」と答えました。
東大医学部の入試、当時は大学2年生相手の試験の数学問題を出題した事があ り、僕が実験台でやらされました。 積分の問題なのですが、公式を知っている だけでは全く歯がたたない。 しかし「無限にこまかいものを無限に寄せ集める」 という積分の基本がわかっていれば、区分求積法に似た方法で出来る問題です。 他の問題は公式をひねくりまわせばできるが、お父さんのはそうでないから面白 いと言ったら、「公式は公式集を見ればわかるのだから暗記などしなくて良いの だ。 その公式のもとになる数学の考え方を知る事が重要だ」と答えました。分裂気質つまりschizophreniaに通じる性格の持ち主ですからいろいろなもの に凝り、インドから帰ったときは香辛料に凝りました。 本人は大変鼻が良く、 検査の結果の数字を見ると、お酒の鑑定や香料の鑑定をする専門家なみでしたか ら、香料に凝りはじめてからは棚いっぱいに種々の香料が入っていました 。香辛 料に凝らなくなってからも長いこと料理には凝り続けました。 香辛料の栽培は タネを播くだけで世話は僕がさせられましたが、料理のほうは日曜に自分で作り、 得意のインド式カレーにはじまり、トルコの菓子とかマヤ料理を食べさせられた 事もありました。 マヤとはあの中央アメリカ古代文明のマヤ文明で、そのマヤ 人の子孫に伝わる料理、つまりそれ位凝って世界の料理の本を集めたという事で す。 その大部分はフランス語と英語ですがロシア語やその他の言葉の本もあり ました。
コーヒーや紅茶にも凝り、そのおかげで僕ら子供もコーヒーの主な銘柄とその 味を覚えました。 本人は3者混合、つまりモカマタリ…モカの中の高級品です が、そのモカマタリとコロンビアの高級品であるコロンビアメデリンまたはコロ ンビアスプレモ、それからマンデリンという3つの混合を良く飲んでいました。 たしかに普通のコーヒー店で飲むコーヒーよりはるかにおいしい。 またインド 紅茶つまり本物の紅茶を時々いれていました。 日本で売っている紅茶はほとん どが粗悪品に香料をふりかけた誤魔化し紅茶であり、本物の紅茶は緑茶の玉露を 紅茶にしたような味と匂いで苦味がほとんどなく、おいしい。 国産の本物紅茶 が大地という自然食品業者から入手できるようになってからはそれも飲んでいま した。また同じく分裂気質のため、常同症つまりいつまでも同じことをやっている精 神病患者のようなところがあり、日曜日はいつも4時になると雨戸もガラス戸も 完全にしめました。 冬でも夏でも同じですから、冷房も穴あきの雨戸もない当 時の真夏では閉められると物凄く暑い。 それでも4時になると閉めてしまうの です。 僕と母は「あーまたお父さんに閉められちゃった。 夏暑いのに本当に 困る。 ゼウス殿は向こうでひっくり返って本を読んでいるからこっちは開けよ う」とそーっとあけるわけです。 1時間くらいたつとまた点検にやってきて、 また閉めてしまう。 そーっと開ける。その繰り返しです。 それでいて自分は 暑がりだから暑いと思っているのです。 戸締りの点検は何回もします。
自然科学が専門でありますが、歴史や経済の本もかなり読んでいましたから、 第2次世界大戦の時は、戦前から日本が負けると予想していました。 現在日本 の経済力はアメリカの半分位ですが、当時は10倍の開きがありました。ですか ら長期戦に持ち込まれたら軍艦や飛行機の生産台数が違うため戦力に大差がつい て勝負にならないと考えたのですが、この点で後に興銀の経理部長になった従兄 弟の増山清太郎と意見が一致したそうです。日本と米国の戦争はどちらにも正義などなく、フィリッピンを侵略したアメリ カと中国を侵略した日本という強盗同士の争いであるという事も知っておりまし た。 ですから軍から科学者の戦争協力命令があったとき、協力するかブタバコ に行くか苦しい選択を迫られたようです。 その時もと同級生の稲垣克彦先生に軍医 学校に来ないかと誘われ、軍医学校なら軍に属していても人間の命を救う研究で 良心に反しないからと誘いに応じたそうであります。 そこで国産ペニシリンの 研究をする事になりますが、後々まで稲垣先生は自分の恩人である。稲垣先生が いなければ、自分はブタバコ行きだったと申しておりました。
敗戦後も反骨精神の持ち主で、東大病院で看護婦の手紙を検閲している事をア メリカ軍人に話しました。 当時は日本を民主化して軍国主義をなくし、アメリ カともう一度戦争したりしないようにしよう、という民主改革派がアメリカ軍に は多かったので、早速米軍から東大に命令が下り、看護婦の手紙検閲が廃止にな ったそうです。 次の日看護婦さん達が廊下に一列に並び元三郎に感謝の意を表 明したそうですが、一部教授からは「東大の恥をさらした」と恨まれたそうです。黄変米事件つまり黄色のカビのついた米を配給するかどうかという問題の時は、 高橋晄生先生らとともに厚生省の審議会で「毒性の強いカビのついた米を国民に 食わすとはとんでもない」と反対しました。 東大のK教授やU教授が黄変米 の毒性がいかに強いかを自分の実験で知りながら「カビを落としせばたべても良 い」と審議会で発言したのを夕食の時家で話し「とんでもない悪い奴らだ」と何 回も言っておりました。 カビを落としてもその胞子が残ってしまいまた増えて きますし、また黄変米毒はタバコや放射能と同じく安全量がゼロでどんな少しで もその分有害というデーターがあるからです。 「厚生省は国民を守るより業者 を守るほうを優先する殺人省だ」とも言っておりました。