増山元三郎伝説集


                     増山明夫2005.7.2 
葬儀の日に配布したものです。

生まれたのは北海道小樽で1912年10月3日です。  父親滋次郎は日本銀行に勤めていたので、その官舎にいました。 元三郎は小 樽時代の事は何も覚えていないそうであります。 松江に移り幼稚園にはいりま したが大変なイタズラ坊主であったらしく、後に東大物療内科に入った若い先生 が、元三郎に向かい「母は先生の事を良く覚えております」と挨拶したそうです。 なぜ良く覚えているかというと、その若い先生の母親である幼稚園の先生をイタ ズラで困らせたからです。

 大変好奇心があり、物見高い子供だったらしく、チンドン屋さんが面白いので、 松江から隣の町である玉造温泉までついて行った事があるそうです。5-6キロあ りますから子供の足では帰りが大変難儀だったそうです。

この写真は小学校時代松江で妹の智恵子と写したもので すが、この目を見れば、大変なイタズラボウズである事は誰でもすぐわかる。 こ のようなクルクル廻るような目つきは「面白い事はないか」とキョロキョ ロしているイタズラボウズの目であり、大人でそういう目の人は昔大変なイタズ ラボウズだった人で、知る限り例外はありません。  智恵子の話では、友達のカバンに石を入れる名人だったそうです。 

 本人の覚えている小学校時代唯一のイタズラは、戸に墨汁をつけた箒をたてか けておいたら、先生が入ってきて墨汁が先生のシャツについてしまい、ひどく叱 られたというイタズラです。 母親のノブは無類のお人よしでありましたから、 この時の小学校教師をはじめ、いつもイタズラの被害者のところに謝りに行った はずで、それが年中行事ですからさぞ大変だったろうと同情させられます。

 授業中も騒いでいて、その授業中騒動とイタズラのために廊下に立たされる事 も多かったそうであります。 身に覚えがないのにイタズラの犯人とされ先生か ら怒鳴られた事もあったといいます。 どうせそんな悪い事をするのは増山だろ うというわけです。

   中学に入ってからはイタズラも減ったようでありますが、富山で滝に打たれる 修行をしている人がいるのを見て、滝の上に廻り、石を動かして勢いよく水が落 ちるようにしたそうです。 その結果どうなったかは忘れたそうです。

 成績は良いのですが、1番2番でなく、10番ぐらいだったそうです。 要するに先生の指定する勉強はあまりしないで、自分の好きな本を読んで勉強す るので、成績ムラがある。 でも好きな勉強をしたおかげで後に学位論文や就職 で得をする事になりました。 天気予報のとき、当時は風向きや風の強さを経験 とカンで予報官が予報していたのですが、当時勉強していた人の少ないテンソル を使えば客観的に風向きや風の強さを計算できるという啓蒙のための論文を書き、 それが気象台長の藤原先生に認められ、先生の薦めでそれをそのまま博士論文に したと言います。 またロシア語文献が読めるという事で、気象台に採用されま す。当時ロシア語の読める人は気象台にあと一人しかいなかったそうです。

 「試験は落第しない程度にできれば良いのだ。1番2番を目指したのでは自分 の勉強ができない」というのが元三郎の持論でしたが、中学生時代からそうだっ たようです。

 絵は大変得意で、小学生のとき先生の命令で大きな絵を書かされたというので すが、本人の詳しい記憶がなく、絵は全く残っていません。  後に我々の父親になってから、子供のために書いた絵はあります。

これは妹のために書いた絵で、その絵は紛失しましたが僕が面白い と思い写真を写しておいたものがこれです。 叱られている魚と叱っている魚の 絵でなかなか器用な絵です。 

また切り絵を得意としていて、これは妻の母親つまり僕らの 祖母です。 大変よく似ている。 直観像つまり記憶したものを空中の像として 見る事ができる能力を持っていましたから、祖母の姿を見なくても切り絵ができ たのです。 当然写真も上手で、後にインドで写した写真は地理の書物で採用さ れています。これは妻と子供、僕から言えば母と妹、弟を写した写真です。 その写 真はカビでだめになり、ここにあるのは僕が複写しておいたフィルムを更に複写 したものです。 

 絵と工作、写真は得意でしたが、字は下手でした。 単にまずいという程度で なく現代の通信簿の54321で評価すれば1どころか0かマイナス1になりそうな ヒドイ字で、学者になってからは本屋さんを苦しめていました。 たしか岩波書 店だったと思いますが、大先生に聞くのはおそれ多いと、子供の僕のところに「こ の字は何と読むのでしょうか」「この文章はどう読むのでしょうか」と編集部の方 が15箇所ほどの部分について聞きに来られた事があります。
 時には自分で自分の字が読めず、これは何を書いたのかナと考え込む時もあり ました。 僕には全部読めたのですが、その理由は僕の筆跡が父のと似ているか らです。筆跡というものは手の器用さと無関係であり、左手で書こうが腕に筆を つけて書こうが筆跡は同じであり、悪筆とは脳みそに記憶された字が下手だとい う事でありますが、僕は父から字を習ったからそのとんでもない字を脳に叩き込 んでしまい、自分も悪筆になったと信じています。 その証拠に弟と妹は字がう まいほうであります。 弟と妹は母から字を習ったからです。 でも父から字を 習ったおかげで、父本人さえ読めない字が年齢下で目の解像力が良いために読め る場合があるというわけです。しかし一般的にいえば、子供に字を教えるとき字 のうまいほうの親が教えるべきだと僕は信じております。 50代になってからは、 僕が市販されたばかりの20万円以上するワープロを差し上げたので、それから は本屋さんを苦しめる事がなくなりました。

 小学校5年中学校4年で一高・東大と進学しましたが、結 核で3年休学したので、1年浪人と同じ年齢で大学に入っています。 この写真 は当時の元三郎の写真で現存する唯一のものですが、父の家族と母の家族が一緒 に写っています。 一番左の青年が父の増山元三郎で、右の女の子が後に妻にな る今村道代であり、赤ちゃんは後に映画監督になった今村昌平です。 母親同士 が友達だった…つまり二人の母親とも特級のお人よし同士で大変仲良しだったの です。 母親の父親同士が碁、碁将棋の碁です…碁仲間でつきあいがはじまった そうです。]

 元三郎は子供のときからカゼはよくひくし、お腹はよくこわすし、オデキはよ くできるし、蕁麻疹もひどい・・と病気の博物館のようでありました。 子供の ときは、富山で親類の子供たちと一緒に育ちましたが、元三郎一人が病気のこと が多かったそうであります。 後に酵素の突然変異がみつかりましたが、遺伝的 に弱かったようであります。 Dermographiaまでありました。 医者の方はよ くご存知ですが、ひふを強くこするとそこが腫れて蕁麻疹のようになる現象です。 僕らの父親になってからも、カゼや下痢で寝ている日は少なくありませんでした。

  中学のときに結核になり、それから30すぎまで再発を繰り返すことになりま す。 当時は結核の治療で確かな方法は安静にするだけで、あとはマムシの黒焼 きから亜砒酸にいたる怪しげな薬しかありませんでした。  この結核患者であった事と万病の博物館であった事が関心を医学に向かわせ、 また治療法に怪しい部分が多い事から、物理に入る事にしたといいます。 物理 化学をしっかり勉強して、医学を物理・化学のような客観的で信頼性の高いもの にしたいと考えたそうであります。

 結核で長い事苦しむのですが、その結核のため命拾いをしています。 徴兵さ れて砲兵になりましたが、訓練の最中結核が再発して病院ゆきとなりました。 そ の砲兵部隊はノモンハン事件で壊滅し病院にいた元三郎は生き延びました。 ノ モンハン事件とは日本軍とソ連軍が中国モンゴル国境付近で大規模な衝突を した事件で、戦車中心の近代的装備を持つソ連軍に対して兵器が著しく劣る日本 陸軍は1万3000人のうち8000の死傷者を出す惨敗を喫し、その砲兵部隊はほ とんど全滅したそうであります。 元三郎は結核が役に立つ事もあると苦笑いを していました。 

勉強と読書は大好きですが、床屋が大嫌いでした。 散髪は退屈で面倒くさいという理由です。 ですから、身なりなど全くかまわず、 ボサボサの髪に大きなタオルを腰に下げたスタイルで古本屋を歩き回っていまし た。 僕が小さいとき、神田の古本屋街に連れていってもらいましたが、古本屋 のオヤジさんたちが皆元三郎に挨拶するのです。 古本屋の常連だから、オヤジ さんたちが挨拶するというわけです。 またそういうスタイルで眉毛が太く濃く 目のギヨロリとした大男が歩いているのですから、ある日向こうから来た親子づ れの子供が「お母ちゃん、あれサンゾク?」と聞いたそうです。絵本や漫画の山賊 に似ていたらしい。 母親は「すみません。すみません。」と平身低頭謝っていた そうでありますが。

 整理整頓をしない性質で、いつも本がうずたかく積みあがり、 大地震があったら本が方々から落ちてきてケガをするのではないか、という状態 が90歳まで続きました。 それを母や僕が整理すると大変怒り、30分、ひどい 時は1時間以上怒り続けるのが普通でした。 本は専門書であろうが、通俗的な 本であろうが、歴史や民族の本であろうが、写真や絵の本であろうが、大きい本 だろうが小さい本だろうが、ただ上に積み上げてゆくのです。本人は買った順に 積んである事で本の位置を記憶しているので、それが変えられると本を探すのが 困難になるという理由で怒るのです。 自分の写した写真も同様ですから、写真 の大半は空気の流通が悪いためフィルムにカビが生え、写真の印画紙はしめって 2枚づつくっついてしまい、父の写した写真の多くは現在見る事が困難です。 父 がいくら怒っても人間の住む場所確保のため家では片付けましたが大学のほうは この通りです。
この写真はプロの写真家の作品です。
 母の道代が交通事故で亡くなってから、保泉ヤスと結婚しましたが、道代と違 いおとなしい性格ですから、この通りだんだん本が積みあがり、人間はスミのほ うに追い詰められています。

   家では他の事でもよく雷が落ちました。 例えば時計の電池がきれているのを見ると、母の道代か僕に「電池が切れている」 といいます。 「買ってこい」とは言いませんがそれが買ってこいという意味で あり、次の日買ってないと雷が落ちます。 そして「なぜ忘れたか」「手帳に書く など忘れない工夫はどの程度したか」、「忘れても困らない工夫はどの程度したの か」という説教がはじまります。 弟は忘れ物が少ない性質であり、妹は小さい ですから、雷の落ちる先は僕と母に決まっていました。 そこで母と僕は元三郎 にゼウスというあだ名を奉りました。 ギリシャの雷の神様であり、実力と権威 があって多少気まぐれの神様ですから、まさにピッタリのあだ名だと思っており ます。

 父元三郎の東大での講義は難しいので有名でした。 学生時代友人から「君の お父さんの講義聞いたけど、わからなかったよ」とよく言われたものです。 高 校1年のときに家で日曜講義を聴いたので、その難しさは僕にも想像できます。 家で講義をやるからお前は聴けという事になり、親族の増山英太郎、宮村佳伸と ともにルベーグ積分の手前までの積分と、ヴェクトル解析を勉強させられました。  写真は4月始まった ばかりの講義で演習をやらされている僕の写真で、このあたりはまだ初等積分で すからやさしい。しかしまもなく大変な講義になりました。 まず同じ事は絶対 に繰り返さない。 質問すると「それはもう教えてある。テキストをもう一度よ く読んでから質問するように」と回答します。 時には「この定理の証明は何々 先生の本と何々先生の本に書いてある」で通過。 次の講義はその定理がわかっ ているとして始められます。 そのかわり定理のもつ世界のようなお話がある。  だから自分で勉強すれば面白いが、ただ聞くだけだとついてゆくのが困難なので す。 大学での講義での最終回は現代の研究についての話でありよほど 勉強しないとわからない内容だったそうです。 お茶ノ水大学での講義では、学生が全部消えて、最後まで聴いているのは 助手と大学院生だけになったそうです。

 この調子で本も書きますから、ある人物事典には「難解をもって有名」と書か れてしまいました。 多くの人にとってわかりやすい本とは、読者のわかってい る世界のひろがり・認識の発達の順に書いてあって、最後にキチンと内容を整理 してある本です。 そうすると重要な定理、重要な概念は2度書く事になります。  僕がそうしないからわかりにくいのだと言ったら曰く「同じ事を2度書く必要は ない。 寝転んで読めるような本は身のためにならん」と一蹴されてしまいまし た。 家まで質問にくる人がいましたが、横で見ていると丁寧に手取り足取り教 える場合と、ほとんど教えず自分で考えさせている場合がありました。 そこで どうして人によって教え方が極端に違うのか聞いたところ、「あの人は専門家を めざす人だから、自分で考えてもらわないと困るのだ。 専門家を目指さない人 には丁寧に教えても良いのだ」と答えました。

  東大医学部の入試、当時は大学2年生相手の試験の数学問題を出題した事があ り、僕が実験台でやらされました。 積分の問題なのですが、公式を知っている だけでは全く歯がたたない。 しかし「無限にこまかいものを無限に寄せ集める」 という積分の基本がわかっていれば、区分求積法に似た方法で出来る問題です。  他の問題は公式をひねくりまわせばできるが、お父さんのはそうでないから面白 いと言ったら、「公式は公式集を見ればわかるのだから暗記などしなくて良いの だ。 その公式のもとになる数学の考え方を知る事が重要だ」と答えました。 

分裂気質つまりschizophreniaに通じる性格の持ち主ですからいろいろなもの に凝り、インドから帰ったときは香辛料に凝りました。 本人は大変鼻が良く、 検査の結果の数字を見ると、お酒の鑑定や香料の鑑定をする専門家なみでしたか ら、香料に凝りはじめてからは棚いっぱいに種々の香料が入っていました 。香辛 料に凝らなくなってからも長いこと料理には凝り続けました。 香辛料の栽培は タネを播くだけで世話は僕がさせられましたが、料理のほうは日曜に自分で作り、 得意のインド式カレーにはじまり、トルコの菓子とかマヤ料理を食べさせられた 事もありました。 マヤとはあの中央アメリカ古代文明のマヤ文明で、そのマヤ 人の子孫に伝わる料理、つまりそれ位凝って世界の料理の本を集めたという事で す。 その大部分はフランス語と英語ですがロシア語やその他の言葉の本もあり ました。 

コーヒーや紅茶にも凝り、そのおかげで僕ら子供もコーヒーの主な銘柄とその 味を覚えました。 本人は3者混合、つまりモカマタリ…モカの中の高級品です が、そのモカマタリとコロンビアの高級品であるコロンビアメデリンまたはコロ ンビアスプレモ、それからマンデリンという3つの混合を良く飲んでいました。  たしかに普通のコーヒー店で飲むコーヒーよりはるかにおいしい。 またインド 紅茶つまり本物の紅茶を時々いれていました。 日本で売っている紅茶はほとん どが粗悪品に香料をふりかけた誤魔化し紅茶であり、本物の紅茶は緑茶の玉露を 紅茶にしたような味と匂いで苦味がほとんどなく、おいしい。 国産の本物紅茶 が大地という自然食品業者から入手できるようになってからはそれも飲んでいま した。

  また同じく分裂気質のため、常同症つまりいつまでも同じことをやっている精 神病患者のようなところがあり、日曜日はいつも4時になると雨戸もガラス戸も 完全にしめました。 冬でも夏でも同じですから、冷房も穴あきの雨戸もない当 時の真夏では閉められると物凄く暑い。 それでも4時になると閉めてしまうの です。 僕と母は「あーまたお父さんに閉められちゃった。 夏暑いのに本当に 困る。 ゼウス殿は向こうでひっくり返って本を読んでいるからこっちは開けよ う」とそーっとあけるわけです。 1時間くらいたつとまた点検にやってきて、 また閉めてしまう。 そーっと開ける。その繰り返しです。 それでいて自分は 暑がりだから暑いと思っているのです。 戸締りの点検は何回もします。

 自然科学が専門でありますが、歴史や経済の本もかなり読んでいましたから、 第2次世界大戦の時は、戦前から日本が負けると予想していました。 現在日本 の経済力はアメリカの半分位ですが、当時は10倍の開きがありました。ですか ら長期戦に持ち込まれたら軍艦や飛行機の生産台数が違うため戦力に大差がつい て勝負にならないと考えたのですが、この点で後に興銀の経理部長になった従兄 弟の増山清太郎と意見が一致したそうです。

 日本と米国の戦争はどちらにも正義などなく、フィリッピンを侵略したアメリ カと中国を侵略した日本という強盗同士の争いであるという事も知っておりまし た。 ですから軍から科学者の戦争協力命令があったとき、協力するかブタバコ に行くか苦しい選択を迫られたようです。 その時もと同級生の稲垣克彦先生に軍医 学校に来ないかと誘われ、軍医学校なら軍に属していても人間の命を救う研究で 良心に反しないからと誘いに応じたそうであります。 そこで国産ペニシリンの 研究をする事になりますが、後々まで稲垣先生は自分の恩人である。稲垣先生が いなければ、自分はブタバコ行きだったと申しておりました。

 敗戦後も反骨精神の持ち主で、東大病院で看護婦の手紙を検閲している事をア メリカ軍人に話しました。 当時は日本を民主化して軍国主義をなくし、アメリ カともう一度戦争したりしないようにしよう、という民主改革派がアメリカ軍に は多かったので、早速米軍から東大に命令が下り、看護婦の手紙検閲が廃止にな ったそうです。 次の日看護婦さん達が廊下に一列に並び元三郎に感謝の意を表 明したそうですが、一部教授からは「東大の恥をさらした」と恨まれたそうです。

 黄変米事件つまり黄色のカビのついた米を配給するかどうかという問題の時は、 高橋晄生先生らとともに厚生省の審議会で「毒性の強いカビのついた米を国民に 食わすとはとんでもない」と反対しました。 東大のK教授やU教授が黄変米 の毒性がいかに強いかを自分の実験で知りながら「カビを落としせばたべても良 い」と審議会で発言したのを夕食の時家で話し「とんでもない悪い奴らだ」と何 回も言っておりました。 カビを落としてもその胞子が残ってしまいまた増えて きますし、また黄変米毒はタバコや放射能と同じく安全量がゼロでどんな少しで もその分有害というデーターがあるからです。 「厚生省は国民を守るより業者 を守るほうを優先する殺人省だ」とも言っておりました。

   その他にも「漢方薬も客観的な臨床試験つまり患者を2つに分けて片方にニセ 薬をつかい本物と結果を比べるテストをやるべきだ」と審議会で主張したのに、 T医師会長らの反対で通らなかったという話をよくしましたが、晩年の思い出な ので思い違いでなければ幸いです。

これは奇形児で有名なサリドマイド事件で 鑑定人となり、文献を調べている写真です。 この時も「製造はやめるが、在庫 は売ってしまえ」という製薬会社社長の手紙の話をし「実に悪い奴だ」と何回も 申しておりました。

 若いときには雷が始終落ちていましたが、妹が小学生の ころになるとあまり落ちなくなりました。 ソ連のボリショイサーカスが来たと きは弟や妹を連れて見に行きました。 サーカスや手品は大好きで、手品の本が 30冊くらいあり、自分でも手ぬぐいと位相幾何学を使った手品を得意にしていま した。 また2進法を使った簡単な手品を考案して子供たちつまり我々に見せま した。

 90近くなり食事の用意も一人での入浴も困難になり、僕らと一緒に住むように なってからは、ほとんど怒ることもなく、話しの好きな普通の老人になりました。 そしてウズベク共和国で買った帽子がお気に入りで、写真となるとその帽子を出 していました。

  そして「大家族制の増山家で一緒に育った10人のうち抜群に病気に弱く、40ま で生きれば上等だから大学に行かず花でも栽培して暮らしたら、といわれた自分 が一番長生きしたのは、東大物療内科にいて、少し悪くなっただけですぐ適当な 処置ができたおかげである。 皆さんに感謝しなければならない」と何回も申し ておりました。 写真は90歳の誕生日に曾孫と写したものです。

追記 米軍の命令で原爆被害調査に参加させられました。結果は個人で調べたときと同じだったといいます。残留放射線が怖いが 調査は今しかできないと、一人で調査に行ったらやはり個人的に調査に来た加藤周一さん(医学から文芸に転進した有名人物)と会ったそうです。 米軍命令の調査のあと米軍から緘口令 がでましたが、それを予想していたので調査が終わるとすぐ朝日新聞におおよその結果を知らせたそうです。 発表禁止令が出たときはもう朝日新聞が印刷され配布されたあとだったので、どうしようもないという事になったそうです。  米軍はソ連軍に結果を知られたくなかったのだろうと父は言っていました。

インドでは詐欺師のくれたエサだけもらって食い逃げしたそうです。 後で聞いたら大使が被害にあったそうで、「外交官というのはウソをつく商売なのにそれを騙した詐欺師をさらに騙してやった」と自慢していました。 本人は犯罪の本もかなり読んでいて、住居侵入、掏り、詐欺、イカサマ賭博の手口にかなり詳しかった結果だろうと僕は思うのですが。そのインド詐欺師の具体的手口も聞いたのですが僕が忘れました。


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