増山良夫伝説集
教師になった増山良夫が過去を回想して
「オレはよく遊んだなあ。 今の子は十分遊べなくてかわいそうだ。」
増山良夫は1944年敗戦直前の富山市で生まれました。 ですから疎開先だった富山も米軍に爆撃
され、母に背負われ火の中を逃げたのですが、その記憶はない事になります。
3歳で東京に戻った頃は食糧の配給がある時代でしたが、それだけでは足りず、「おなかがすいた」
と小さい良夫君が泣いている時がありました。 「法律を守る裁判官がヤミ(食料)に手を出してはい
けない」といって餓死した山口判事が有名になった時代です。
東京杉並区にあった旧陸軍気象部の焼け跡に建っている共同炊事場・共同トイレのオンボロ長屋に
住んでいましたが、そのかわり焼け跡の広さは200m×300mほどありましたから、良夫はその広大
な廃墟の中を駆け回り、10m以上ある高い木に登ったり、塀の上を歩いたりして遊んでいました。
写真はその広大な廃墟。右が父の元三郎、その左が母の道代、その前の子供が良夫
小学校2年のとき杉並区松ノ木町の公務員宿舎に移る事ができ、トイレや風呂のある生活となりま
す。 そのころの良夫君の生活はと言えば、「学校から帰ってくると、そおーっと玄関のドアをあける。
そしてそおーっとかばんを置き、抜き足差し足で玄関の外に出ると走りだすのです。
走り出す時、「ワアッ」という声を発しますが、その「ワアッ」が聞こえると母は「あっ。良夫が帰
ってきた!」と駆けつけますが、そのときは良夫君の姿がどこにも見当たらない。 日が沈み帰ってく
ると食事。 眠たい目をこすりながら、母の監視のもとで宿題。風呂から出たら、ふとんに入り横に
なった瞬間バタンキューという毎日です。
いつも近所の広場にいるというので、僕に「広場のぬし」とあだ名をつけられたのもこの頃です。
大変野性的?に育ったせいか、実用的能力に優れ、妹が生まれたとき、はじめて経験する2キロ
あまりの道を大人男性用自転車の三角乗りで病院まで一人で往復しました。ピアノの先生のところ
に入門したとき、母に急用ができたというので、路面電車の停留所まで1300m、電車で5つか6つの停留所、そこから
500m程度のわかりにくい道をひとりで歩き、先生のお宅に行って入門してきました。 小学校3年
生のときです。 ただし前記のような毎日ですから、ピアノに触るのはたいてい一週間に一回(その場
所は…)で、先生に「日本一の怠け坊主」と言われてしまいました。 でもその割にはうまくなったよ
うに思います。 僕とドヴォルザーク「スラブ舞曲」の連弾をした事もありました。
工作が得意で小学校5年生のときに作った本棚は僕が借りて使っていました。 50年後返却した本
棚は何となく焦げ茶色になっただけで、まだ使えるものでした。
実用的な工夫も優れていました。 僕が中学校から帰ると櫛がなくなったと母が探しています。僕
も探したがやはり見つからない。そこに小学校3年の良夫君が帰宅。 話を聞くと良夫君は当時の妹
と同じく這い這いをはじめました。 櫛をすぐ発見。 小型鏡台の鏡が傾いていたので、立ったまま
では櫛がその陰になり、見えなかったのです。
体が大きく、大人になったときの身長は175cmほどあり、また運動能力に恵まれ、小学校4年か5
年の運動会の紅白リレーを見たときは100m走る間に相手の選手を5-6m離してしまうほどでした。
中学生のとき、若い体育の先生に相撲で勝ち、それからその先生は生徒と相撲をとらなくなったそう
です。
ですから小学校時代は当然餓鬼大将でしたが、暴力で仲間を支配する暴君型でなく、弱い子の言い
分も聞いてやり仲間の利害を調停する事で推戴される調停型の餓鬼大将でした。 仲間のやる多少の
イタズラは見逃すがある程度のところで止めてしまうので、小学校の先生には大変便利な存在だった
ようです。
小学校5年ころから、少しは本も読むし、勉強もするようになりました。
中学ではテニス部に入りましたが、その時母が大変喜んだのを覚えています。「野球部だと将来値段
がつきそうだ」と心配していたのです。 有名選手になれれば良いが怪我でもしたら一生を棒に振る
…テニスならプロがない(当時)から安全という母の考えでした。
中学になると、急に人格がかわり、それまで危ない遊びなどヘイチャラでよく喋る、という子供だ
ったのに、口数が比較的少なく慎重で完全主義という人物になりました。 ですから、かなり勉強す
る生徒になり、僕のように通信簿に「2」が3つあるというのでなく、オール5に1つ足りないとい
う程度の成績です。
実用的能力は相変わらずで中学3年のとき他の学校テニス部との親善試合がありましたが、急に顧
問の先生の具合が悪くなったとかで、キャプテンの増山良夫君が部員を率いて電車とバスを乗り継ぎ、
監督も兼務したという事がありました。
良夫は小さい子供が大好きでした。 9つ年の違う妹が家の芝生で友達と遊んでいるのに参加し、
「じゃんけんぽん。1.2.3 !!」
「よっちゃん。跳びすぎるウ。」
「じゃあ僕は一歩ね。皆は三歩。」
と
いったような声が聞こえてくる日が時々ありました。 写真は妹の相手をしている良夫君で、小
学校5年のようです。
練馬区にある大泉高校に進学しましたが、入学してすぐテニス部で特別扱いされ、それがいやで、
部をやめてしまったそうです。 そのころ、叔父の今村哲郎教諭に頼まれ、その中学テニス部指導を
手伝うボランティア指導員を経験する事になりますが、そのとき教師になる事を考えたそうです。 今
村哲郎は後記の通り、それまでの教育の常識を破り、
生徒に大歓迎される新指導方法を考案・改良した人物で生徒の人気抜群でしたから、その指導をみて
感化されたと思われます。
理科大から慶応大学院に進学しましたが、研究者でなく教師になりました。
教師がどんな人物かを知るには「授業中騒動に対する指導」を聞くのが良いと僕は考えています。
小学校・中学校では授業中に騒ぐ子どもが多数いますがその対策をどうするか…です。
面白くてよくわかる授業をすれば生徒は騒がないのですが、教科書というものは面白くわかりやす
い授業をするようにできていません。 教科書のもとになっている文部省指導要領がそういう授業を
するようにできていないからです。 良夫の授業では騒ぐ生徒がほとんどいなかったようですが、多
くの先生の授業では「授業はつまらなくてわかりにくいから、我慢ができなくなり、騒いでしまう」
という子ども達が出てきます。
そのとき、多くの先生は「授業中静かにする」ように指導します。 中には授業中騒ぐなというク
ラス討論やグループ討論をさせるという御丁寧な先生もいます。 でも授業が苦しくて我慢が大変と
いう生徒はたくさんいますから、指導の効果がすぐなくなり、女の先生や年配の先生の時間から騒動
が復活するというのが普通です。 そしてよく騒ぐ生徒を厄介者扱いしますから、そういう厄介者が
はみだして不良化したり、不満発散として自分より弱い者をいじめるという事もごく普通です。
良夫は「授業が苦しい」という子ども達の言い分を聞いてやり、「授業妨害にならない程度なら認め
る」事にしていました。
教師や優等生も我慢できるし、いつも騒ぐという生徒も我慢できる程度なら良いとします。
そして騒動が許容範囲なら座席は自由、つまり生徒が決めてよい事にしていました。 つまり騒動
をある程度自粛すれば生徒全体も座席が自由になり楽しくなるし、普通なら厄介者になる生徒も騒動
をある程度我慢したという事で褒めて貰えます。今まで厄介者の親として肩身の
狭い感じだった親にもお宅の子どもさんは近頃騒動を自粛するようがんばっています、と褒める事に
なります。
つまり最初に道徳的規範を決めてそれに従わない者を厄介者として指導するのでなく、
「そういう生徒もいて当たり前であり、普通の子供なのだ」という考え方にたち、彼らもそれなりの
努力をすれば楽しいようにして自然に目標が達成されるようにしているのです。
座席自由の条件として「なかまはずれ」が出ないという条件をつけるので、親切生徒が仲間はずれ
生徒を仲間に入れてくれます。
いままではその仲間はずれ生徒とつきあうと、自分もいじめられる
可能性がありましたが、今回は「お前らの自由のために入れた」という大義名分がありますから、大
丈夫というわけです。 これでいじめの程度が急に軽くなり暴力暴言がなくなってイヤな顔をする程
度になります。 いじめられっ子に後ろ盾ができたからです。 子供達が楽しくなると同時に、子供
達がいつのまにか良くなってゆくという指導の1つです。
「いろいろな生徒がが楽しさを求めて勝手に努力すれば、自然に教師の目標が達成されるようにレ
ールを敷く」という新教育方法は教育学者でなく中学教師の酒井一幸が1959年考案しましたが、適
用範囲が狭いものでした。60年代前半から今村哲郎等はその適用範囲を拡大し、次第に「道徳教育」
とか「生活指導」が無用になってゆきます。 設定してあるレールにそって生徒が勝手に努力し勝手
に良くなるからお説教は大変少なく、「○○目標」を生徒に考えさせる事もないからクラスに紙がほと
んどぶらさがっていない。タテマエとホンネが違ってくる可能性のある指導は避けるのです。
増山良夫もその方法を改良していった先進的教師たちの一人でした。
彼らは子供が大好きで彼らの本音を理解しようとし、具体的指導1つ1つをその場で工夫したので
すから、1つ1つの工夫が日本最初かどうかなどと考える事はほとんどない…ですから具体的指導を
誰がいつ工夫したかわからない事が多い。 新らしい教育理論だという意識がほとんどないのです。
確かな増山良夫の仕事として「運動部から文化部まで全部の部が連合して同じところに合宿」して、
その合宿を事実上の林間学園とした…という日本最初の実践があります。
当時普通の林間学校は、どこかの山に登らせるというものでした。百人以上の生徒が行列のまま狭
くて急な山道を登りますから、生徒は自由に休むことができず大変くたびれてしまうし、一般のハイ
キング客にとっては道や休憩場所を占領されてしまうという大変迷惑な行事でした。それに生徒の個
性を無視したおしきせ行事ですから生徒のやる気があまりでない。
教育の思想として3つの考え方があります。
1・ 「貧乏人は麦を食え(敗戦後食糧難時代の大臣暴言)」 に似た差別教育の思想
2・ みなに同じ定食を与えるべきだという教育思想。
3・ メニューを選ぶ事ができ、どのメニューもおいしくするという思想。 つまり「誰でも同じと
いう素朴な平等」でなく、「個性を尊重し、異なる個性を認め合って平等」という思想です。
現在はドイツやフランスで3の考え方がかなり有力になっていますが、先進国の子ども達に歓迎さ
れる教育方法だと考えられます。 クラブ連合合宿は、好きで入った部活動をするので生徒達のやる
気がでますから、教育効果があがるはずです。 この連合合宿をはじめた教師は今村哲郎です。 合
同合宿を全部の部が参加するという点で事実上の学校行事にしようと提案実行したのが増山良夫です。
テニス部の指導で増山良夫が工夫した事は、「区の大会を、学年別・部員全員が参加する大会にする」
という事です。 テニスのような個人競技では「上手な者と下手な者がいる」「3年部員より2年1
年部員のほうが上手な場合がある」という矛盾が問題になります。
「選ばれた者」だけでなく部員
全員に目標を持たせ努力させるには学年別個人戦をすれば良い、という増山良夫の提案で練馬区の大
会はそうなっています。もちろん学校対抗の団体戦はそのままで、上手な生徒が活躍する場です。
また出入り業者を介して、一線級のプレーヤーを招き、そのプレーを見せるだけでなく、生徒たち
全員に対して短い時間づつ相手をしてもらい、テニスの技術の深さを全部の部員に感じてもらうとい
う指導も行っています。「一生懸命やれ」というお説教は不要で自然に一生懸命になり、一生懸命やる
のが当然だといつのまにか生徒が考えるようになります。
このほかにも本人が無意識のうちに行う新実践がかなりあったと思われますが、引っ越したときに
資料つまり教師会や部員指導で使われたプリントの大部分を処分したとかで資料が残存していない。
兄貴のくせにどうして、本人に詳しい事を聞かないんだ、といわれれば良夫は「実践とその工夫は
面白いが、抽象的理論的な話を面倒くさがる」人物でその上忙しすぎたということだと思います。
餓鬼大将の時代から他人の世話が大好きで、大学院のとき、小学校から大学までの同窓会の役員を
やっていましたから、学者の父に「そんなに雑用が多くて、いつ勉強するのか」と叱られた事もあり
ました。 すべてに器用で何をやってもまわりの人々よりうまくできる上、他人の世話が好きなので
すから、○○代表、○○委員…といったものに自然になってしまい年中ヒマなしなのです。
実践について僕に話してくれたのはたった1回、病気で酸素吸入をするようになり、外にでかける
事ができなくなってからです。 ですから、1つ1つの指導で今村哲郎や他の教師から受け継いだの
か自分で新しい指導を工夫したのか、確かめる事ができたのは、指導のほんの一部で、それがこれま
で書いた事です。 皆さんの中で良夫の指導について資料を保存していらっしゃる人があれば御一報
くださると有難いです。 masuyamaakio@i-younet.ne.jpまで。
写真は真ん中が良夫で左が筆者、右が妹。 その1回のときで、酸素の管をはずして写したものです。
「作品集(論文目次を兼ねる)
「酒井一幸氏の中学行事改革」
「訓話や討論より先に生活のほうを変える指導」
「部活動の先進的教師たち」
「増山元三郎伝説集」