第2節 「楽しいから勝手にまじめな努力をする」教育方法を学校教育全体に採用した教師たち

 酒井氏の考案提案した諸行事では、「班行動見学式の修学旅行」だけが原型のまま全国に普及しまし た。それまでは「観光バスでの団体旅行式」だったのです。
 他の行事は「班行動1コースで低山を歩く」「班行動1コースで高山に登る」「クラス参加式の文化 祭」などに変形されて全国に普及します。なぜでしょうか。

 1つの原因は教師に山岳部出身が少ない事だろうと思います。コース自由・道草自由の遠足とか、 多数コース臨時班行動で高山に登る場合は、正確な地図が必要になります。市販の地形図は空から見 た立体写真をもとに作られますから地形は正確であり、古く作成された地図でなければ広い舗装道路 も正確に書いてあります。しかし細い道は空からではよく見えないので間違いが大変多数となり当時 は都市近郊の低山・山村の地図だと20-30箇所程度の間違いが普通でした。また高山地図での道記入 がない事も普通で、逆に崖くずれの跡が航空写真を見て道と誤認され記入されている例もあり危険に つながります。

 現在ならば、高い山ではたいてい登山家の作った登山用地図の市販がありますし、低山ではオリエ ンテーリング協会の作った地図があり、古くなければ信頼できます。しかし当時はオリエンテーリン グやウォークラリー用の地図、正確な登山地図などを自分で作る必要がありましたから、大多数教師 にとって酒井氏の真似は困難であり、酒井氏の勤務校と自分の勤務校が近くて酒井氏作成地図を採用 するのでなければ酒井式行事をそのまま行う事が事実上不可能でした。

 しかし文化祭も変形行事が普及したという理由を考えると、「酒井氏の考案行事では生徒活動が教 師の管理下にない」という事のほうが変形の主原因と思われます。文部省も教職員組合も左右の対立 は別として「生徒を教師の管理下で教育する」「教師は生徒の模範となり先頭に立つ」という思想に基 づく教育方法を推進していました。ですから班単位の行動という形式は取り入れるが、「楽しいから生 徒が勝手にまじめになり、努力する」という方法論つまり「教師の管理下にない生徒の活動・努力」 に期待する方法は排除されたのだと思われます。

 しかし酒井氏の勤務校(現在の西東京市)の近く、すなわち東久留米市や練馬区内西側の学校には酒 井氏発案の行事が口コミで伝わり、「現在実現可能な方法で最も楽しい方法を生徒に知らせ、実現のた めには生徒がどれだけ努力すれば良いかを理解させる」という方法論がある程度採用されていました。 ですから行事以外の学校生活全体にその方法を適用する教師たちは近隣校から出現しました。
 つまり「生徒が勝手にまじめになり、勝手に努力する」から「訓話・お説教」「叱咤激励」「目標・ 徳目についての討論会」などが学校ではほとんど無用という諸指導法が発見されたのです。

 簡単な例でその方法の実例を示しましょう。
「学校にトランプを持ってきて良いか?」という問題を考えてますみます。
1.  「トランプ持込みを認めれば、どうせ授業時間に食い込んでトランプをする生徒が出現し、授 業の用意をしないことになるから実質的授業時間が短くなる。だから禁止すべきである。」
 この「子供性悪説?」というべき指導では、次第に潜行?が巧妙となり、授業時間に食い込むトラン プ遊びで叱られる生徒は中学1年、2年、3年と増大すると言ってよい。つまり教師の善意でなく結 果を見れば反道徳教育だと考えてよいのではないでしょうか。
2.  「生徒を信用すべきであり、生徒に自由を与えるべきだから、トランプ持込みは自由とする。」
 この「子供性善説?」でも、授業時間に食い込むトランプ遊びで捕まる生徒数は1年、2年.3年と 増大します。この方法も結果からみれば反道徳教育なのではないでしょうか。

 生徒と話し合い、「トランプ持込みは授業時間に食い込むトランプ遊び事件がなければ自由とする」 「つまり違反がなければ自由だが、違反があればそのクラスは1月自由停止とする」「2クラスで違 反がある学年では学年全体で停止」という第3の方法があります。
 具体的には生徒の学級委員会や生活委員会と学年教師代表が話し合い、そのあと各クラスでの話し 合い・決議となります。これで違反は滅多におきないし、「2.3年になると違反例増大」という現象も 絶無になります。
 やはり「現在実現可能で一番楽しい方法を生徒に知らせ、彼らの勝手な努力に期待する」という考 え方になっています。それでも授業時間に食い込んでトランプをしようとする生徒に対しては遊び仲 間が「それはヤバイからやめておけ」と忠告する事になります。自分の自由・権利がなくなると困る からです。

 他の例で考えましょう。  「昼食座席は授業座席と同じく教師の管理を前提としたものにすべきだ。自由にすると仲間はずれ が出るから良くない」
というのが教師多数意見だと思われますが、自由座席は生徒大多数の希望です。そのほうが楽しいと いう理由です。
 「最も楽しい方法を示し、生徒がどれだけ努力すればその方法実現となるか明らかにして、生徒の 努力を期待する」という方法を適用したらどうなるでしょうか。

 「座席は自由,つまり友達グループ毎の座席になるように机・椅子を動かして良い。ただし仲間は ずれがあったら自由座席は禁止」という約束を生徒とする事になります。
 そうすると、いじめられっ子を親切グループが入れてくれます。今まではいじめられっ子の味方を すれば、自分も被害者になりますから味方をしなかったのです。今度は「お前らの自由のために、入 れてやっているのだ」という大義名分ができますから、入れても被害者にならなくて済むことになる。  これでいじめの程度が軽くなり、「被害者に対してイヤな顔をする」程度になるのが普通です。被害 者にうしろだてが出現したからです。 すべての子供にとってより楽しくなりましたが、いじめっ子 たちもいくらか良くなったのです。

 これらの指導は誰が最初かわかっていません。
 酒井氏が前記のような学校行事を行うときは、多数派になったから可能だったのですが、それら酒 井氏を支える人々から出た実践は誰が最初かわからないものが少なくないのです。酒井氏の勤務校だ った保谷市立(現在は西東京市立)ひばりヶ丘中学や東久留米市立南中学には氏に近い教師がかなり多数 いました。また周辺校にもそのような人々がいました。その一人が今村氏だったのです。

 確かな今村氏の指導例を紹介しましょう。
 まだ中学給食のない時代です。校門の前にパン屋があり、職員会議に「昼休み校外に出てパンを買 うのを許可してほしい。」という生徒会からの要求がありました。この要求は親の要求でもあります。  今村氏は教師代表として生徒代表に質問します。「いままで禁止としていた理由を君たちは理解で きるかナ」 そこで校門とパン屋との間の広い道路は車が多く事故が心配とか、時間制限の問題など についての話し合いとなりました。結局生徒会で監視係を出すという対策を考え、その条件で許可と いうのが職員会議決定となります。

 「現在実現可能な範囲では生徒要求を通す」「そのためにはどれだけ生徒が努力すれば良いか明ら かにする」という方法になっています。今村氏の勤務校である東京都練馬区立石神井中学校では氏が 中心となりオリエンテーリング遠足やグループ参加式文化祭が行われていました。その方法を行事以 外にも適用した事になります。

   
    今村氏と松本教諭 まわりに生徒ボート多数 
 今村哲郎氏は肩幅が広く相撲力士のような体格の人物でした。溝にはまった車に二人(三人?)が苦労 しているところ、一人でやるといって車を溝から出したというジャンヴァルジャンのような怪力伝説 の持ち主で、二升二合一度に飲んだ事もあれば40歳をすぎて昼食に天丼・ライスカレー・ソバ4杯 を平らげるという伝説を作った事もあり、それに加えてヘヴィースモーカーですから当然短命でもあ りました。葬儀のとき弟の昌平氏から「無限院自由豪快哲士」という戒名をもらっています。  子供の時代から喧嘩が大嫌いで他人に譲る事が多かったといいます。喧嘩をすれば当然勝つ事にな りますが、その後を考えると相手が気の毒になってしまうからだったといわれていました。巨体に似 合わず大変涙もろい感激家でもありました。親切なので同僚や父母の人生相談に応じた事も少なくな かったそうです。土曜日には「付録」つきで帰宅する事が多かったと夫人が述べています。施設の子 供たちを私宅に招いて腹いっぱい御馳走を食べさせる会も毎年の行事だったそうです。

 小学校や中学校、一部高校では授業中私語の問題があります。先生が直接叱ったり授業態度につい ての討論をしてもしばらくすればまた授業中騒動が復活します。騒動は1学期、2学期、3学期とだ んだんひどくなり、進級のときクラスを解散し組みなおしてお喋り仲間を分裂させるという対策をと るのが普通のようです。
 ではどう指導したら良いのでしょうか。その対策を考える時に問題になるのが1971年秋に成見克 子先生が担任である東京都練馬区立大泉中2年K組で行われた「(授業中騒動の)反省会」です。驚い たことに「反省の必要はない」という結論が満場一致。「子供たちが授業態度について本当はどのよう に考えているか」がよくわかる授業中騒動反省会だったのです。

 成見氏担任学級の授業態度は当時大学院生で時間講師だった私の授業では理想に近いものでした。 単に授業中私語で叱られる生徒がいないとか授業中発言が多く内容豊富というレベルではありません。  当時の中学理科教科書には浸透圧が扱われていて、
「砂糖水の入っているほうと水だけが入ってい るほうの間に膜がある。その膜には穴があり、小さい水分子は通すが大きい砂糖分子を通さない。だ から水の入っているほうから水分子が砂糖水のはいっているほうに移行する」
という説明がついていました。

 この説明は間違いですが、間違いの理由解説は面倒だと教科書どおりの説明をしたらすぐ質問が出 ました。
 「どうして砂糖水のほうの水分子は水の入っているほうに行かないんですか? おなじ水分子でしょ う。」
 このパンチでアルバイト先生はノックダウン。仕方がないので、「実は教科書の説明は間違いで あり、間違いを教えて申し訳ない」という平謝りとなります。すると本当の理由を教えろという発言 が続出し、とうとう浸透圧の原因がエントロピー増大原理であるという臨時授業をさせられてしまい ました。砂糖水と水を一緒にすると分子が勝手に動きまわるので攪拌しなくても次第にまじりあい均 一な薄い砂糖水になります。間に膜があれば同一濃度のうすい砂糖水になろうとする即ち水の入った ほうから砂糖水のほうに動く水分子のほうが逆に動く分子より多くなる、というのが説明道筋となり ます。

 
 それから2週たって教科書にあるレンズの説明図を読み上げました。
 教科書には上の図に似た絵が書いてあり
 「レンズの中心に入った光は直進する」と書かれていますからそう言ったのです。
 すると「レンズの中心に斜めに入った光がまっすぐ進むということになっていますが、前の授業で はガラスに斜めに入る光は屈折すると習いました。」という別生徒の発言が出て、またダウン。

 教科書には左図に似た絵があります。
 もちろん斜めに入った光は屈折しますから、レンズの中心に入る光も屈折します。
 ただし出るときは逆に屈折するので、ある程度まっすぐに近い。無限に薄いレンズなら直進となり ます。
 そこで「レンズの絵は不正確で本当は少し曲がるのだ。だから右の実像のところに光が集まるとい うのも不正確で大体集まるというだけだ。」「この現象があるので写真機では多数のレンズを組み合わ せて曲がりの影響を少なくしている」という説明をさせられてしまいました。以後は教科書の誤りに ついては誤りである事を話し、誤りだが試験のために誤りを暗記するようにという授業になります。

 教科書や教師の間違いを普通のクラスではそのまま受け入れるのですが、成見先生のクラスではそ うでない。当時の練馬区採用理科教科書(T社)には60箇所以上の間違いがありました。
 前記の事件を職員室で成見先生に報告したら、近くの座席の田島一作先生が「いや技術科の教科書 には100以上の間違いがありますヨ。これを見てください。」 練馬区採用の技術科教科書を見ると ドライバーの握り方を教えるための絵は6本指の手になっています。絶対に動作しない電子回路など 誤りの多くは私でもわかります。田島氏曰く「これからこの教科書を書いた連中を呼んできて吊るし 上げる教科書糾弾大会をやる事になっています。」
 たいていの教科書には大学の先生の名がありますが、大学教師が金一封で名を貸すという伝統的な 風習があり、実際の筆者は中学教科書なら中学の先生、高校教科書なら高校の先生である事が普通で す。
 有名な(故)美濃部亮吉教授が東京都知事になる前の話です。著者一覧に美濃部亮吉の名がある高校 教科書を見て「これがオレの教科書か」「やっ。ここは間違ってらア。弱ったなア」と言ったという逸 話があります。
 成見氏の学年では、学年主任の大寄英夫氏が中心となりグループ参加式文化祭の採用など行事改革 がはじまっていました。成見氏はその積極的支持者の一人でした。

   成見氏のクラス指導は生徒たちの話によれば次のような定型的指導でした。 「あなた達の本当の希望を言いなさい」
「それで責任が持てる?」または「それで何か悪い事はない?」
「責任の持てる方法を考えたら希望通りで良いです。」
 この定型的問答が「現在実現可能な方法で最も楽しい方法を明らかにし、次いでその実現のために 生徒がどれだけ努力すれば良いかを明らかにする…そうすれば生徒は勝手にまじめな努力をする」と いう方法と基本的にイコールである事はいうまでもありません。成見氏の担任生徒44名のうち42名 が私宅に遊びに行った事があり、何回行ったかわからない生徒多数という結果も当然でしょう。氏は 20代の若い先生で生徒と遊ぶのが好きだったのです。
      「基本的にイコール」という表現をする理由は章末の注で。 「基本的にイコール」という表現をする理由は章末の注で。
 生徒と担任が大変親しく、私や担任成見氏授業での授業態度は素晴らしく、練習問題の授業では生 徒が教室を歩き回り優等生に解法を聞く事が普通になっていますし、定期テスト得点平均は11クラ ス中最高という教科が多数です。その成見学級が教科によっては授業中大騒動となり、担任が苦情で 困っているというのです。不思議に思った私は成見先生にお願いして、「(授業中騒動の)反省会」を傍 聴させて頂く事にしました。。

 反省会のはじめは「もっと静かにしなければいけないかなあ」という発言もありましたが、成績が 学級男子3位であるO君の「でも、あの先生の授業はつまらない。冗談の1つも言いたくなる」とい う発言を境として雰囲気一変。「そうだそうだ。成績が学年最高なのに少しぐらい騒いで何が悪いか」 「勉強はちゃんとやっているのだからいいではないか」という発言が連続し、ついに「何も反省する 必要はない」という満場一致の結論。困った成見先生は下を向いたまま黙ってしまいました。。

 騒動の心理的段階は次のようなものらしい事がわかりました。授業のはじまりは誰も騒がない。し かしそろそろ大衆生徒が「つまらなくてわかりにくい授業を我慢するのが困難になった」とリーダー 層が判断するとそのうちの誰かが「騒いでも良いぞ」という信号を出すのです。すると一斉に騒ぎ、 モグラタタキのようになって騒動鎮圧が困難となります。しかし教師が重要事項の説明をはじめると リーダー層が「これはヤバイ」と判断して「静かにしようぜ」と発言する。そうすると騒動はすぐ止 む。ですからさんざん騒いで定期テストのクラス平均点が11クラス中最高となっているのです。。
 リーダーたちは「苦しい授業を我慢するのはつらいから息抜きをしたいが、テスト点数は取りたい」 という大衆生徒の要求に従って行動していると考えられます。だから先頭になって騒ぐ優等生リーダ ーたちを呼んで「オマエは学級委員(生活委員…)で優等生のくせに、なぜ騒ぐのか。けしからん。皆 の成績の事を考えろ」などとお説教を垂れ、正座させるなどの体罰を与えても全く効果がない事にな ります。彼らが皆の成績を考えて騒動を制御しているからこそクラス平均点が高いのです。。

 この現象は今村氏担任のクラスでも生じたようで、今村氏はこの現象を回避する方法を考案しまし た。校務主任(当時の互選された教頭)である氏の担当クラスがこれでは困るからでしょう。。
 授業中いつも騒ぐという生徒たちと優等生たちが教師立会いの上で話し合い「授業中騒動の限界を 決める」つまり両者が我慢できる程度に騒動をおさめるという方法です。

 エリート私立校や最優秀クラス教師を集めた私立校でないかぎり授業中我慢が大変という生徒が存 在するのは仕方ない事ではないでしょうか。授業が苦しいのに静かにしろというだけの指導では、「何 回説教されても、時には廊下に立たされたり職員室で正座させられても、やはり苦しさが我慢できな い」という生徒が多数出て当然ではないでしょうか。
 登校が苦しくて我慢困難という生徒に対しては普通登校を強制せず「保健室登校」とか「図書室登 校」といった苦しさの少ない登校をさせる指導が最近やっと普通になったようです。普通登校を強制 するとそれに耐えられない生徒はますます症状(?)が悪化して、暴れる事さえあるからです。
 授業が苦しくて我慢困難という生徒にも、同様な中間段階を置くという指導が心理学的に合理的で はないでしょうか。「よく騒ぐ生徒」を「厄介者」扱いしないという指導になります。

 今村先生は生徒たちと、現状での「完全自由座席」「不自由座席(教師指定座席)」の両方とも問題 があるという話し合いをして、現状での臨時座席を決めるという方法を最初に考え出しました。1月 ごとに授業態度を評価し、「授業のとき困らない、つまりテスト得点に影響しない程度と考えられる範 囲の騒動なら、より自由な座席とし、困る程度ならより不自由な座席とする」という「契約」をクラ ス生徒と行います。そして目標は授業中騒動ゼロでなく、自由座席実現となります。つまり男女とも 2-4名の組み合わせで作った班ごとに座席を話し合いで決めるというクラスをめざすのです。

 これで「まじめに努力するほうが楽しい」指導になっています。授業中騒動で有名(?)な生徒の親に も「最近は本人なりに努力しています」と言う事ができ、本人も親も担任に叱られなくて済みます。 本人が本音である程度我慢をしようという事になり、年齢が進むとより我慢できるようになり「問題 児」でなくなって行く、という事になります。本人や親と担任との関係が改善される一方で授業中騒 動も一定限度でおさまります。
 この騒動を容認するが制限するという指導方法は複数工夫されています。

 これまで紹介した指導法は「汝ら生徒が契約を守れば、教師は楽しい学校生活を保証する」という ものでありその指導法を私は「契約」と命名しました。旧約聖書にある神様と民の関係を想起させる からです。

 ここまでの事実だけを見ると「子供たちは楽しいときだけ努力し、素晴らしい行いをする」のでは ないかという疑問が生ずるかも知れません。
 しかし「条件反射」という心理学教科書のはじめに出てくる重要な生物現象があります。高校生物 学教科書にもあり、現在の中学理科教科書にもあるかもしれません。
 「いつも良い行いをしていれば、不快な場合や危険の伴う場合でも良い行いが自然にできる」ので す。犬の食事のときにベルの音をいつも聞かせていると、食事とベルの音が結びついた新しい電子回 路が脳にできてしまい、ベルの音だけで犬は唾液を出すという有名な実験と同様な現象です。通勤通 学で電車の駅に行くときも、「パン屋さんのある角を右にまがり、それから…」などと考えるのははじ めの数回だけで、そのうちに何も考えずとも、体が自動的に動いていつのまにか駅に到達するように なります。条件反射です。
 つまり生徒たちは身に降りかかる危険にもかかわらず、有志が市民運動に似た運動をはじめ、その 運動に多数の生徒が参加する結果「数の力」で勝手にいじめを実力阻止したり、タバコ生徒の暴力を 実力で阻止するようになるのですが、その例は後記します。  

 前記の成見学級は一人でもグループに数える方法で友達グループの数を数えると、男子2、女子3 で合計4グループである事がわかりました。男女混合のグループがあるのです。
この数は著しく少ない。昼休みの遊びやおしゃべり仲間を見ればグループ数はすぐわかります。 普 通のクラスではグループ数が10以上です。

 混合グループの成員は「個性が強い」という事でまとまっている事もわかりました。性格が心理学 教科書に出てくるような典型であるか一芸に秀でているという生徒からそのグループができている。 冗談が得意で話が面白おかしくにぎやかなO君やY君と絶対真面目で授業中騒動やイタズラに参加し ないM君が仲良しなのです。つまり「個性を認めあう平等」が実現されている。このグループの中に 活動的なメンバーが多く、たいていの事ではリーダーになるメンバーがこのグループにいる事から、 クラスの雰囲気を支配しています。担任嫌いというグループが存在しないというのも特徴で、クラス 雰囲気の形成に関係していると思われました。

  注 「基本的にイコール」という成見氏の「定型的指導」の表現について。
   大抵はイコールなのですが、契約内容によっては「あなたがたの本当の希望をいいなさい」の次に、生徒の希望 を具体案にするための問答が入る場合があった(「定型」にその段階が加わる)と推定されます。生徒リーダーたちは その問答段階を
意識していないから、その段階について私に知らせなかったと思われ、また私のほうでも『「成見氏 指導にその段階があるはず」と考え、「その段階はある?」と生徒に尋ねる』能力を当時持っていなかったのです。  酒井氏の行事改革では、「必要なら生徒との問答の中で問題点を示し、話し合いの焦点を絞る」方法でしたが、前 記の「完成された形」では私の提案で板倉聖宜氏考案の仮説実験授業と同じく『「選択肢」を示し最初から生徒との 問答の範囲を絞って指導を簡単にする方法』を採用しています。学者である板倉氏の場合は「最初から選択肢を示 して生徒の考える範囲を絞る」方法が合理的だという判断だったと思います。しかし学者・理論家でなく実践家で ある成見氏は酒井氏と同様、「必要なら生徒との問答の中で問題点を示し、話し合いの焦点を絞る」方法のほうが思 いつきやすかったのではないでしょうか。

成見氏学級での理科授業
 2学期10月中旬まで仮説実験授業が半分強、残りは後記する玉田泰太郎氏真似授業と中原正木氏真似授業でしたから、教材内容に誤りはありません。そのあと教科書準拠授業をはじめたとたん、教科書の誤りに従った授業をした事を生徒に陳謝せざるを得なくなるという事件が続けておきたのです。

教科書の誤りについて
 成見学級で生徒が指摘した矛盾である「レンズに斜めに入る光が直進」といった単純 な伝統的誤り(昔から啓蒙書に書かれている矛盾説明)もありますが、一番多い誤りは 「科学のある段階での統一的説明をする」のでなく、昔たとえば19世紀には正しいと 考えられた説明と20世紀以後現代の説明が同居したために論理的矛盾を生じている例 だろうと思われます。

「1+1が2になるとは限らない」数学があっても1+1は2と教えてよい」のはなぜで しょうか。1+1は2だという学問段階があり、それで多数の応用があるからでしょう。  「重さはなくならない」という段階の物理学を教える事も同様に肯定できるでしょう。  ところが化学・生物学・地学のような、よりマクロな科学になると、このような「学 問段階」を定める事が簡単ではなく、教材内容の矛盾が生じやすい。

 「モノは目に見えない小さな粒である分子からできている」という命題を小学校や中 学校で教えて良いでしょうか。その命題は多数の実験結果と合いますから19世紀には 広く信じられ、戦後になってしばらくは大多数高校でそう教えられていましたし、一部 の大学ではその命題に沿った入試問題まで出し、1950年代前半の「化学」誌では時々槍 玉に上がっていました。食塩はイオン化合物で食塩分子は存在しないし、水晶や澱粉の 分子は大きいので目に見える。その他分子からできていない物質は無数でイオン化合物 や巨大分子以外の種類は多い。
 しかしそれまではその命題にそって化学は発達し、化学工業、生物学、医学が発達し た…・そのような命題は「相対的真理」として肯定すべき場合がある。

 ニュートン、ダーウィン、ウェゲナーのような大科学者の研究に誤りがある事はよく 知られています。しかし彼らの研究を基礎として科学技術が大発展し庶民の生活が豊か になっていますから、彼らの理論は相対的真理という事になります。現代の最先端の理 論でもしばしば誤りが発見され、訂正が続いています。
 つまり現実に存在する「科学」とは「相対的真理」の集積であって、絶対的真理の集 積ではない。
 科学者の研究現場でも常に絶対的な正確さを求めるという事はできず、大学講義でも もちろんそうですから、小・中・高の教育現場でも「相対的真理」なら、現代科学水準 から見て誤りであっても教えて良いと思われます。その段階の理論に誤りがある以上、 その理論で説明できない「例外」が生じますが、その問題は上の学校にゆけば解決され ると言えば良い。 今までの理論では説明できなかった例外的現象について科学者が解 明に成功し、より適用範囲の広い新理論ができるのと同様です。

 ただし前記した高校授業や大学入試の例は誤りとして排除すべきでしょう。
 イオンや電気分解を扱うという段階では「イオンからできている物質もある」という 事になって「物質は分子からできている」という命題と矛盾しますから、理屈がとおら ず混乱となっているからです。
 「物質が分子という細かい粒からできているとし、イオンなどは例外扱いする」 教育段階と、「イオン、電気分解、巨大分子などを扱う」教育段階をわけるべきでしょ う。量子力学を学べばさらに上の理論が分子やイオン学習に伴います。

 科学発達のある段階で統一した内容の教科書を作るのでなく、多数の啓蒙書のよせ集 めをもとに教科書を作ったため「モノは原子からできている」と教えたあとで、「ツブ からできているものもある」と教える混乱内容の中学教科書が存在したのでしょう。
 電気分解とイオンを扱う段階では、量子力学以前ですからイオン化合物と分子、巨大 分子を峻別する事にすべきですが、中学教科書の半数では混乱がひどくその点での誤り だけで20以上になっています。
 電気を扱う場所では「電圧と電流を区別しなかった時代」の説明と「区別する時代」 の説明が同居する事からくる混乱がみられました。「電流の強さ」という用語は区別し なかった時代には「電気の強さ」という用語であり適当な用語でしたが、区別する段階 では電圧のほうを「電圧の強さ」とし、電流のほうは「量」としなければ、生徒が電圧 と電流を混同する原因となるでしょう。

 誤り・混乱が少なく6-7程度という中学教科書も存在しました。その教科書の一部著 者に問い合わせたところ、「問題箇所は承知しているが検定を通るためには仕方がな い」という回答でした。
 例えば「質量を天秤で測る」という記述については、中学一年生授業で「宇宙空間で は天秤が動かないから質量が測れないのではないか」という質問が出た例があります。    日本語の「質量」という言葉はmassと異なり抽象的な意味しかないので理解が難し く、なにか具体的操作と結びつけて理解させようとした結果、生徒が気づくような誤り となったと思われます。「重さ」と「質量」の区別を学ぶのはニュートン力学を学ぶ段 階(現在では高校)で十分なのではないでしょうか。他の誤り・混乱も全体の理論段階か らはみ出している事柄を「何とか理屈・実験つきで理解させよう」とした無茶要求から 生じたように思われました。

 生物学や地学では1つの現象を説明する理論が化学よりさらに多数となり一見理論(1 つづつ理論を学ぶのが普通ですから、その理論)に合わない事実・現象も多くなります。 小学校から高校まで理論段階ごとに理屈ぬきの暗記項目、例外扱い項目を積極的に許容 すべきでしょう。理屈は大学で学ぶと言えば良い。
 美濃部教授の逸話に出てきたのは高校・数学教科書です。ただし私のような素人でも名 を知るような有名数学者は大多数が数学教科書の「著者」になっていて、内容を見れば 本当の書き手ではないと推定されました。 あの美濃部先生でさえ、という感じです。

登山指導者の常識となっている錯覚
 本稿の中学登山行事の指導では「1時間に1回の休憩が良い」というベテラン登山者の常識が問題です。その常識が正しいという実験ぬきですから、その命題は相対的真理…一定範囲の実験観察で確かめられた法則ではない。

 医学・生物学の基礎実験の1つである筋肉疲労実験の結果は、はじめのうちは時間に比例して乳酸量が増大するが、あるところから急に増大」というものですから、原理的には「少し歩いたら少し休憩する」のが合理的なはずです。ただし訓練によってその急に増大するポイントまでの時間が長くなります。ですからベテラン登山者では1時間が比例の範囲に入っているからそう感ずるというのが「1時間に1回の休憩が良いとベテランに感じられる原因」だという説明が前記基礎実験からは合理的でしょう。実際の疲労実験が東大医学部で行われたという報告を聞いたのですが、その報告論文そのものは見ていません。15分に一回休み、30分に1回休み、1時間に1回休み、の比較(合計の急速時間は同じ)では基礎実験から推定されるとおり一般学生では15分に1回休みが疲労最小だったという記憶です。
より信頼できる結論のためには小学生から一般人までを被験者とした階段往復実験を行うべきでしょう。 登山をするさまざまな人での「上り下りと筋肉疲労が比例する範囲がどの位か」が問題だからです。

 


  第一章「楽しいから勝手にまじめな努力をする」教育方法が学校教育で発見される
        第一節「学校教育をこの方法に切り替えた最初の中学教師」
 
第三節 先進的教師たちの部活動 
第四節 有志生徒運動の例と発生・成功の条件 
第二章 第一節 この方法による個人の指導 
第一節 部活動と勉強
 
第二節 エスカレーターコ−ス信仰は事実と合うか  
第三節 楽しいから勉強するようになるという指導はどこまで可能か 
第四節 勉強・努力の方法を考える