一般的には家での時間割を作り、勉強の時間と休憩や遊びの時間を区別するようにします。勉強だ か遊びだか休憩だかわからない無駄時間をゼロに近づける事になります。
 教科書や問題集を相手にする場合は、何日で全部終わりにするか予定をたてて、グラフに直線を書 き、直線より上にでていれば良いという事にします。

 また受験に必要な科目の時間割り当てをする事になります。 英語は総時間の1/3、数学は1/4 残 りの時間で他の科目というあたりが一般的ではないでしょうか。

 ただし凝り性の子供にはそれに向いた勉強計画があり得ます。
 たとえば数学を中学卒業までに高校レベルの微積分まで勉強しておけば、理科の勉強は高校教科書 を無視し直接大学教養課程の教科書で勉強する事が可能になります。
 また大学入試難問の一部は大学2-3年の数学を知っていれば容易に解けるし、高校入試の難問の一 部は高校の数学を知っていれば楽に答えられます。
 レベルの高い数学を使って難問を解く事は邪道であり、苦労・努力が大切だという意見もあります が、苦労して何が得られるかといえば、その苦労だけでしょう。レベルの高い数学は勉強すると使え る論理が増える、すなわち考えの範囲が広がり考えが整理されるから頭がよくなった事になります。
 増山元三郎の自慢話の1つは、ホールデン(英)とマハラノビシュ(印)が解けなかった問題を2人の前で即座に 解く事ができたという事でした。二人は大学教科書に登場する世界一流学者です。    実験から得られた経験式を数学的に証明するとき、大変マイナーな数学分野で専門家でも学んでいない事が 珍しくないという積分幾何学を勉強していた事が役に立ったのです。
 初等数学と面倒な技術を使って難問を解くという勉強は多数の個別的技術を暗記する苦しい勉強で すが、高等な数学を学んで難問が難問でなくなるという勉強は、新しい論理が頭に入り考えの範囲が 広がって新しい世界が開けますから楽しい勉強です。

 現在は私立中学に通う優等生が増えたので以下のようにはならないかも知れませんが、公立中学の クラスで成績1番2番なら、数学で高校の微積分終了まで、英語なら「怪談」とか「あしながおじさ ん」など比較的平易な文章で書かれた文学作品読解くらいまで中学生のうちに行けるようです。  すぐに点数を上げる勉強つまり90点を95点にする勉強でなく、長期的に有利な努力をするのです。

 英語の場合は昔多数出ていた対訳が「めったに出てこないような単語を辞書で調べる必要がない」 という理由で勉強時間短縮となりますから、テキストとして適当だと思います。どうして消えたのか 不思議です…帰国子女の学習のためには特に重要で英語スペイン語フランス語中国語ドイツ語程度は あってほしい。外国語と日本語どちらかを見ると意味がわかるからです。
 そして辞書は小辞典でなく中辞典が良いと思います。辞書は稀にしか出てこない単語の意味を調べ るのでなく(稀な単語の意味は対訳を見て推定すれば良い)、英語ならget、takeとか for、onのよう によく出てくる単語の意味を調べるのに使います。大辞典・中辞典には
1. 用例を見て、外国語文にあるその場所での意味を確認 
2. 全体を見てなんとなく感ずる意味(心理学でいう意味空間)を知る 
という2つの用法がありますが、小さい辞書ではその用法が成立しません。

 これも面白い勉強だと思います。豆単語集や小さい辞書で、英文を単語ごとに日本語単語に置換し、 意味を考えるというのは人間を電卓にする暗記の学ですから苦しい勉強です。
 しかし面白い勉強は苦しい勉強より時間がかかるという欠点があります。

 優等生は教科書・参考書にある問題を半分やれば理解できる事が多いから、半分の問題を無視して 時間を節約し、先に進む方法が適当だと思います。わからなくなったら、少し前に戻れば良いし、先 生に聞くという方法でも良いでしょう。

 また反対に苦手科目の勉強では「1つの問題を長く考えるのをやめて、他人に答えを聞くのが良い」 と思います。そのとき聞く相手は先生や優等生でなく、自分より少し実力が上という友達が良い。自 分が解けない問題はその友達もかなり苦労したはずですから、的確な教え方をするでしょう。先生や 優等生は「聞き手がどこで引っかかって問題が解けないのか」わからない事が少なくないから、本に ある模範解答説明そのままの教え方になる可能性が高く、聞いてわかったような気がしたけれども、 もう一回解いてみたらやはりダメだった、という事になりやすいと思われます。

   本を読みなれている子供には是非読んでほしい本を3冊推薦します。
 どれも「普通の努力」と「ホンモノの努力」の違いがよくわかるという本です。
 ただの秀才と一流人物との違いがわかる事になります。
 荻村伊知朗「卓球・勉強・卓球」
 河口慧海「チベット旅行記」
 本多勝一「アムンセンとスコット」

 多くの偉人伝記は「ただ一生懸命努力して一流になった」ように書かれていますが、そのような超 人的能力をそなえた人間が現実に存在するのでしょうか。 「他人と同じ努力をしたのでは、結果も 他人並みである」というのが本当ではないのでしょうか。 そのような偉人伝記は超人を待望する著 者の思想、つまり個人崇拝思想の産物ではないかという疑問を私は持っています。
 一流の人間は「すべてに優れている」超人ではなく、「必要な部分で優れている」人間なのであり、 欠点欠陥も多数あって個人崇拝の対象ではないと考えるべきではないでしょうか。20世紀最大の天才 とされるアインシュタインが難関大学に合格できなかった事はよく知られています。理科と数学は抜 群中の抜群だったに違いありませんが。

 「一流になった人間はただ努力するのでなく、目的実現に必要な種類の努力は何か考え、その範囲 で努力した人間である」というのが本当だろうと思います。

 卓球で世界チャンピオンとなり、世界卓球連盟会長となった荻村氏の著書の内容は次のようなもの です。
 氏の高校時代、高度成長前の日本では卓球台をそろえる事も困難でした。その時代に高校生だった 荻村君は考えます。
 当時の卓球は卓球台の真ん中に構えて守備範囲を広くし、その上でできるだけ回転のかかった玉を 返すという戦法が一般的でした。一流選手同志の試合は、互いにエラーが少ないから大変長い試合時 間となり、一般の人々が見てあまり面白いものではなく、卓球は比較的マイナーなスポーツとなって いました。
 真ん中に構えるのでなく、卓球台のまわりを走りまわり、1つ1つの返球を力いっぱい打つように したらどうか。こうするとエラーが多くなるが、相手がそれ以上受け損なえば勝つのだからそれで良 い。しかし卓球台のまわりを走りまわる事になるから、トレーニングをしなければ体力がもたない。

 そこで荻村君はトレーニングをはじめ、力とスピード中心の攻撃戦法を工夫します。そして今まで の強豪をなぎ倒し世界チャンピオンとなりました。
 氏の戦法ははじめ日本だけで普及しましたが、外国選手が氏の指導を受けると強くなるという事実 の前に、攻撃主体の戦法と練習法が世界中で採用されるようになり、氏は世界卓球連盟会長になりま した。
 私が少年時代に見たニュース映画では、卓球台の真ん中に壁のように立って返球をする外国選手が 多数いました。現在のスピード感あふれる卓球は荻村氏以後なのです。

 河口慧海の名は登山家・山岳愛好家の間でよく知られていますが、それ以外の人々にはあまり知ら れていないようです。明治時代、チベット仏教研究のために当時事実上の独立国で鎖国中だったチベ ットにヒマラヤ越えで潜入した人物です。
 当時他にもチベット仏教研究のためチベットに入ろうとした人物は他にもいました。
しかし成功したのは河口慧海だけでした。当時は宗主国の清帝国が衰え、チベットでは世界覇権国で あった大英帝国の軍事的侵攻とそれに先立つスパイの潜入を警戒していましたから、外国人がチベッ トに入ろうとしてもスパイの疑いがあると追い返されたのです。

 河口慧海はまずインドからネパールに入り、そこにいるチベット人にチベット語を習います。ネパ ールの山岳地帯には今でも多数のチベット人が住んでいます。
 一応流暢なチベット語が話せるようになった河口慧海は、中国僧侶だという事にしてネパール首都 カトマンズより西のアンナプルナ峰近くで生活します。そこからは当時は半独立だったローマンタン 藩国を通りチベットに入る間道がある。
 ネパールにいるチベット人たちから喜捨を受け、チベット人僧侶からチベット仏教を習います。か わりに中国仏教を教えるという事にする。1年間そこで暮らしながら、石をかついで山に登る訓練を しました。

 しかしこの間道も警戒が厳しいというので、5000m以上の峠を越えてドルポに入ります。ドルポは ネパールで一番廃藩置県の遅れた地方、つまり半独立藩国の時代が長く続いた僻地中の僻地です。
 そこからまた5000m以上で雪のあるヒマラヤの峠を越えてチベットに入る。
 寒さと雪、薄い空気、急に増水する河川(雨の日が少ない山岳地帯では河の出現・消失も普通)、強 盗などに苦しめられながら河口慧海はチベットの中の僻地である西部(今でも開発の遅れた地方です) に入ります。そこの地理習慣をよく覚えてから東にある首都ラサに着き、西の出身のチベット人と名 乗り僧院に入る。
 漢方の心得があったのでダライラマの侍医にまで出世します。
 3年たってから、手紙がもとで外国人である事が露見してしまいますが、間一髪でブータンのほう からインドに抜けて生還します。

 ダライラマをはじめ、貴族達も河口慧海が外国人である事に気づかなかったというから驚きです。 そこまでうまく化けたという事になります。
 チベット人としてチベット人の風俗習慣を内部から観察する事ができたので、帰国後発表された「チ ベット旅行記」は文学的価値のある波乱万丈の旅行記というだけでなく、チベット研究に価値がある とされて英語にすぐ翻訳されました。
 仏教学者としての河口慧海の価値は私にわかりませんが、探検家としての河口慧海は世界一流に間 違いないと思われます。

 本多氏の著書は比較的新しいです。
 南極到達競争ではアムンセンがスコットに勝利した事は広く知られていますが、その原因を明らか にした本です。
 スコットも責任感の強い人物であり、普通の努力はしている。しかしアムンセンは南極点到達のた めには何が重要なのかよく考え、スコットのしなかった独自の工夫・努力をしている。アムンセンの 勝利は当然であった、というものです。
 この本は現代の本で入手容易と思われますから、具体的な内容紹介不要と思われます。

 自然科学・数学などの研究でも「ある程度専門知識がないとその事がわかりにくい」というだけで 同様なのではないでしょうか。

 しかしすべての場合にホンモノの努力をする訳には行きません。時間と労力の問題があります。数 学と英語については前記の方法がホンモノに近づく努力だと思いますが、他の分野でもホンモノに近 づく面白い勉強をする方法はあります。

 例えば枕草子とか紫式部日記といった古代文学作品を読む場合に次のどちらの方法を採用するか問 題になります。
1. 受験用参考書に頼る方法 
2. 一流学者の著書に頼る方法 
 一流学者の本は「どの写本が原本に近いか合理的に推定する方法」「1つ1つの言葉の意味を推定す る方法」「その時代に生きた人の目から見た作品」…などさまざまな事が書いていてあるのが普通で多 くの新しい世界が開けますから面白い。
 またそれらの考え方は歴史学、宗教学、言語学、文学論…などと共通の場合が多いので、それを学 ぶと高等数学を学んで難問を解くのと同じく、考え方の範囲が広くなり頭が良くなる事になります。 ただし勉強の時間がよけいにかかる。

   そこで本人にとって「必要な事での努力」とは何かという事になります。受験の事だけを考え、学 問が身につかなくとも良いなら、受験用参考書を使って勉強するほうが良いに決まっています。
 将来の進路によってどの分野でどちらの勉強法を採用するか決める事になります。

 また努力する場合は視点をどこに置くか問題になる事があります。
 「トランプがだんだん小さくなる」という手品の場合、大抵の人はトランプを持っている右手が大 きく動くのと手品師の話術に誘導されて,「大きく動く右手に視点を集中」し、肝心な場所を見ていな い。
 「ハイッ。小さくなりました。」「あれーっ。」
という事になります。
 「紙やプラスチックのトランプがすぐ小さくなるというのは自然科学と矛盾しますから、小さいト ランプをポケットか袖の中に隠し持っていて、左手で取り出すに違いない」と自然科学に反しないよ うに考え、「左手やポケット、袖に視点を集中」していれば、手品師が左手を使って小さいトランプを 出し、右手のトランプとすりかえるのがわかる、という事になります。

 ピアノを学ぶ場合、音楽大学を出ても表現力の低い演奏、つまり電子計算機の「演奏」に似た演奏 しかできない人はごく普通・多数派です。音楽家の文学的表現では「ピアノからいろいろな音を出し ていない」のです。 なぜでしょうか。
 「ピアノからいろいろな音質の音を出せる」と大多数の音楽家は信じていますが、1世紀近く前に 心理学者の兼常清佐氏が書いているように、ピアノの音が出る原理を知れば、音質を変える事は絶対 不可能という事がわかります。

 手品の場合と同じく自然科学と矛盾しないように考えれば、「音質が変化するような錯覚を万人に 与えるような演奏法が存在する」という事になります。
 1つ1つの音の音質が絶対に変わらないとすれば、「パターン認識つまり微小な音量変化や長さ変化、 速度変化の組み合わせのために錯覚が生ずる」という解答しかあり得ません。
 そこで微小な音量・音の継続時間・速度の変化に注意して名演奏家の演奏を聞く事になります。
 一番わかりやすいパターン(組み合わせ)は「メロディーや楽句の最後を弱くすると、全体がソフト に聞こえる」というものでしょう。ですから悲しい、静か、上品…などの印象を与えるためにはメロ ディーの最後を弱くし、力強い、派手、直線的などの印象を表現するには、最後を弱くしないか強く するのが原則となります。

 ソフトに聞こえるようなパターンは他にも数種あり、別の印象表現にもそれぞれのパターンがある、 心理的音量増大法や心理的に音量を下げる方法…すべて音量やテンポの微妙な変化に由来しますから、 それに気をつけて聞くと良い事になります。
 視点を部分的な音量やテンポの変化におかず全体をなんとなく聞いているから、表情豊かな演奏を 聞いても物理的にどう弾いているかわからない事となり真似ができないのでしょう。
 以上の「音楽に存在するパターン認識のための錯覚」については、最後の注のWeb論文「音楽雑話2」をご覧下さい。そこではベートーヴェンとチャイコフスキーの作品の一部を計算機に「演奏」(複数種類)させ、それらの「演奏」1つ1つの音の物理量を数表とオシロスコープ画像に似たグラフで示すと共に、パソコンやスマホを使えばピアノそっくりの音が出るようにして「心理的に生ずる錯覚としての音質変化」と実際の物理量(音量・長さ・テンポの極くわずかな変化)との関係を誰でも確認できるようにしてあります。
 この学習も世界が次々に開けますかに楽しい努力となります。機械的練習は苦しいが、日に日に表 現力の上がる練習なら楽しい。
 ただしこの学習をするときは名演奏家としてラフマニノフを選ばないほうが良いと思います。現在演奏が残 っている演奏家ではパターンの種類が特別多く、使う頻度も多分最高ですから、パターンが何重にもなってい る場合が少なくない事になり、分析が難しいです。また音質が悪いと分析が難しいので、安物レシーバーでな く良いスピーカーを使いたいです。 
 前記の音楽家信仰は自然科学に反するだけでなく、「視点を集中する」の反対である「視点をぼかす」 のに役立つ迷信ですから、有害としなければならないでしょう。手品なら視点をぼかす事がお笑いに つながる事になりますが…。

 「視点を集中する」方法である程度普及したものに、美術授業での写生「キミ子方式」があります。 「よく見て描きなさい」とか「注意して見て描きなさい」と言う指導は事実上「もう一度ぼんやり見てから 描きなさい」という指導になっている事が多い。 「よく見て」といってもどの部分を見れば良いのか 子供にはたいていわからないし、「注意しなさい」と言っても大多数の子供は何に注意すれば良いのか わかりませんから、無意味指導になってしまうのです。
 「必要なところに視点を集中するよう具体的な指導」をすれば大多数の子供にとって写生が容易になるというの がこの方法で、時々前記の「楽しい授業」誌に登場しています。

 前記のように専門家というのは、専門での努力が楽しいから専門家になったはずです。
 ですから、どの分野でも、楽しい努力は可能なはずです。
 ただし苦しい努力(受験用勉強)より時間がかかる事が多い。
 受験勉強の本質は「いかにして今すぐ点数を上げるか」という勉強であり「面白さ・楽しさ、将来の 発展の芽となるような内容を極力切り捨てた勉強」だと考えられます。

   結局のところ私の考えとしては、
1. 部活動や同好会、生徒会、スボーツクラブ、習い事…その他何か本人が自尊心を保てるものがあ れば、受験勉強だけという選択があり得ます。
2. 勉強だけという場合は、どこかの分野でホンモノの勉強をするほうが良い事が多い。
  抜群中の抜群でなければエリート校に入ったあと平均的成績・平均以下の成績で自信がなくなり、 「優等生」である事が楽しかったのにそうでなくなるから、自尊心を保てなくなり、すべてに消極的 退嬰的になって劣等生に転落する危険性があります。
 前記のピアノの例でいうと、自分で発見(再発見)した表現手段があれば、機械的技術で自分より優 れた同輩や全般的表現力で自分より優れた同輩に対して劣等感を持たなくて済みます。発見する表現 技術は、作曲者・演奏家の精神世界と学ぶ側の精神世界が重なるところで容易でしょうから、個人に よって再発見しやすい種類が異なるはずです。
 数学、理科であろうが、国語、社会…・であろうがホンモノの勉強で個性的な能力を育成すれば同 じ事が言えるでしょう。

   ホンモノの勉強には時間がかかるという欠点があるので、1つ1つの分野につき、適当なテキスト の選択をはじめ、細かい指導の改良を積み重ねて、受験勉強との所要時間差を少なくする必要があり ます。それは前記した仮説実験授業ほか楽しさの点で優れた諸授業採用時に、普通の授業との所要時 間差を少なくする事が必要なのと同様です。
 そのためには多数の教師・親・学者の協力が必要だと私は考えています。

   日本経済が停滞している事は誰でも知る事実ですが、「個性的努力の経験なし」の青年が大多数のま まで経済規模・人口とも日本と大差のあるアメリカ・中国やこれから発展する多数の国々に対抗して ゆけるのでしょうか。大多数の青年が個性的努力をするようになり、それぞれの得意を生かした工夫 を大企業・中小企業・農業漁業などあらゆる現場でする事が必要ではないのでしょうか。

 第一章「楽しいから勝手にまじめな努力をする」教育方法が学校教育で発見される
        第一節「学校教育をこの方法に切り替えた最初の中学教師」
 
第二節「楽しいから勝手にまじめな努力をする」教育方法を学校教育全体に採用した教師たち 
第三節 先進的教師たちの部活動 
第四節 有志生徒運動の例と発生・成功の条件 
第二章 第一節 この方法による個人の指導 
第一節 部活動と勉強
 
第二節 エスカレーターコ−ス信仰は事実と合うか  
第三節 楽しいから勉強するようになるという指導はどこまで可能か 
酒井一幸氏の中学行事改革
訓話や討論より先に生活を変える指導 ピアノの音質が変わるように聞こえる錯覚の実験