前書き… 約700人!!の旧生徒が葬儀に参列
今村哲郎先生の葬儀には約800人が参列しました。1978年8月12日の事です。
参加者の一部は親戚・知人であり、勤務校ブラスバンド部と生徒代表が参列していましたが、大多
数は旧生徒でした。3年間の闘病生活後であるにも拘らずなぜ700人位と推定される中学旧生徒が葬
儀に参列したのでしょうか。
今村氏は常識を絶する人気教師でした。「子供が勝手にまじめになり努力する」という教育方法を全
面的に採用改良し、「お説教」とか「さまざまな徳目についての討論」などをほとんど不要にしたので
す。
氏は映画監督今村昌平氏の実兄です。
でも「子供が勝手にまじめになり努力する」などという夢のように聞こえる教育方法が本当に存在
するのでしょうか。
「土日の昼は寝ころんでテレビを見ながらカップラーメンを食う」といった生活をしている子供を例として考えて見ましょう。
「家では自由なのに学校では規則がうるさい」と考えるのが自然ですが、それに対する伝統的指導は
「規則が合理的だという教師の説得」か「規則が合理的だという討論」でした。
「規則は無いほうが自由で楽しいから、規則を守りたくない」という彼らのホンネを教師説得や討論で変える方法の効果はどの程度でしょうか。
大多数の公立学校では「道徳教育」時間や「生活指導問題でのクラス討論」などがあるのに「ハミダシ」「ツッパリ」「不良」などと呼ばれる「問題児」がたいていのクラスで発生しています。 本文にあるような「規則があったほうが楽しいという経験をさせる方法」に比べると効果があまりにも小さい。
効果の小さい理由は次の簡単な実験から容易に推定できると考えられます。
この紙をコマに貼ってまわします。紫と橙を混ぜた色が見えるはずです。
その結果は
1. 赤に近い
2. 濃い灰色か黒に近い
どちらが正しいでしょう?
これに対して大多数美術教師・画家を含む多数派は2と答えます。
しかし、結果は?
動画でコマを動かす実験を見せる事が素人の私には困難なので、Photoshopの「ゴミやキズの除去」を使って電子的に混合を行います。 コマで実験しても同じ結果ですから実験してみてください。
混合の結果は 桃赤色ですから、赤に近い色が正しい事になる。
美術の講義・授業では「色環」を扱っているはずです。
赤と黄の混合では色環で中間の橙になり、赤と青の混合は中間の紫です
から理論で考えれば「紫と橙の混合は赤」という事になります。その理論を習ったり教えたりしているのにどうして間違うのでしょうか。
絵を描くとき、色を混ぜると(減色混合ですから)濁ります。その経験から「濃い灰色か黒に近い」という推論が発生し、その推論は自分の習った理論、教壇で教えている理論に優先しているのです。
理科授業で「自然発生するアリストテレスに似た考え方と対決しなければ科学的認識に達しない」という考えを世界最初に述べたのは国立教育研究所の板倉聖宜氏です。
東大理学部学生になってもその自然発生する間違った考え方が残っていて、小学生でも答えられる力学問題に誤答する学生達がいるという調査結果を氏は示し、学部長を驚かせました。
氏の提唱した仮説実験授業では生徒から自然発生する誤った考え方と科学的推論のどちらが正しいかの対決実験を行うようになっています。
2章に記す3種の授業では、理論を教えるとき子供たちから自然発生する誤仮説・誤解釈の間違いを子供自身に悟らせる授業であり、子供達から自然発生した考えをそっちのけにした実験計画や実験解釈をしない、つまり理論を上から与える事がないようになっています。
この「科学の理論」と「身の回りの狭い経験から自然発生する誤仮説」との関係は「タテマエ」と「ホンネ」の関係に似てはいないでしょうか。
前記の「休日の昼は寝そべってテレビを見ながらカップラーメンを食う」といった子供達は「規則などないほうが良い」と考えて「問題児」とされる事が多いのですが、「規則なしが楽しい」という考えは「身の回りの狭い経験から彼らが得た一定の根拠を持つ考え」です。「規則はないほうが良い」という考えは彼らの経験から見れば正しいのであり、上から別の考え(正論)が注入されたとしてもそれは別世界の話で「ホンネ」は変わらない事が多いのではないでしょうか。
子供の生活環境はさまざまですから、
「規則はないほうが良い」
だけでなく
「勉強はつらいから親や先生に叱られない程度で良い」
「努力はつらいからなんでもテキトウ、つまり中途半端にやれば良
い」
などのさまざまな「ホンネ」が成立しています。
これらの間違った考えに対して、教師・親・優等生などの説得は必ずしも有効でなく、おそらく大多数の子供がこれらの「常識?」の持ち主です。
それは前記の色環についての理論が専門家にさえ定着していないという事実、初歩レベルで間違った考えを保存していた東大理学部学生達がいたという事実と同様な現象ではないでしょうか。
説得や討論でなく、子供たちに「君のホンネは間違いだ」という事を実際の場で体得させるのが有効というのが以下の内容となります。今村氏など先進的教師たちはその具体的方法をかなり開発し、常識を絶する結果を得ていましたが、「教師の説得や討論でなく実際に考えの正否を体得させる方法」は今までの教師・教育学者の「教師が生徒を直接指導するべきだ」という「常識」に反していますから、普及困難だったのです。
「教師(大人)が生徒(子供)を直接言葉で指導する」と「言葉による直接指導を極力避け、生徒(子供)のホンネが誤りである事を生徒(子供)自身が知るような場を連続して与える」という2つの方法は片方が絶対的に優れているのではなく、どちらが合理的かの判定条件については後に考えます。
「規則を真面目に守って努力すると楽しい」という経験を学校で何回かさせれば、彼らは「規則があるほうが楽しい事もある」と考えるようになり、「多数の規則を真面目に守る努力をする」ようになってゆくでしょう。
第一章は「そのホンネを直接変える」よう設定された行事である「コース自由・道草自由遠足」からはじまります。
授業中私語・騒動をなくすには、「問題児」説得や討論より、「楽しくてよくわかる授業」の体験をさせるほうが遥かに効果のある事は誰も否定できない事実です。「まじめに授業に参加するほうが楽しいと子どもたちが考えれば私語・騒動はなくなる」事になります。
「何でもいい加減にやるほうが楽」という子供達多数派のホンネは「真面目に一生懸命努力するほうが楽しい」ように設定された諸場面に子供たちを誘導すれば変えられます。
これらの心理学を基礎とする指導は1969年の行事改革にはじまり、やがて学校の規則から「いじめ」や非行の対策にいたるまで「生徒のホンネを変える場」を作り出す方法が発見されます。タバコ暴力集団・いじめ加害者集団などの暴力は大多数生徒の参加する有志運動の力で実力制圧され、「問題児」が急減したいていゼロになりますから「正義やおもいやりについての説教・話し合い」が不要になりました。
今村氏はこの指導方法を全面的に採用し発展させた最初の教師の一人だったのです。
第一章は「学校行事」で最初にそのような方法を発見した教師とその方法を全面的に拡大適用していった教師たちの物語です。 具体的な場面での選択肢を示し、その例を多くして他の指導方法との根本的違いが自然にわかるようにしたいと思います。
「教育学」が科学であるなら「目標」1つ1つについて「具体的実現方法」が提示され、「どれだけ実現されたかを検証する方法」が必要なはずです。 目標だけで実現方法や検証方法なしでは「夢」にすぎない。
教育学での検証方法は「教育実験の類型と方法」(増山明夫1982東洋編・第一法規「授業改革事典」の1節)にあるように2種あります。1つは「それまでは考えられなかったような素晴らしい結果が出る」場合で、医学でいえば初期の抗生物質使用療法のような場合ですが第一章ではすべてその基準が採用されます。
もう1つは「それほどはっきりした結果ではないが、数字・統計学を使った実証が可能」な場合で、医学でいえば大多数の医薬品の有効証明がその場合であり第2章はそちらの基準を採用します。
以下の事ははじめての発表ではありません。しかし少数の例外的な場合を除き、「結果が良すぎるのは捏造に違いない」という宣伝が行われたり、心理学的根拠は「そういう考えもある」と棚上げにし(つまり自己の信念を科学より優先)、「数字についてはわからないから無視」という「魔女裁判の論理」を支持する人々つまり「いかなる根拠があろうとも絶対に認めない」という人々に発表がはばまれたのです。部分的には「科学教育研究」(当時の仮説実験授業研究会機関誌)、「山と仲間」(当時発行されていた勤労者山岳会機関誌)、練馬区教研委員会発行学習パンフレット、教育工学研究(学会誌)などに発表されています。またそんなに良い結果がでるのだからよほど優秀な教師でなければ実行できない、一般的でない」と主張する人々もいました。
以下の指導では熱血教師・ヴェテラン教師の苦労している「学年目標、学級目標について討論しましょう」など「タテマエとホンネが矛盾する子供」を作る危険のある指導をはじめ「善意・善行を上から与える」[子供を説得する」という大変困難な指導を極力避ける事にするから名人芸は不要です。「自然にタテマエとホンネが一致し、自然に善行をしたくなる」ような場をプログラムに沿って連続して与えるようにすれば教師目標はいつのまにか達成されます。
第一章の物語では、常識を絶した素晴らしい結果が「定型的指導」で実現した事を記しています。医学では「効果の実証された定型的治療法」が主であり、医師の個人的力量の効果はたいてい二次的ですが、教育も科学の一分野である以上「効果の実証された定型的指導」が主で良いはずです。
授業では「定型的指導」が主で良いという考えは理科教育での板倉聖宣氏が最初ですが、ここでは生徒指導全体を心理学に忠実な「定型的指導」に極力置き換えるべきだとし、その定型を示します。
第二章は「子供集団全体の指導」でなく「子供の個人指導」を扱い、その最初は「部活動を中2でやめた子供の3年卒業時成績は上がるか下がるか」という調査結果の報告です。
しばしば教師や父母の論争の的となる
予想『部活動をやめると勉強時間が増大するから成績上昇』
予想『部活動をやめると子供は人生が面白くないから真面目な努力をしなくなり成績低下』
のどちらが正しいか」は実際に上昇した子供の数と低下した子供の数を調べれば一目瞭然です。
子供個人の「楽しい生活、生きがい」の効果は、「期待される勉強時間増大」の効果をはるかに上回ると解釈されます。子供も人生が楽しいときだけまじめな努力をする場合が多いのです。
次が「子供を難関高校に入れれば、難関大学に入りやすい」という俗信の検討結果です。
難関高校からは難関大学に多数合格しますが、難関高校の生徒は「受験勉強」というレースで高校入学時にやさしい高校に入った生徒より先にいることになります。スタートで先にいれば、3年あとの大学入試のときも先にいて当然です。俗信が正しいかどうか判定するためには、中学成績が同じ生徒同士で難関高校に入った生徒と合格容易な高校に入った生徒の大学進学先を比較しなければなりません。
予想「難関高校では競争に負けまいとしてよく勉強するようになり、難関大学に合格する可能性増大」
という俗信の根拠になっている心理効果と
予想「中学では優等生である事が楽しくて勉強していたが、難関高校では普通の成績・劣等の成績にな
る場合が多いから勉強する気のなくなる子供が多く、難関大学に合格する可能性低下」
という心理効果はどちらが大きいのでしょうか。これも実際の調査をすれば結果がでます。
東京都東久留米市五つの中学卒業生の追跡調査をしたところ、「難関高校であろうがやさしい高校であろうが、私立であろうが都立であろうが、中学成績が同じなら進学大学難度は全体的・統計的には同様で、有意差どころか差らしいものが全く認められない」という結果でした。つまり全体としては中学のときの成績が大学入試成績を決めているのであり、どこの高校に入るかは関係ないのです。上記2つの効果はあるとしても同程度で、難関高校を受験するかどうかの判断基準にならないという事になります。
では中学時代成績が平均以下の生徒は「高校3年でも受験用学力平均以下が圧倒的多数という集団」に属するから難しい大学に入っていないかというとそうではありません。成績が平均以下の中学生が早稲田大学一部や法政大学一部に現役合格している例があります。つまり生徒の受験用学力は入学のとき大差ない場合でも3年あとには大差がつき、上のほうの生徒は難しい大学に合格する可能性が生ずるのです。
そのような生徒はどうして急速に受験用学力がついたのでしょうか。
小学校のとき分数が苦手で算数成績が下のほうだった子供が、中学3年で微積分を自力で学ぶようになった例もあります。もちろん全体としても劣等生だったのに成績優良になりました。
これらの例の指導も考え方は第一章と同じで、「勉強が楽しくなったから、勝手に勉強するようになった」例です。
非行生徒など「問題児」が良い生徒になるという個人相手の心理学的に合理的な指導を今村氏ほかの指導例で示します。原理はやはり「まじめなほうが楽しいような場面を連続して与えると問題児も次第にまじめになる」という心理効果に頼る方法で、「教師の誠意」「熱血教師の活躍」に頼る文学的な方法?とは比較にならない結果だという事も示します。
ただしこの生徒、子供個人個人の指導については、「指導の大部分を効果の実証された定型的指導に置き換える」事が現在できません。 つまり努力を楽しいものにする事ができない場合が普通にあるという事です。しかしその方法の適用範囲を教師・親・心理学者・教育学者の協力で拡大してゆく事は可能と考えられますし、それを期待したいと考えています。
注 写真は当日霊前に置かれた絵。当時の白黒写真の損傷が激しい。
注2 以下の方法では伝統・常識に対して「心理学の応用」を対置し、熱血教師の名人芸に対してデクノボウでも実行可能な規格化された指導を対置しています。
「教師と生徒との間には基本的矛盾がないから、教師はいつでも生徒の先頭に立って指導すべきだ」という教師常識の正しい場合と、以下のように教師直接指揮を極力排除し生徒運動が自然に発生するような条件を作る指導の正しい場合の論議もする事になります。その判定条件は以下の章段にあるように、革命政権のもと1つの革命政党が民衆の先頭にたつべき場合と、複数政党や複数政党支持者の参加する下からの大衆運動に革命政権が依拠すべき場合の判定条件に似ていると思われます。
注3. この方法では今村氏以外でも、「卒業式あとの謝恩会という名をやめてほしい」と教師会のほうで父母に申し入れをしたが、父母の強い意向で名がそのままどころか全体・学年・クラスと3回やる事にしてなった、とか教師引退のとき生徒有志主催の送別会となり部活動があるのに8−9割の3年生が参加した・・・といった生徒,父母の圧倒的支持を示す出来事が生じています。
第一章「楽しいから勝手にまじめな努力をする」教育方法が学校教育で発見される
第一節「学校教育をこの方法に切り替えた最初の中学教師」
第二節「楽しいから勝手にまじめな努力をする」教育方法を学校教育全体に採用した教師たち
第三節 先進的教師たちの部活動
第四節 有志生徒運動の例と発生・成功の条件
第二章 第一節 この方法による個人の指導
第二節 エスカレーターコ−ス信仰は事実と合うか
第三節 楽しいから勉強するようになるという指導はどこまで可能か
第四節 勉強・努力の方法を考える